行平の章

行平1


 あたたかな感触が、まだ僕を覆っている。


 また海の夢を見ていた。でも今朝も内容は覚えていない。みるみるうちに霞がかって、僕の腕からすり抜けていってしまう。

 ただ幸せな夢だっという記憶。その心地よさだけが、上澄みのように僕の中に漂っていた。



 初めてあの人を誘った。


 彼女は僕より三つ年上で、隣のセクションに所属している。会社の大きな行事や合同の歓送迎会で、何度か言葉を交わしたことがあった。

 僕の席から振り返れば、パソコンの画面の前でキーボードを叩いている姿が見える。落ち着いた低めの声のトーンと、憂いを帯びた瞳を持つ人。


 残業の帰り際に、エレベーターで偶然二人きりになった。

 甘く華やかな香りが小さな箱に閉じ込められて、無機質なエレベーターを彩る。先にあなたを降ろす。後から続く僕の胸に絡みつくように伸びる残り香が、今だとささやきかける。


 「お腹空きませんか」と訊ね、彼女が「そうね」と軽く首を傾げて微笑む。会社の近くの店に二人で入った。長い長い木のカウンターが特徴的な店だ。

 その夜は、ただ一緒にいることに夢中で、何を話したのかよく覚えていない。家に帰ってから考えてみると、ずっと僕だけが喋りかけていたような気がして、急に恥ずかしくなった。


 二度目に誘った時は、他の店を提案した。同じ会社の者同士が会社の側の店なんて、気が利かなかったかと思ったからだ。だが、彼女は一向に気にする様子もなく「私はあの店が好きよ」と言った。


 彼女は必ずワインを頼む。色はその日の気分によって選んでいるようだったが、ルビーのように透き通る明るい朱が多かった。

 彼女にはワインが似合う。マニキュアをした白く長い指がグラスを揺らして、視線を愛おしそうに水面に落とす。その後、僕に視線を移して大きく瞬きをする。

 僕はその姿に見とれてしまって、そこから思考が止まってしまう。



 あの人に、好きになった理由を伝えたくなった。

「あなたの夢を見たからです」と。


「僕はあなたと並んで夜道を歩いている。寒いからあなたにコートを掛ける。ただそれだけなんだけれど、その日一日中、あなたのことが気になって仕方がなかったんです」

 彼女は頬杖をつきながら、僕の話に耳を傾けた。

「好きになった。だからあんな夢を見たんだ。そう思って嬉しかったんです。その夜、偶然あなたを誘う機会が訪れた。僕は年下だけど……」

「待って」

 そう言って僕の言葉を制した彼女は、そこで初めて会社の先輩ではなく、恋人みたいな顔をした。


「私、誰かの夢を見るたびに考えてたの。これは自分が相手を好きだからなのか、それともその人が私を想ってくれているからなのか。どっちだと思う?」

 遠かったあの人が、今は僕の目の前にいる。そして、僕に語りかけている。


「『万葉集』には、たくさんの男と女の恋の歌があるの。その中にね、恋するあまり夜と昼の区別などなくなり、恋焦がれている相手の夢にさえ現れてしまう、という歌があるの」

「僕の夢に出てくれたのは、僕を想ってくれたから。そう思っていいですか」

「私の方が先に想いを伝えてしまったのね。いつ気づいてくれるかしらって思っていたわ」

「僕はまだ、あなたの夢に出てきませんか」

そう僕が問うと、彼女はやさしく首を横に振った。

「きっと今夜、叶う気がするわ」





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