第5話『タルトの企み』

 俺は自分の分を含めて3人分の紅茶を淹れる。そして、お茶菓子にはもちろん姉さんがお土産に買ってきた苺タルト。ただし、それは俺と明日香だけ。

「ねえ、私の分を半分あげるからお姉ちゃんも一緒に食べよ?」

 気配りができる明日香は、不安そうな表情を浮かべながら姉さんに訊く。

「別に良いんだよ。大輔には話したけど、これは明日香の入学祝いと大輔の進級祝いに買ってきたんだから。本当に明日香は優しいね」

 と、姉さんは屈託のない笑顔を浮かべ、明日香の頭を優しく撫でた。

 こう見ると、年が離れているのに仲が良いと思う。姉妹であるから、というのが一番大きいのだろうけど、俺には分からない2人だけの何かがあるのだろう。

「ふにゅっ、気持ちいい……」

 明日香はとろんとした表情をする。そこまで気持ちいいのか。

「私は明日香と大輔に美味しく食べて貰えれば十分なの。さあ、2人とも食べて」

「そうだな。姉さんがこんなことをするなんて滅多にないんだから、ここは遠慮せずに美味しく食べよう」

「……うん。お兄ちゃんの言う通りだね」

 そして、俺と明日香はフォークで苺タルトを一口食べる。

「おっ、これは美味いな」

 苺の果実をふんだんに使っているおかげで、甘さだけでなく程良い酸味も感じられる。タルトの生地も甘いので良いアクセントになっていて良い。

「美味しいね、お兄ちゃん」

「そうだな。これは甘い物が好きでない人でも食べられるかもしれない」

「私、酸っぱいのがちょっと苦手だけど、これなら平気だよ」

 なるほど、逆にそう考えることも可能なのか。

 これなら幅広い層に売り込むことができそうだ。まあ、苺を前面に出しているから男性にはちょっと手が出しにくいかもしれないけど、今みたいに女性からのお土産という形であれば男性にもウケは良いと思う。

「お姉ちゃん、ありがとう」

「明日香がそう言ってくれると私も嬉しいよ。大輔はどう?」

「えっ? 凄く美味しかったよ。やっぱりプロが作ると違うんだなって」

 甘い物好きの俺でも、スイーツ店に1人で入れる度胸はない。由衣と一緒なら普通に行けそうな感じだけれど、一緒に行く気にあまりなれなくて。なので、こうした専門店のスイーツを食うことは貴重なのだ。

「……そっか。何だか大輔らしい感想だけど喜んでるみたいで良かった」

 姉さんはそう言って、紅茶を一口飲む。

 しかし、表面では笑顔なのだけれど、何か考え事をしているような感じがしてならなかった。

 俺と明日香は苺タルトを全て食べた。お腹も気持ちも大満足である。

「ごちそうさま」

「ご馳走様。夕飯のすぐ後だから、けっこう胃に来るな。明日香は大丈夫か?」

「大丈夫だよ。甘い物は別腹だからね」

 本当に女ってその言葉をよく使うよ。甘い物を食べるとなると、体のどこかで眠っているスイッチが突如オンにでもなるのか?

「全部食べてくれて私も満足だよ」

「姉さんが買ってきてくれたものを無駄にできないだろ?」

「……そ、そう。でもまあ、これでようやく本題に入れるわね」

「……何だと?」

 本題? 急に何を言い出すんだこの人は?

 姉さんは俺の顔を見て言ったので、その「本題」とやらは明らかに明日香ではなく俺に向けられているのが分かる。スイーツのことについてなのだろうか? ようやく、って言っていたし。

 何にせよ、徐々に湧き上がってくる不安を抱きつつ、

「姉さん、何を企んでるんだよ」

 と、冗談っぽく姉さんに問いかける。すると、姉さんは、


「大輔。あんたにうちの生徒の家庭教師をして欲しいの」

「……はっ? ……えっ?」


 何が何だか訳が分からなくて、声が漏れてしまった。

「家庭教師、ってどういうことだ? あと、うちの生徒って……」

「そのままの意味だって。うちの生徒の家に行って勉強を教えるの」

「……あ、明日香が俺になかなか頼めないから、姉さんが代わりに頼んだとかそういうことじゃなくて、か?」

「んなわけないでしょ。それなら直接、明日香の勉強を見てあげてって言うわよ」

 姉さんは呆れた表情を見せる。でも、姉さんの言うとおりだ。

 ということは、姉さんの職場である白鳥女学院の生徒の家に行って……俺が勉強を教えるっていうわけか……って、

「ちょっと待てよ! うちの生徒ってことは……姉さんの職場は女子校だから、女子生徒の家に行って勉強を教えてこいってことなのか?」

「ようやく分かってくれたのね。別に良いでしょ。確か、大輔は教師になりたいって前に言ってたわよね?」

 姉さんの言うとおり、俺は教師を志望している。

 といってもその理由は、教育免許というものが大学の教職課程の内容を着実にこなしていけば、よほどのことが無い限り取れるものであるから、という安直なものだ。当然、それを人に胸を張って言えるようなことではない。

「別に勉強を教えることは嫌いじゃないが……って、問題はそこじゃねえよ!」

「何が問題なのよ。……今の聞いていて、明日香は何か変に思った?」

「えっ、えっと……お、おかしくないと思うよ?」

 と言いつつも、明日香ははっきりと頭の上にはてなマークを浮かべている。

ちくしょう。姉さんめ……あまり今の状況を理解できていないのを狙って、上手く明日香を味方につけやがったか。

「ほら、明日香もそう言ってるよ。年上の人間が年下の人間に勉強を教える。これのどこがおかしいって言うの?」

「いや、それに関しては俺も正しいと思う。けどよ、相手は女子生徒なんだろ? 男子高校生の俺がわざわざそいつの家まで赴いて、そいつの部屋で2人きりになって勉強を教えるってちょっとまずくないのか? 学校の教師から見て」

「全然まずくない」

「はっきりとそう言わないでくれよ。俺なんかよりもよっぽど適任者がいるだろ? 白鳥女学院は中高一貫校で頭の良い学校なんだから、高等部に通う生徒の中にも教えるのが上手い奴だってきっと……」

「私、口下手だからそういうこと生徒に相談できないの」

「教師の言う台詞かよそれが!」

 まったく、思わずため息をしてしまう。

 分からない。何を拘って姉さんが俺に頼んでくるのかが。女子生徒に勉強を教えることなんて、俺よりも適している人材がごまんといるだろ。姉さんが年下の人間に対して頼み事ができないわけがないし。

「俺には無理だ。頼むから他の人間に頼んでくれ」

「……今さらそう言っても遅いわよ。どうして苺のタルトを大輔に買ってきたのかこの状況になっても分からないの? てっきり、あんたならこの話を始めたときに感づいたはずだと思っていたけど」

「苺のタルト……って、まさか!」

 もしかしてそういうことだったのか? 俺は姉さんのことを睨む。

「てめえ……タルトを食わせたことで、家庭教師の件を拒否できなくさせたのか」

「そうよ」

「……汚いな。明日香の前でこんなことをするなんて、教育上悪い」

 俺の分だけでなく、明日香の分も買ってきたのは……こういうことを俺に感づかせないためだったのか。

 姉さんのこんな単純な作戦にまんまとはまっちまった。甘い物に貪欲なことに今、凄く後悔している。

「さあ、大輔は私の言うことを聞かないといけないわ。どうしても言うことを聞いてくれないのなら、私に……お詫びの口づけでもしてもらおうかしら?」

 姉さんはそう言うとワイシャツの第2、第3ボタンを外し……俺の左肩に今にも露わになりそうな豊満な胸を乗せる。

「自分が何をしようとしているのか分かっているのか? それに、明日香の前でこんなことをするなんて教師としてどうかと思うぞ」

「うふふっ、家に帰ってくれば仕事のことなんて関係ないわよ。それよりも、私と口づけなんてできないでしょ? まあ、私は大輔となら……そういうことをしても良いって思ってるけど。大輔以外の男に興味を持ってないから。私を女にしても良いんだよ?」

 俺の耳に熱い吐息をかけながら、姉さんは呟く。

 後半部分は聞かないでおくことにして、どうやら究極の選択を俺にさせようとしているらしい。しかし、片方は姉さんの貞操を奪うことであるから、家庭教師の件を承諾させようとしているんだ。

「タルト1個くらいでそんなことに付き合っていられるかよ」

 俺は姉さんのことを強く振り払った。

「ふうん……?」

「それに、家庭教師なんて俺なんかができるわけがないだろ。未だに世間では……あのことが流れているんだ。その女の子が知ってたら、強く拒むかもしれない」

 3年前はもう街中が俺の噂を知っているような状態だった。3年経った今だからこそ大人は俺に対して普通に接してくれてきているけれど、同じ学年の生徒やそれ以下の年齢の奴の大半は俺を軽蔑の目で見てくるんだ。

「それって、大輔が狼だって呼ばれていること?」

「ああそうだよ。俺がまともに相手にされずに、本当に狼のような扱いを高校で受けている始末のことは」

「……分かってるよ」

「だったら俺なんかに――」

「でも、それは高校だけでの話でしょ?」

 姉さんの一言に、俺は何も反応できなかった。

 確かに姉さんは正しいことを言っている。でも、たった一言だけなのに……何なんだろう、この心の奥底を鋭く突かれたような感覚は。

「少なくとも、私や明日香は大輔のことを私達の家族として見ているわよ。それこそ1人の人間として今もこうして大輔と話してる。それに対して、大輔だって真面目に答えようとしてくれている。私はそこを見込んで大輔に家庭教師の相談をしているの」

「……お前、俺の何を知ってんだよ!」

 俺は姉さんや明日香に……俺自身にも何かを隠すかのように、姉さんにそんな罵声を浴びさせた。

「俺がどんな思いをして学校生活を送っているのか分かるのかよ! 普通じゃないものを見るような視線を常に浴びさせられて……!」

「……逃げてるの?」

「逃げてねえよ!」

「もうやめてっ!」

 堪忍袋の緒が切れそうになって俺が椅子から立ち上がった瞬間、明日香が俺以上の大きな声で俺と姉さんの口論を断ち切った。


「喧嘩は良くないよ。お姉ちゃんだってお兄ちゃんが優しいことを信じているからお願いをしたんだと思う。だから、もう喧嘩はもうやめてよっ……」


 涙を流しながらの明日香の必死の訴え。

 それが、本当に狼へなりそうだった俺を人間に留めさせてくれた。そして、同時に襲ってくる後悔の念。

「……ごめん。姉さん、明日香」

 家の中だけは今までと変わらずに優しく接したいと心がけていたのに。姉さんの言っていることは間違っていないのに、俺が一方的に憤慨してしまった。姉さんについてはともかく、明日香を泣かせるなんて兄として情けない。

 俺は明日香の側まで行って、彼女の頭をそっと撫でる。

「明日香、もう無意味に怒らないから。本当にごめん」

「……うん」

 明日香は涙を拭いながらも笑みを浮かべた。

 しょうがない。ここまで来れば相談を受けない他はないだろう。明日香の言う通り、姉さんは俺を信じて家庭教師の件を頼もうとしているのだから。

「……その女の子のことを教えてくれよ。何にも知らないんじゃ、俺だって不安だ」

「大輔……」

「とりあえず、1回だけ……その子に会ってみる。それで、向こう側が拒否するようだったら、俺は家庭教師を引き受けない。そういうことでいいか?」

「それで構わないわよ。ありがとう、大輔」

 姉さんの顔には優しい笑み。

 俺は自分の座っている椅子に戻り、気を落ち着かせるためにすっかりと冷めてしまった紅茶を全て飲んだ。それを見た姉さんが、俺に追加の紅茶を淹れてくれた。

「角砂糖は入れる?」

「……1つだけ」

 姉さんが1つ角砂糖を入れると、ご丁寧にティスプーンでかき混ぜてくれる。姉さんの思惑は明らかであるけれど、ここまでされるとやっぱり恐いぜ。

 俺が熱い紅茶を一口飲んだところで姉さんは話し始めた。

「その女子生徒の名前は間宮杏奈まみやあんなって言って、この4月に入学した1年生なの」

「1年生ってことは、さっそく中学の勉強についていけなくなったとか? ていうか、もう授業って本格的な内容をやる時期なのか?」

「国語に関してはそんな感じだけど、別にそこまで難しい内容を扱ってないわよ」

「そうか……」

「でも、彼女の場合は授業についていけなくなる以前の問題があって」

 どうやら、間宮杏奈という女の子には重要な問題がありそうだ。

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