第21話 オリオン座の下のゴリラ

 俺は乾の言葉の意味がすぐに理解できず、後部座席の3人と顔を見合わせた。ガス欠……って事はつまり……。顔が見る見るうちに青ざめ、一斉に乾に顔を向けた。


「ガ、ガス欠ぅぅぅぅ!?」


「アッハッハッハ。いやあ、参ったねこりゃ」


 乾が両目を右手で覆いながら高らかに笑った。


「わ、笑い事じゃないでしょうが!? どうすんだよこんな山の中で!」


「つ、月乃落ち着いて!」


 熊井が今にも掴みかかりそうな勢いで気色ばんだ。隣の後藤さんがそれを必死になだめる。俺と雉田は、怒ればいいのか嘆けばいいのか分からず、ただ固まっていた。

 しかしこれだけは確かだ。泣こうが喚こうが怒ろうが、状況は何も改善されない。まずは冷静に考えるんだ。そう、ガス欠ならガソリンを入れればいい。俺は辺りを見渡した。ここから見えるのは、草原、森、道路……以上。ガソリンスタンドなどあるわけがない。牧場まで戻って助けを求めるか? いや、もうとっくに閉園だ。入場ゲート付近には誰もいないし、勝手に入ったら不法侵入だ。


「そうだ。確かこんな時に助けてくれる業者があったよな。ジェフだかジャズだかそんな名前の」


 俺の提案に、雉田が携帯をかざしながら首を横に振った。


「残念、ここ圏外なんだよね。山奥だから仕方ないっちゃ仕方ないんだけど。これじゃあ親とかにも連絡出来ないよ」


 駄目だ、詰んだ。携帯まで繫がらないんじゃ打つ手無しだ。車内で夜を明かすしかない。しかしこんな山の中で、大した防寒具も無しに車内で一夜を過ごすのはかなり厳しい。暖冬と言っても、朝と晩は冷えるのだ。


「あの……山を下りさえすれば、何とかなりますかね?」


 後藤さんが遠慮がちに話し始めた。


「ん? まあ、そうだな。下りればスタンドもあるだろうし、携帯も多分繋がるだろ。でも、流石に徒歩で下山するのは無謀だぞ。結構距離あるし、クマが出る可能性だってある」


 確かに。流石の後藤さんでも、野性のクマには勝てないだろう。いや、待て……実際のところ、ゴリラとクマってどっちの方が強いんだ? ゴリラの握力は確か500kg以上だ。掴まれただけでもひとたまりも無い。しかし、クマには鋭い爪がある。パワーはゴリラの方がありそうだが、殺傷力はクマの方が上か?

 ならばスピードはどうだ? 走る速さは確かどちらも時速50kmぐらいだったな。いや、しかし種類によるか。しかしクマは図体の割に臆病だし、ゴリラを前にしたら逃げる可能性も……。


「猿山君、さっきから何ブツブツ言ってんの?」


 雉田の声に、俺はビクリと体を震わせた。一度変な妄想を始めると止まらなくなるのは俺の悪い癖だ。ましてや非常事態だというのに。


「もう少し進めば坂道になってましたよね? そこまで車を押して行けば、後は車で坂を下っていけば麓に辿り着きませんかね?」


「そりゃまあ、一本道だから問題はないと思うが……どっちにしても距離あるぜ」


 それを聞いた後藤さんは、何も言わずに車を降りて車の後ろへ回った。まさか……。


「ウ…………ホッ!!」


 後藤さんのかけ声と共に、車はエンジンもかけていないのに前に進み出した。乾が慌ててハンドルを握る。しかし、アスリート顔負けのとんでもないパワーだ。こんなに頼もしい女子高生が他にいるだろうか。


「……って、感心してる場合じゃないな。俺も手伝うよ」


「じゃあ、僕も。力仕事はあんまり自信ないけど」


 俺と雉田も後ろに回り、3人がかりで車を押し始めた。微力ではあるが、さっきより更に速く進むようになった。とはいえ、坂道に入るまでは普通に歩くだけでも時間がかかりそうだ。車を押しながらだと尚更だろう。これはいろいろと覚悟を決める必要が出てきた。


「猿山君、雉田君、私1人でも大丈夫ですよ。中で座ってて下さい」


「ゼエ……ゼエ……いや、そういうわけにもいかないでしょ。一応、僕も男だし……」


「後藤さん1人に……任せてたら……熊井に何言われるか分かんねえしな……ハア……ハア」


 後藤さんはクスッと笑い、それ以上は言わなかった。最初は寒かったが、重労働のおかげですこぶる暑い。

 そんな調子でどれだけの時間を歩いたかは分からないが、ようやく山の坂道まで辿り着く事が出来た。俺達3人が車に乗り込み、乾がブレーキを離すと、車は重力に従ってひとりでに前進を始めた。


「おーし、このまま下山出来そうだ。ご苦労だったな」


 ずっとハンドルを握っていただけで涼しい顔をしている乾に、文句の1つでも言ってやりたいが、俺も雉田もバテバテでそんな気力は残っていない。

 車は暗い山道をゆっくりと下っていく。能天気な乾も、免許取り立てでこんな所を走るのは、流石に緊張するようだ。さっきから無表情で無言になっている。

 俺も運転の手伝いは出来ないが、助手席から前や横を注意深く見て、危ない物がないかに気を払った。何せ、街灯も無ければ新月のせいで月明かりも無いのだ。左右は森で囲まれているし、ヘッドライトが照らす物しか見えない。道路脇にはガードレールがあるから大丈夫だとは思うが、万が一崖から落ちたりしたら今度こそシャレにならない。後部座席の3人も、固唾を飲んで見守っている。


「……おお! 見えてきたぜ、麓が」


 全員から安堵の息が漏れた。森を抜けた先には街灯がある。信号もある。建物もある。そして何より人もいる。一時はどうなる事かと思ったが、ここまで来れば一安心していいだろう。しかし坂は終わってしまい、車も再び止まってしまった。


「ここで停めてたら危ねえ。あそこにちょうど道の駅があるから、一旦あそこに入ろうぜ」


 要するに、また車を押せって事か。仕方ない。俺と雉田と後藤さんが車を降り、道の駅の駐車場まで車を押した。適当なスペースに止め、再び車内に戻る。


「ふう。で、どうすんだ乾? スタンドはすぐそこにあるけど、もう閉店しちゃってるから朝まで給油は出来ないぞ。一応携帯は繫がるみたいだが」


「ねえ、提案なんだけどさ」


 雉田が間に入ってきた。


「今夜はもうここで泊まらない?」


「ちょ、何言ってんの!?」


 当然熊井が抗議する。


「もう11時過ぎだよ。今から業者呼んで給油してもらってからじゃ、家に着くのは2時過ぎになるのは確実だよ。そうなると、乾君の体力が心配だ」


「まあ……事故られるのはもっと嫌だけどさ。でもあたし寒いんだけど」


 そうだ。極寒の車内で一夜を過ごすのが嫌だから、無理して下山してきたのだ。運転が危険なら、せめてホテルに泊まりたい。しかし辺りを見渡しても、見えるのはラブホテルだけだった。


「道の駅で車中泊する人って結構多いんだよ。現に今もその辺に何台かいるし。道の駅の売店に、防寒具の1つぐらい売ってるよきっと」


「むぅ……」


 何かしら反論したそうだが、熊井からはそれ以上何も意見は出てこなかった。


「よし分かった。んじゃ、俺が責任取って何か買ってくるわ。ちと待っててくれ」


 乾が車を降りて売店へと歩いていった。暫くしてから戻ってきた乾が持つ大きな紙袋の中には、人数分の毛布と、人数分の温かいお茶が入っていた。

 お茶を飲み、携帯でそれぞれが親に事情を説明して、トイレを済ませた。そろそろ就寝だ。


「さて、寝るか。って言っても後部座席狭いよな。俺は荷台で寝るから、雉田運転席に来いよ。」


「あっ、うん。でも荷台は荷物とかお土産で狭いよ?」


「しゃーねーだろ。俺のせいでこうなったんだから」


「ちょっと待った」


 熊井が異を唱えた。


「荷台で寝るなら雉田が寝て」


「ん? 熊井ちゃん、何か問題あるのか?」


「あんたに後ろにいられると落ち着いて寝られない」


「……なるほど」


 乾は苦笑いしながら納得した。乾といえど、流石にこんな所で変な真似はしないはずだが、普段の行いのせいで信用されていないのだろう。まあ、それは俺も同様なんだろうけど。

 騒がしかった車内も、各自毛布にくるまり目を閉じると、噓のようにしんと静まり返った。寝息だけが、狭い車内の空気を静かに揺らす。

 ……眠れない。俺は布団の上で横にならないと寝れないタイプなのだ。皆よく座ったままの体勢で寝られるものだ。狭くても横になれる荷台の方が、まだ寝心地はいいんじゃないだろうか。しかし、わざわざ雉田を起こして代わってもらうのも悪い。

 俺は一旦外に出た。あのまま座って目を閉じていても寝られる気がしない。ココアでも飲もう。道の駅の売店でココアを買い、ベンチに座ってそれを口に運ぶ。今日の出来事や、これからの事を思いながら。

 10分後、ココアの空き缶をゴミ箱に放り込み、トイレで小便を済ませた。程よく眠くなってきたし、そろそろ戻るとしよう。俺はそう思い、車へと引き返した。


「……あれ?」


 ドアを開ける前にその事に気付いた。後部座席に、後藤さんの姿が無い。どこへ行ったんだ? 俺は辺りをキョロキョロと見回した。いくら後藤さんが目立つといっても、こう暗いとなかなか見つけられ…………いや、そんな事はなかった。道の駅の端の方のベンチに腰掛けているのが見えた。いつの間にかすれ違っていたのか。俺は後藤さんの方へ足を向けた。後藤さんもすぐに俺に気付いた。


「眠れないの?」


「いえ、そういうわけではないんです。ただ、星が綺麗だなぁって思って」


「星? あっ……」


 凄い、本当だ。まさに満天の星空だ。牧場の菜の花畑も素晴らしかったが、これは文字通りスケールが違う。地元ではこんなの絶対に見られないだろう。

 星空の下で、俺と後藤さんの2人きり。そう考えると自然と気分が高揚する。


「……隣、いいか?」


「えっ? あっ……はい。どうぞ」


 後藤さんがそう言って少し横にずれた。今、何か迷ってたな。警戒されているとまではいわないだろうが、やはりまだ完全には心を許してもらえていないように感じる。多少もやつきながら、俺は後藤さんの隣に腰掛けた。こうしていると、まるで恋人同士だ。一瞬、後藤さんの肩に伸びようとした手を、自らの理性で思い切り抑えつけた。


「今日はごめんな。最後の最後で大変な思いさせちゃって。俺が謝るのも変かもしれないけど」


「いえ、いいんです。ハプニングも、無事に過ぎてしまえば笑い話になります。それに今だから言える事なんですけど、ちょっとワクワクしちゃいました」


 まあ確かに、非日常感はあったな。俺にも妙な冒険心みたいなのが芽生えたのも事実だ。こうして田舎の道の駅で車中泊というのも、なかなか経験できる事ではない。とはいえ、もうあんな肝が冷えるのは御免だが。


「そして何より、今日1日が凄く充実してて、本当に楽しかったです。誘ってくれてありがとうございました」


「いや、こっちこそ。卒業前に楽しい思い出ができたよ」


 そして、ただの思い出で終わらせるつもりはない。高校を卒業しても、俺は後藤さんとまだ一緒に……。


「それに……何かいいなぁって、見てて思いました」


「何が?」


「男の人の友情っていうか、ノリって言うんですかね。もし私が男で、猿山君と乾君と雉田君の友達だったら、きっと毎日凄く楽しいんだろうなって」


「そ、そうかな。ただ馬鹿な事やってるだけだよ」


 でも、後藤さんにとってはそういうのが憧れなのかもしれないな。理性で踏みとどまってしまうラインというものが、俺達と比べて後藤さんのは遥か手前にあるのだろう。特に今日なんかは、俺達3人は童心に返っていつも以上にはしゃいでいた。後藤さんはそこまでは踏み切れていない。

 もちろんその方が賢明だとは思うが、恥を捨てて後先考えずに行動したいという願望が、後藤さんにもあるのだろうな。普段大人しいだけに、溜め込んでいる事も多そうだ。


「……大分冷えてきましたね。風邪を引いてしまう前に、戻って寝ましょうか」


「ん、ああ。俺はもうちょっとここにいるよ。また目が冴えてきちゃったし」


「そうですか。それじゃあ、おやすみなさい」


 後藤さんは立ち上がり、車の方へ歩き出した。正直、もうちょっとだけ話したかった。でも引き止めるわけにもいかない。俺は溜め息をつき、もう一度夜空を見上げた。

 オリオン座が、俺を遙か彼方から見下ろしている。昔の人は、何であの星の並びがオリオンなんかに見えたんだろうな。俺には、砂時計に触覚が生えたようにしか見えないのに。俺はそんなどうでもいい事を疑問に思いながら立ち上がり、車へと戻っていった。

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