第八篇 霧都新時代

 ロンディニウム警視庁に長年勤め、刑事として円熟の域に達している警部にとっても、その事件の衝擊は大きかった。

 写真撮影や周囲の聞き込みなどの初動を終えて一旦本署に戻った警部は、短躯を怒らしながら相棒の若い巡査にぶちまけた。

「あんなの見るのは、大戦以来たぜ」

「止めてくださいよ。思い出しちゃったじゃないですか」

 若い巡査は、顏色を一層悪くして胃の辺りを手で押さえる。

「警部はあんなの見てよく平然としていられますね」

「平然となんかしてねぇよ。大戦で慣れただけだ」

 それを「平然としている」と言うのではないかと巡査は思ったが、口に出さない分別は残っていた。大戦の悲惨さは、年輩の人間から嫌というほど聞いている。自分が兵隊になる年齢ではなかったことを神に感謝するばかりだ。

「で、どうするんです?」

「どう?ってのは何だ? 殺人事件だぞ。捜査して、犯人ホシを挙げて、手錠ワッパをかけて、牢屋にぶち込む。それ以外に何があるって言うんだ?」

「いや、あれ、間違いなく警察の手に負える相手じゃないですよ……」

 軍隊でも持ってこなきゃ……と言い募る巡査のネクタイを引っ摑むと、ぐいっと引き寄せて言い聞かせた。

「いいか? ロンディニウム市民が犠牲になったんだ。俺たちがやらなきゃ誰が仇を取って、市民の安全を守るんだ?」

 その俺たちも善良なる市民なんですがね、と巡査は心の中だけで反論した。

 刑事としては若手とはいえ、制服を着て巡邏に出ていたこともあるのだ。ある程度の荒事には耐性がある。しかし、あれは論外だ。

「いつもの俺たちの仕事と変わりゃしねぇんだよ。たとえ相手が魔導師だろうがな!」

 現場の状況は、一言で言えば滅茶苦茶だった。蝶番ごとぶった斬られた扉、切り刻まれた家具。集束系光学術式で穴だらけになった壁。被害者の全身に残る拷問の痕。壁に血で残されたメッセージ。

『次はお前だ』

 勘弁して欲しかった。

 挙句、被害者の身元は、書類上しっかりしているものの、どうにも偽造臭い。

 全力で敬遠したいだった。

 悪い予感は、さらなる厄介事で補強される。

「警部!」

 慌ただしく事務職員が駆け寄ってくる。

警視総監コミッショナーがお呼びです!」

「警視総監だぁ?」

 入庁以来現場一筋、靴を擦り減らすこと仕事としてきた警部にとって、政治任用職であり尻で椅子を磨く連中と友好を深めようと思ったことなど一度としてなかった。階級の上でも雲の上であり、お互い面識などあろう筈もない。

 捜査を中断させられた不機嫌さを隠そうともせず、総監執務室に出頭した警部は、そこに人物が二人ばかりいることに、一層不機嫌になった。一緒に連れてこられた巡査は、緊張のあまり直立不動だ。

 顏すら碌に知らなかった警視総監は、落ち着かな気な様子でこの二人を警部に紹介しようとしているようだった。

 一人は、スタンドカラーのシャツに蝶ネクタイ。山高帽を後ろ手に持ったフロックコートの老人。もう一人は、背広が途轍もなく似合っていない、筋骨隆々とした三十路前後くらいの男。方向性は違えど、二人ともどう見ても堅気の人間には見えなかった。

「警部。こちらはミスター・ジョンソン。隣はミスター・スミス。君が今担当している殺人事件を担当して下さることになった」

「初めまして、警部。ジョンソンという者だ。気軽にジョンおじさんと呼んでくれたまえ」

「初めまして、

 殊更に馬鹿丁寧に応対し、スミス氏の方は無視する。

「捜査にとは有り難い。ありったけの情報を置いたら帰って下さって構いませんぜ」

「誤解があるようだね警部」

 慇懃無礼な態度を柳に風と受け流し、ジョンおじさんは飄々と言い返す。

協力するのではない。協力するのだよ」

 わかったかねドゥ・ユゥ・アンダスタン?とこれまた見事なオクスブリッジ仕込みで念を押して見せる。

「警部。理解したまえ。これは高度に政治的な――」

「クソ喰らえだ!」

 警部の非礼を咎めようとした警視総監に対して下町訛コックニーを全開にして警部は吠える。

「ロンディニウムは俺たちの管轄だ! 管轄破りは誰であろうと許さねぇ!」

「そうやって意地を張って部下の死体を積み上げるのかね? 市民の危険を看過するのかね?」

 老人の声は別に何か特別なものがあったわけではなかったが、部屋にいる警察官三人の背筋に冷水を浴びせるだけの鬼気があった。

「既に理解していると思うが、相手は魔導師だよ。警部、大戦中に見る機会はなかったのかね?」

 両手を腰の後ろで組んで足を肩幅に開き、微動だにしないスミス氏をちらっと見やって、警部は歯嚙みした。

 この魔導師が!

 ああ、知っているさ。

 あのバケモノどもめ!

「俺の見てないところでドンパチやりがったら、お前らを逮捕してやるからな!」


 巡査に車を運転させ、助手席にスミス氏、後部座席にジョンソン氏と並んで座った警部は、苛々と足を搖すり、全身で不愉快さを表現しつつ煙草を吹かしていた。

 だが、ジョンおじさんはその程度は気にしない紳士だった。

「差し支えなければ聞かせて欲しいのだが、大戦中はどこの部隊に?」

「ああ? ……第一軍事歩兵警察。今は王立憲兵隊とか小洒落た名前になってるそうだが。ノルマルディアからオラニエを通ってベルンまで、そりゃぁ快適な旅を楽しんださ」

「なるほど。それでは魔導師を見る機会も多かったろうね」

の魔導師を、な」

 警部は吐き捨てる。

 本当に、吐き捨てるしかない経験だった。

 できることなら唾と一緒に記憶を吐き捨てたいくらいに。

 地獄から這い出して来たとしか思えないあの悪魔ども。

 だが、本当の地獄は……。

 突発的にこみ上がってきた酸っぱいものを力尽くで飮み込んで、警部はまくし立てた。

「あんたらの素性は聞かねぇが、被害者と加害者、どっちがあんたらの関係者だ?」

「被害者だよ」

 あっさりとジョンおじさんは口を割る。

「狙われている、と救援要請ヘルプコールがあってね」

「犯人に心当たりは?」

「さて。ありすぎて絞り込めない」

「地獄に落ちろ」

 車は順調に現場へと辿り着き、四人は揃って集合住宅フラットの階段を登る。

 まだロープが張られたままで見張りの警官も立っている封鎖線を警部の顏パスで通過。巡査を一人廊下に残し、死体が運び出されただけでまだ生々しさが残る部屋に三人で入る。

「こりゃ酷い」

 老人が山高帽を脱いで、髪を撫でる。

 スミス氏が音もなく進み出て、現場の検証を始める。ジョンソン氏は何をするでもなく、部屋をあれこれと観察する。

「医者が言うには、死亡時刻は今朝の明け方。だが悲鳴を聞いた奴すらいない」

「まあ、喉を潰したのか遮音結界でも張ったのか」

「死体はズタズタだった。見ての通り、家具も破壊されてる」

「色々探し回ったんだろうねぇ」

 切り刻まれたクッション、断ち割られたテーブル、分解されたデスク。

「そんであれだ」

 壁の血文字を指差す。

『次はお前だ』

「まるでできの悪い探偵小説だね、これは」

 宝珠を手に壁に穿たれた穴を見分していたスミス氏がジョンソン氏に近づき、何事か耳打ちする。

「そうか。不幸中の幸いと言うべきかな」

「何がだよ! 人が死んでるんだぞ⁈」

「何百人、何千人死ぬかも知れなかったのが、一人で済んだのなら僥倖というものだろう?」

「な、ん、だと?」

「一歩間違えば、本格的に軍隊を投入しなきゃならないところだった」

 相手は単独で、装備は貧弱。情報も不十分。

 おまけに頭に血が昇っているらしく、冷静さもない。

 室内に刻まれた各種痕跡から、使用された宝珠と術式は、のものである可能性が濃厚。専門家スミス氏によれば〝連中〟の関係者の可能性はまず排除できるとの見立て。

 それが分かっただけでも、ジョンおじさんの肩の荷は八割方軽くなった。都市の中で魔導がらみの事件が起きて元部員が巻き込まれたと聞いた時に、まず真っ先に頭に浮かんだのがアレの関与だった。

 それが無関係な単独犯らしいとなれば、ジョンおじさんならずとも、笑みの一つも浮かぼうというもの。この一日、頭痛と歯痛と腹痛と腰痛に苦しめられていたのが、今は大変晴れやかな気分だ。

 いやまあ、野良魔導師など頭が痛くて仕方がないが、それでもアレに対処することを考えれば鼻歌交じりにこなせる仕事だ。

「拷問で充分な情報が得られなかったので部屋を漁って、はてさて、犯人はどこへ行ったものか」

 真の身元や、連絡経路を辿られたわけではない。壁の血文字も、根拠のあるものではないと見た。

「なあに、相手が悪魔でないと分かったんだ。罠にかけてしまえば良いさ」

「あんたら、このロンディニウムで戦争でもおっぱじめるつもりか⁈」

「戦争? そんな上等なものではないよ、これは」

 合州国の誇る戦略知性が予言した、新しい時代の闘争の形態。

「テロだよ」


 合州国中央情報局が、業界でその名を知ぬ者はないと言われる某空軍士官に書かせた将来の不正規戦の展望についての論文は、高い機密指定の下、同盟国の情報機関や政府首脳に限定的に開示された。

 今でもあの複写不可アイズ・オンリーとスタンプされた論文を読んだ時の、胃の捩れる感触はまざまざと思い出せる。上司ともども、顏色は青を通り越して白。

 せいぜいコマンド戦の発展形としてのゲリラ戦くらいしか想像していなかった所に放り込まれた爆弾。

 科学技術の発達と経済発展に伴う陳腐化、低廉ローコスト化によって、現在最新鋭とされる戦略兵器が小規模な組織によって製造され、少人数あるいは個人によって、都市を舞台とした不正規戦で使用される未来を予言。

 核、生物、化学、魔導といった兵器類が政府の管理下を離れて流通、使用されるという悪夢のような将来像。

 国際法が通用する正規軍同士のぶつかり合いから、正規軍対不正規軍、あるいは不正規軍による民間への無差別攻擊という、ルール無用の非対称戦へ。

 さらに過激な思想集団や民族団体、宗教団体などといった、人命の価値を著しく低く捉える集団による自殺攻擊なども示唆され、情報部門が慌てて国内のカルト宗教の監視体制を強化してみれば、銃火器や爆薬などを集積していた団体が見つかるなどの余談もあった。

 論文には自殺攻擊による自動車爆弾やら飛行機爆弾、舟艇爆弾、地下空間での毒ガス攻擊といった、どうやって防げば良いのか皆目見当が付かないものすらあり、攻擊側圧倒的有利の状況が成立することを警告して已まない。

 知っていても防げない種類の攻擊。

 それらの着想が、あの狂気の亡霊から湧いて出てきたのだ。最高機密レベルの情報を知る者たちの苦悩は、正気を保つだけで精一杯だった。

 しかし政府、特に安保族議員の反応は悪かった。専門職たちの懇切丁寧な説明にも拘わらず、彼らの懸念を空想、妄想と一笑に付す者が続出した。

 その時の老人たちの気持ちをどう形容したら良いだろうか。一瞬、ほんの一瞬だけ、をけしかけてやろうかと思ったことを、深く神に懺悔したい。

 とにかく、なんとかかんとか、西側の情報機関が一致団結して政治家を説得し、製造装置や原材料の流通監視網の構築を進めているところだった。

 そんな矢先に、連合王国の首都ロンディニウムで魔導による犯罪発生となれば、すわ地獄の門が開いたのかと、老人がすっ飛んでくる羽目になる。最悪ケースとしてアレの関与を念頭に置きながら。

 蓋を開けてみれば、見境のない単独犯だったのだが。

 だが、単独犯とはいえ、本来厳重に管理されている筈の演算宝珠を用いた魔導犯罪だ。普段拳銃すら持たない警視庁の警官には荷が重すぎる。

 情報部、軍、警察の連携を強化するには、丁度良い練習台にはなるだろう。

 軍の魔導探知網を利用した追跡と、情報部による情報操作。警察には餌撒きと誘導、追い込みに協力してもらう。被害者の引き取り手を用意し、汚れた部屋の後始末の金を払わせ、各種手続きに顏を出させる。囮を目立つように盛大に動かしてやるのだ。

 用意した舞台は、郊外の共同墓地。

 〝貧民墓地〟の異名を取るその墓地は、資産も身寄りもない下層市民が最後に行き着く場所だ。当然、真っ当な葬儀など望むべくもなく、殆どの死者は運び込まれるや否や、墓掘り職人たちの手によってさっさと埋葬されていく。そこには本来あるべき礼節も尊厳もなく、だからこそたった一人ではあっても立ち会う人間がいたことは故人が他の死者たちよりも恵まれていたことを物語る。

 だが、そんなささやかな幸せすら許せぬ者もいるのだ。


 物々しい気配を隠す様子もなく、その男は拳銃と宝珠を手に現れた。

 みすぼらしい男だった。乱雑な髪に無精髭。長らくアルコールに耽溺していたのであろう濁った目。剝き出した乱杭歯はヤニに黄ばみ、碌な生活をしていなことが窺われた。

 墓石の前にひざまづく人物の背に向かって怒号と共に銃を向けた。

「あんたは何でそいつを悼む⁉ そいつは死んで当然のクソ野郎だった!」

 真新しい墓石に触れていた男が立ち上がる。

 六フィートを超える身長と広い肩幅は、若い頃にラグビーやボクシングで鳴らしたことを窺わせたが、すっかり白くなった髪と覇気のない顏つきが、全ては過去のことだと物語る。

 〝老け込んだ〟という形容が似合うその紳士は、振り向いて語りかける。

「そんなことはない。彼は祖国の勝利のために精一杯献身した功労者だった」

「そんなわけがあるか! そいつは、そいつのせいで、俺たちは!」

「無論」

 男の激高をよそに紳士は語り続ける。

「力及ばなかった点があることは認めよう。常勝ではなかったし、過ちも犯した。だが、最善は尽くしたのだ」

「最善? あんたはアレが最善だったと抜かすのか!」

 頭に血を昇らせた男の手が震え、宝珠を握る手に魔力が籠もり、引鉄に力が籠もる。

「あのオハマビーチが最善の結果だったと、あんたはそう言えるのか⁉ 答えろ‼」

「……」

 紳士は即答できなかった。それは、彼自身が毎日自らに問うている言葉であったが故に。

 苦し気な声が絞り出されたのは、しばしの後。

「分からない……だが、信じて欲しい。本当に、本当に、直前まで、あそこには二線級の部隊しかいなかったのだ……」

 悄然と肩を落とす紳士に、男は一層憤慨する。

「〝ラインの悪魔〟が見えなかったとでも⁈ それで何人死んだと思ってる⁉」

 怒りに戦慄わなないていた腕が、ピタリと止まる。

「死んで戦友に詫びろ!」

 引き切られた引鉄がシリンダーを回し、擊鉄が落ち、銃口にほむらが舞った。

 だがしかし、銃口から飛び出した弾丸は、紳士の手前で弾けて明後日へと飛び去る。

「防禦膜⁈」

 咄嗟に腰を落とし身構えた男を、風景から滲み出るように現れた男たちが押し潰す。

「うおおおお!」

 宝珠に魔力を込めて魔導の力を発現させようとするのを四人がかりで押さえ込み、宝珠と武器を引き剝がす。

「クソ! 離せ! 畜生‼」

 暴れる男の手から骨の折れる音と共に拳銃がすっぽ抜け、飛んだ先には二人の男が立っていた。今眼前で起こっていることを全く気にした風のない老人――ジョンソン氏を一瞥して、警視庁の警部は足元の拳銃を拾い上げた。

「軍の支給品だな」

 慣れた手つきでフレームを開き、残弾を確認する。

 地面につくばらされた男が後ろ手に縛り上げられる中、四人のうちの一人――スミス氏が奪った宝珠を老人に手渡した。

 スカンク組合製〝懐中時計〟。戦時中に老人自身が合州国まで買い付けに赴いた品だ。懐かしさもあれば、困惑もあった。裏を返して製造番号を確認しようとしたが、削られた跡。分析しないと確たることは言えないが、どうも複数の宝珠の部品を組合せたらしく、各部の製造刻印がバラバラだ。

 よくもまあ、動くものをでっち上げたものだ。

 いや、これこそが技術の陳腐化というやつか。

 今後のことを考えると眩暈めまいがした。この宝珠の出処を調べるのは、当面最優先課題となることだろう。

「何故邪魔をする⁉ そいつは俺たちの仲間を、戦友を殺しやがったんだぞ!」

 スミス氏の合図で三人の男たちは叫び続ける男に猿轡をかけ、頭から袋を被せる。

「殺らせろ! オレにそいつを殺らせろ‼」

 それが最後の叫びだった。

 袋詰にされた男は四人がかりで運ばれていき、墓地には再び静寂が戻った。

「閣下、ご足労をおかけしました」

 そう老人にねぎらわれた紳士は、疲れ果てた表情で頷き返す。

「この役立たずでも、餌の役割くらいは果たせただろう」

「閣下……」

 紳士の辞任は、あまり公にはなっていないが、事実上の引責辞任だった。大戦中の様々な情報部の〝失態〟。数え上げればキリがないが、最後の決め手はやはり〝キム〟の件か。

 当時〝ウルトラ情報〟と言われた暗号解読に自信を持ち過ぎた結果が、足元の大穴だ。何のことはない。こちらが帝国の尻尾を摑んだと思っていた時に、帝国はこちらの首根っこを握っていた。

 水漏れがあることには気づいていたが、とうとう最後まで、当の帝国から穴の位置を教えられるまで、自分たちでそれを見つけることができなかった。

 ノルマルディアもそうだった。

 老人自身も関わったからよく憶えている。

 漏洩が疑われている最中だったため、情報の精査はしつこく行われ、二線級の第四四二特別防衛旅団と一個補充魔導師中隊程度しかいないことは確定情報だった。

 ところが、いざ上陸作戦当日。そこには〝ラインの悪魔〟率いる火吹き蜥蜴がいた。

 挽肉製造工場と化した海岸で五箇師団が融解し、上空ではネームドを多数含む一箇連隊規模の魔導師が磨り潰されて戦闘不能に。悪夢と呼ぶのも憚られる惨々たる結末。

 ほんの僅かでも天秤が帝国側に傾いていれば、大戦の勝敗すら左右したことは疑いない。

「ずっと考えているのだ。何が悪かったのか。何を間違えたのかと」

 目を泳がせて、紳士は独白する。

 この方も可哀想な方だ、と老人は同情を禁じ得ない。

 あれは人智を超えたナニカだと老人のように割り切れてしまえば気が楽になるだろうに、紳士はずっと自らを責め続けている。

「それで、答えは見つかったのか?」

 不躾に警部が割り込んだが、紳士には咎める気力すらないようだった。

「分からない……。本当に分からないのだ。私が…我々が、どこで何を間違ったのか」

 拳銃を弄んでいた警部が、不意に手を止めた。

「俺もノルマルディアから上陸したんだ。翌日だがね」

「……そうか」

「最初の仕事は戦死者名簿の作成と仮墓地の設営。一週間ばかり記憶が飛んだよ。気が狂った同僚もいた」

「……」

 とても正気ではいられない仕事だった。敵味方の砲擊に曝された遺体の状態は無惨の極地で、何人分かも解らない肉の塊の中に手を突っ込んで認識票を探すのだ。

 遺体安置所をさまよい歩き、戦友を、上官を、部下を探す人影。大の男が、兵士として訓練を受けた男たちが泣きじゃくり、喚き散らす声が耳から離れない。感情を失い座り込んだままじろぎ一つしなくなった男たちの眼差しが焼き付いている。

「情報部の人間を見かけたら、絶対に一発ぶち込んでやる。ずっとそう思ってた」

 そんな誓いを立てていた人間は、警部だけではなかったのだろう。いや、実際に上陸作戦を経験していない警部ですらそうなのだ。作戦に参加し、生き残った者たちは、皆そう思い決めていたに違いない。あの男のように。

 今まさに、警部の目の前には、その情報部の人間がいて、彼の手の中には拳銃があった。

「私を擊つかね?」

 ずっと宙を漂っていた紳士の視線が、警部に定まった。

「擊って良いのか?」

 動こうとした老人を、紳士の手が押さえた。

「情報部の長だった私が、全責任を負う。部下を襲うくらいなら、私を擊ちたまえ」

「じゃあ遠慮なく」

 老人が止める間もなかった。慣れた動作で警部は拳銃を構えると、一瞬の躊躇ためらいもなく引鉄を引いた。

 カチン!と空打ちの音が響いた時、柄にもなく老人は安堵の息をいた。

 警部はくるりと銃を回し、左手を開いて抜いておいた弾を見せる。

「アンタら程の人間がいて、それでも出し抜かれた……俺たちの敵は、帝国ってのはそれ程までのものだったのか?」

「帝国とは、か……」

 全世界を敵に回した戦争を繰り広げ、あまつさえ勝利に指先をかけてみせたのだ。

 〝恐るべきゼートゥーア〟、〝ラインの悪魔〟、火吹き蜥蜴。

 特にその三者の協働は完璧に近く、連合王国のたのむ知略を凌駕したことも一再ではない。

 何度『ありえない』と叫んだことか。何枚の机を叩き割ったことか。

 そして今日もなお。

 帝国は滅んだ。しかしまだ消え去ってはいない。奴らは闇に潜み、帝国の再建を目論んでいる。

 紳士はポケットからパイプを取り出し、煙草を詰めて口に咥えた。老人が差し出してくれたマッチの火を移し、胸一杯に苦い煙を吸い込んだ。

「本当に、帝国とは何なのだろうな……」

 紫煙と共に吐露される言葉が現在形であることに、警部は気付かずにはいられなかった。

「警部。今回の件で理解しただろうが――」

 いつの間にか手にしていた葉巻に、老人がマッチの残り火を寄せる。

「――大戦の後始末、〝消火作業〟は新たな段階に入ろうとしているのだよ」

 その気になればロンディニウムを焼ける程の力が、野放しになる時代。あの大戦が産み出した狂気が、都市に伏在する見えざる恐怖。

 警棒だけを持った警官が街の正義を体現していた幸福な時代は、駆け足で遠ざかっていくだろう。無力な警察は押しやられ、軍隊が治安維持に奔走する、末期の世の中だ。

 そんな未来図を頭に浮かべさせられた警部は堪らず、くしゃくしゃになった紙箱を取り出し、紙巻き煙草を一本咥え抜く。記憶の底に押し込めていた悪鬼の群れが、地の底から手を伸ばし、足を摑んで引きずり込もうとしている。

 老人が差し出してくれた燃え尽きそうなマッチに最後の仕事をさせ、憎しみを込めて踏み躙った。

「地獄に落ちろ」

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