第三話 おろく

(一)


 床の間にあり合わせのように飾られた掛け軸。その掛け軸に描かれた阿弥陀如来の輪郭が、蝋燭のほのかな明かりを映してゆらゆらと揺らめいていた。衆生を救うという如来の顔には何の表情も読みとれなかった。慈悲も、怒りも……。ただ無表情に、欲にまみれて蠢く人間達を見下ろしている。

「入ります……張った張った!」

 壷振り女の涼やかな声が響いた。続いて、座敷のあちらこちらで木でできた駒札がカチカチこすれ合う音。

 市之進は我に返って掛け軸から視線を外し、慌てて手元にある駒札のうち三枚を横向きに置いた。「半」に賭けた、ということだ。賭場では駒札が賭け銭を表している。

 薄暗い座敷に居並んだ二十人ばかりの男たちは皆、壷振り女の右手の下に伏せられた壷をギラギラした眼で凝視していた。

「丁半コマ揃いました」

 女が言う。誰かがゴクリと唾を飲み込んだ音がした。

「いざ勝負!」

 壷が開けられた。一と六の目が出ていた。

「イチロクの半!」

 舌打ちの音。深いため息の音。「よし」と小さく呟く声。

 張り詰めた空気の中に、その一瞬、波立つようなざわめきが起きる。

(今日は調子が良いぞ……)

 関川市之進は頬をゆるませて上唇を舐めた。

 市之進は、狭い屋敷に妻と二人で暮らす、三両二人扶持のいわゆる貧乏御家人であった。

 若い頃は悪所通いもし賭事にも度々手を出していたものの、嫁をもらってからは良くない遊びからは一切足を洗い真人間になった……はずだったのだが。

 賭事とは縁を切ったつもりでいた市之進が、なぜ今こうして賭場でサイコロ遊び興じているのか。

 そもそもの原因は、一昨年、父親が亡くなって家督を継いだ頃から始まる。

 その時から関川家の家計は既に借金まみれの火の車だった。

 金に困窮した侍達の大抵はいわゆる「副業」に手を出すものだが、無駄に高い矜持を持つ市之進にそんなことをする生活力はまるでなく、自棄になった結果、日々の酒量は増える一方。そして、それ以上に借金は火だるまのように膨れ上がっていって、やがて札差の番頭から「もうこれ以上はお貸しできません」と冷ややかに突っぱねられたのがつい一月前のことだ。

 悪いことは重なるもので、その日、借金を断れられて途方に暮れて家に帰ると妻女が見知らぬ男と一緒にいた。愕然としすぎてぼんやりと戸口に立っていると、男は着物を着直すのもそこそこに大慌てで脇をすり抜けて逃げていった。我に返った市之進は狂ったように妻を何度も殴り、蹴り倒した。

 実は妻が金策のために行きずりの男に身を売っていたと知ったのは後のことだ。

 市之進は己のふがいなさを嘆いたが、しかし、その反省も束の間のことで、そのうちに市之進は自ら妻に体を売らせることを強いるようになった。

 とにかく金が欲しかった。金欲しさのあまり感情は凍り付いた。それでいて彼は、時折どうしようもない苛立ちに煽られて理不尽に妻を殴る。

 己の事を最低の人間だと自覚しながら、どうすることもできない。決して浮かび上がることのない真っ暗な泥沼の底にいるような生活が続いていた。

 そして今日の昼下がり、妻が不在の時に市之進は家に一つだけある箪笥の一番上の引き出しをそっと開けた。そこには金の入った小さな巾着袋があった。手に持つと意外にずっしりとした感触がある。それは、妻の犠牲によって得られた銭だ。

 しかし、市之進は気が付くと巾着を懐に入れ、往来をふらふらと歩いていた。

(あの寺はまだ……やっているだろうか?)

 若い頃出入りした賭場を思い出していた。浅草の浅草寺の近くに建つ小さなボロ寺の庫裏の一室が、度々良からぬ輩に占拠されて賭場となっていた。

(金のためだ)

 市之進は自分に言い訳をした。この金を倍にすれば借金を返せる目処が立つかもしれない。妻にこれ以上辛い「商売」をさせなくても済むかもしれない。

 そう考えているうちに、市之進は自分の気持ちが段々と明るくなっていくのを感じた。若い頃にやりこんだ丁半や花札の感覚を思い出すと胸が騒ぎ、自然と足取りも軽くなっていった。


「サンゾロの丁!」

 庫裏座敷に再び壷振り女の声が響いた。

 今回も当たりだ。手元に来た駒札の数を数える。だいぶ溜まっている。

 そろそろ帰ろうか。そう思って座を立ちかけた時、右隣に人の気配がした。

 つい先程まで座敷の真ん中で声を張り上げていた壷振りの女だった。

「おサムライさん、結構調子いいね」

 市之進の駒札を見てニヤリと笑う。揺れる蝋燭の明かりが女の横顔を照らした。

 さっきまでは、薄暗くてよくわからなかったが、こうして近くで見ると意外に若い。笑顔にまだ子供らしさが残っているように感じた。

「ねぇ、おサムライさん。せっかくだからあたしとサシで勝負しない?」

 女がくるりとこちらを向いた。

 市之進は息を飲んだ。

 一瞬の光の加減でそう見えるのかとも思ったが、それは「本物」だった。女の右の目の瞳は珊瑚の玉のように真っ赤な色をしている。

「赤目のおろくだ」

 戸惑う市之進の後ろでヤクザ者らしい痩せた男が呟き、クク、と喉を鳴らして笑った。

 おろくは懐に手を突っ込み、何かを取り出した。一枚の小判だった。

「あたしはコレを賭ける。そっちは持ってる札全部」

 どう? と、「赤目のおろく」は市之進の反応を楽しむかのように笑いかけた。周りの人間達もニヤニヤと笑いながら、この成り行きを面白がって見ているようだった。

 どこからか風が吹き込んだのか、灯心の明かりがちらちらと激しく揺れ、小判の金色も、おろくの赤い瞳も、燃える炎を宿しているかのようにゆらりゆらりと妖しく輝いた。

 耳の奥に、自分を引き止め、たしなめる声が聞こえる。妻の声だ、と市之進は思った。

 しかし、彼はその声を振り払った。

「その勝負……乗ろう」

 市之進は答えた。

 市之進は手に持った駒札も一枚残らず全て目の前に置いた。

 おろくの赤い瞳が満足げに微笑んだ。


(二)


 おろくは手に持った駒札の束を眺めていた。

 先程、イカサマを使って新顔のサムライから一つ残らず巻き上げてやったものだ。

(からかい半分のつもりだったけど……)

 喉元に何かがつかえているように、気分が妙に重苦しい。

 青い顔をしてフラフラと賭場を出て行ったあのサムライの後ろ姿を思い出す。なんとなく、あの男の影が薄らいで見えたのだ。

「どこ行くんだよぉ?」

 立ち上がりかけたおろくに、額に刀傷のある男が薄ら笑いを浮かべながら声をかけた。まだ宵の口だろうに、と男は言外に言いたいのだろう。痩せた男の顔に蝋燭の明かりが映って、まるで骸骨のようだ、とおろくは思った。

「帰るんだよ。飽きたから」

 おろくは、お構いなしにつっけんどんな態度で答えた。男とはこの賭場で何度も顔を合わせている。でも、おろくはこのヤクザ者の名前を知らないし、知ろうとも思わない。

「いいでしょう、親分?」

 おろくは、庫裏座敷の奥の柱に背を預けてどっしりと座る、体の大きな男に声をかけた。

 親分と呼ばれた男は、煙管を吹かしたまま何も言わなかった。無言であるという事は、良い、ということだ。

 こうなれば刀傷の男もおろくには何も言えない。

 おろくは立ち上がった。「さて、もう一勝負行くかい」と声がして、駒札ががちゃがちゃと音を立てる。そんなものを背中越しに聴くともなしに聴きながら障子をからりと開ければ、ひんやりとした風が頬を打つ。


 ほんのりと月明かりの照らす中、ぶらぶらと提灯を揺らしながら大川(現在の隅田川)沿いの道を歩いた。

 水は深い闇を宿しながら堂々と流れる。おろくはこの川の傍を歩くのが好きだった。気持ちが沈んだ時も、川の水が自分の悩み事を海まで流していってくれるような気がする。

(ずぅっと昔も、こんなふうに川沿いの土手道を誰かに手を引かれながら歩いたっけ……いつのことだったのか、誰と一緒だったのか、すっかり忘れてしまったけれど)

 道に沿って植わった柳の木の葉がさらさらと揺れて、仄白く光る五、六個の人魂がふわりふわり、上へ下へと宙を舞い遊びながらおろくを追い越していった。

 川で溺れた幼子達の霊か……おろくは目で追った。

 肉体を離れた後も、こうして友達と連れだってじゃれあいながら無限の時と空間にたゆたう者達。

 意外に寂しくはないのかもしれない。

(本当は生きているあたしの方が寂しがっているのかも……)

 おろくは溜息をついた。

 誰かとすれ違う気配。土を踏む音。おろくの横を、血の滲んだ裸足の二本足だけがサクリサクリと通り過ぎていく。

 この世ならぬ者との邂逅は、おろくにとっては日常茶飯事だった。

 おろくには、普通の人間には見えるはずのないものが見える。しかし、それは決して生まれつきの能力というわけではなく、そもそもの事の発端は、十二年前、幼いおろくが大火事に巻き込まれたことにある。

 あの日、火事の大混乱の中、気を失って往来に倒れていた五歳のおろくを父親が見つけ、助け出した。目立った怪我もしていないように見えたおろくだったが、目を醒ましてみると、右目の瞳が真っ赤な色に変わっており周囲を驚かせたのだった。原因はよく分からないが、倒れた時に目の内側に怪我をして瞳の色が変わってしまったのかもしれない。

 しかし、瞳の色以上に、おろくの視界に入る世界はその時からガラリと様相を変えてしまった。

 一番最初に見たのは、火事の時に死んだはずの兄の仙蔵だった。

 おろくと仲が良かった兄は、眩しい程の白い光に照らされた座敷の真ん中に、両手をだらっと下げて一人ぽつんと座っていた。

「兄ちゃん」

 おろくが声をかけると、仙蔵はゆっくりとこちらに顔を向けた。その目はうつろで、凍り付いたように無表情だった。おろくのことが分かっているかどうかも怪しげだ。「兄ちゃん」と、もう一度呼びかけると、兄の姿形はぐしゃりと歪み、光の中にサラサラと溶けていった。

 火事の後に新しく建て直された家の中で出会った、白昼夢のような出来事だ。

 しかし、母親に「兄ちゃんがさっき来ていたよ」と伝えると、母は「仙蔵はもういないんだよ」と答える。寂しげな表情の中、おろくの言うことに対して戸惑うような様子が感じられた。

 やがて、おろくは成長するにつれ、「自分にだけ見えることは他人に喋ってはならない」ということを学んだ。

 この世にさまよう霊魂も、幽鬼達も、物に宿る付裳神も、おろくには確かに見えるものであっても、それを口に出して言うだけで周りから気味悪がられた。

 それに加えて、ただでさえおろくは見た目が他の人間とは違うのだ。

 近所の子供たちからは赤目と言ってからかわれることもしばしばであった。

(あたしは寂しかったんだ……)と、おろくは自分の身の上を振り返るに付け、いつもそう思う。他の子供たちからからかわれ仲間外れにされたことが、ではない。

 自分が見て、感じていることを家族にも誰にも話せず、分かりあえない、ということが何よりも辛く、寂しかった。

「あの子は、あんな目の色だから嫁に行くこともできないだろう。今からでも何か芸事でも習わせようか……」と、両親が話しているのを立ち聞きし、悲しくなって家を飛び出したのがもう一年前……でも、それもきっかけに過ぎない。

 誰とも分かりあえない寂しさ、寄る辺のなさに耐えきれず、家を飛び出すしかなかったのだ。

 自分の過去を思い返しながら歩いているうちに、今度はゆらりとした柳の木の影から、白い女の顔がぼうっと浮かび上がった。

「おろくちゃん……」

 幽霊の声にしては、やけに耳にはっきりと響いた声。

「お小夜ちゃん……?」

 幽霊ではなく、おろくの顔見知りの夜鷹のお小夜だった。

 顔見知りと言っても、彼女とは一度も昼の明るい自分に顔を合わせたことはない。夜半過ぎ、今夜みたいに賭場から黒船町の裏長屋に帰る時にたまに出会っては何となく言葉を交わす。「小夜」という名前以外は彼女の過去も境遇も、なぜ大川の川端に立って夜鷹なんぞをやっているのかすら何も知らなかった。

「今日は寂しい夜だねぇ。通る人も少ないし……おかげで商売にならないよ」

 お小夜はそう言って、ケホケホと乾いた咳をした。

「おろくちゃんはお寺からの帰り?」

「うん」

「一人歩きは気をつけてね。胡乱なやつも多いから……。もっとも鬼八親分の女、赤目のおろくって言やぁ怖がって手を出すヤツもいないだろうけど」

 闇の中でお小夜がクスリと微笑む気配がする。

(鬼八の女、ね……一度も肌を合わせたこともないのにね)

 おろくは苦笑して、仏頂面でいつも煙管を吹かしている「鬼八」の姿を思い浮かべた。本当の名前は久仁八(くにはち)である。

 おろくが博徒の親分、久仁八の妾とは、全くもって名ばかりだ。久仁八は、死にかけた家出娘のおろくを拾い何かと生活の世話を焼いてくれるくせに一度もおろくに手を出してこない。何を考えているか全く分からない男だ、とおろくは思う。おろくとしては、本当に鬼八の女になっても良いと思っているし、そうならないことに、むしろもどかしさを感じてすらいるのだが。

 しかし、周りからは、おろくはすっかり鬼八親分の囲い者のように思われている。それはそれで都合は良い。お小夜の言うように、おろくに不届きを働こうとする者がいないのもそのおかげだ。

 ケホケホ……とまたお小夜の咳の音がする。

「大丈夫かい、あんたこそ……具合、悪いんじゃないの?」

 おろくはお小夜の背をさすった。

 ありがとう……と、苦しげな咳の合間にか細い声が聴こえる。

 お小夜の影も薄い、とおろくは思った。

 おろくの感じる「影」とは、光に当たってできる普通の影とは違い、おろくだけに見える命の気配のようなものだ。死期の近い人間は影も薄くなる。

 お小夜は病を抱えているのかもしれない。

 お小夜の咳が落ち着くのを待ちながら、おろくは暗い大川の水面を見つめていた。吸い込まれてしまいそうな程、深くて黒い色をしている。

 なんとはなしに川上の方向に目をやると、星の煌めく夜空を背にして吾妻橋が影絵のように浮かび上がっていた。

 その吾妻橋の上に誰かがいることに、おろくは気が付いた。

 はっきり見えはしないが、その立ち姿や歩き方に見覚えがあった。

(さっき賭場に来ていたおサムライさん?)

 あんなところで何をしているんだろう、と首を傾げたおろくの目の前で「おサムライさん」の体は橋の上から、ぽぅん、と宙に投げ出された、ように見えた。

 ざぶん……と水柱が立つ。

 おろくは息を呑んだ。

「身投げ……か」

 咳が止まったらしいお小夜が、ポツリと呟いた声が耳の奥に妙に響くようだった。

 やがて川面にぽうっと青白い光の玉が浮かび上がった。

 あのサムライの魂だろう、とおろくは思う。

 ギイ……ギイ……ギイ……

 舟の櫓をこぐ音。

 気が付くと目の前に一艘の舟が浮かんでいた。きっとお小夜には見えていない。おろくにだけ見える、この世のものではない舟だ。

 ギイ……ギイ……ギイ……ギイ……

 櫓を漕ぐ船頭は、角張らせた骨を月明かりに光らせた骸骨だ。

 舟の舳先には、着流し姿の男が懐手で佇んでいる。

 男はおもむろに手を挙げて川面に向かって手招きをした。それに誘われるようにふらり、ふらりと青白い人魂は男に向かって飛んでいく。

 男が手を差し出すと人魂はその上にすぅっと収まり、男は光る魂をそのまま懐に入れた。

 不意に男が振り返る。

 目が合った。おろくを見てニヤリと笑う。

 太い眉。角張った顎。どこか愛嬌を感じさせるその男の顔には、おろくは確かに見覚えがあった。

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