菊草の話(京都の西郷家)

夏海惺(広瀬勝郎)

第3話菊の残り香

兄の菊次郎が東京から帰宅し菊子の鬼籍入りや葬儀の様子を聞いた数日後に妻の久子が不思議な夢を見たと告げられた。

菊子さんが夢枕に現れたと言い、機会があれば心岳寺に自分の灰の一部でも撒いて欲しい。さすれば奄美大島に葬られた母愛かなの元にも戻ることも父隆盛に逢うことも出来ると夢の中で云えたというのだ。

菊子は肺炎を煩い他界したのであるが、臨終は呼吸することも苦しみながら彼女が朦朧とする意識の中で「心岳寺」と繰り返していたことも伝えた。しかし願を伝えることを出来なかったことを悔いて夢枕な現れたのではないかと久子は説明した。

心岳寺は鹿児島の吉野大地の麓にある。

菊次郎にとっても特別な思い出があるお寺であるが、父隆盛にとっては比較にならないほど強い思いが残る場所に違いない。

菊次郎は妹の菊子が「心岳寺」の名指したことが驚きであった。心岳寺の存在は知っていても父隆盛との深い縁を知っているとは思いもよらなかった。しかし不思議な能力を能力を持ち合わせていただけに、隆盛と心岳寺の関係に気付いていたかも知れないと菊次郎は納得した。

菊次郎は隆盛が鹿児島の北側にある私学校の開墾地として選んだ理由は心岳寺への強い敬慕と縁を感じていたせいに違いないと隆盛の側で長く暮らす機会を得た菊次郎は密かに感じていた。心岳寺とは西郷隆盛や大久保利通た明治維新と近代国家建設を成し遂げた鹿児島の偉人たちの多く輩出した日置島津家という島津四兄弟の三男歳久を家祖とする島津家一門に囲われていた武士たちである。歳久は秀吉の朝鮮征伐に反対し、朝鮮征伐の一年前に心岳寺のあるその地まで秀吉軍に追い詰められ自刃していたのである。多くの家臣が歳久に殉じて自刃した地でもある。この物語は日置島津家だけでなく薩摩藩全体に殉ずると言う精神的風土を根付かせる重要な役割を担った。当然、日置島津家は他の島津一族に比べて家祖歳久の物語であり強い影響を残した。西郷が奇跡の人と呼ばれるまで成長した一つの理由である郷中教育にもその教えや思いは込められている。

心岳寺に伝わる殉ずる魂こそ父隆盛の人生を一言で伝えることが出来る言葉ではないかとも菊次郎は思っていた。父は斉彬亡き後も薩摩藩藩主斉彬の残した理想に殉じたのである。その時々を見ても殉ずるという言葉で表現出来る。勝海舟の言葉に感銘し倒幕に殉じ、特に廃藩置県後の留守政府を任せられた時期には佐賀藩出身者と近代国家建設造りに殉じ、遣韓論争に破れ下野した後は士族の新しい生活を補償するために吉野の大地で開墾作業に殉じ、西郷は西南戦争で士族たちに殉じたのである。

もちろん、菊次郎が自らの父を奇跡の人と称えるまでに心酔しきっている隆盛の働きや人格形成は郷中教育によるものだけではない。まず隆盛を必要とした幕末の混乱や世界の様相がある。人格形成の場においては郷中教育で少年期青年期に培われた殉ずるという魂など基本になっていたが、やがて藩主斉彬の薫陶を受け政治外交面の基礎的な知識を十分に身に付けていた筈である。しかし、その後、彼を待ち受けていたのは苦難の時期である。苦難の時期は月照上人との入水自殺未遂から始まり、奄美大島への蟄居、大久保たちの働きで鹿児島に帰ることを許されても国父久光の怒りを買い沖永良部島への遠島である。この沖永良部島での牢獄体験は釈迦が悟りを開く前の座禅修行、イエスキリストが教えを始める前の荒野の放浪に似る作用を隆盛に残した。隆盛の人生を一言で表現するために人々が口を揃えて使う隆盛の座右の銘「敬天愛人」という言葉も沖永良部島で得ているのである。しかし決して隆盛は「敬天愛人」のひとだけの人では無かったのである。

月照上人との入水自殺未遂が隆盛の苦難の歴史の始まりだと菊次郎は回顧したのだが、この事件の時にも隆盛と心岳寺の深い縁を菊次郎は感じざる得ない。安政の大獄で幕府に目を付けられた西郷は日向送りという月照上人暗殺の役を命ぜら、陸路の整備されていない当時、鹿児島から北の姶良国分方面に向かう途中、船上から月照上人とともに鹿児島湾に飛込み入水自殺を図ったが、隆盛だけ助かるという事件があった。隆盛が助かったことも心岳寺の御加護があったせいではないかと密かに若い菊次郎の周囲では語られていたことを思い出した。心岳寺発祥の由来は先述したとおり家祖歳久自刃の地から始まっているが、心岳寺正面の海域は潮の流れが速く海難事故が多い場所であり、やがて航海安全の神として人々の信仰も集めていたのである。あるいは隆盛は蘇生したが月照上人を死なせことに傷心仕切った隆盛を鼓舞するために大久保たちは隆盛な心岳寺の御加護を言い聞かせ、無事に奄美大島に逃がすために心岳寺や家祖歳久の御加護があったお陰だと藩内に広めたのではないかとも菊次郎は思うことさえあった。もし、それが真実であったとしても幕府の監視した藩内で公に語られることもなく、記録に残せる筈もなかった。勿論、父である隆盛が奄美大島に流される前のことて、菊次郎が生まれる前の出来事である。

吉野大地で開墾作業に励む若い菊次郎たちも一団を作り、機会を見ては細い山道を下り心岳寺詣を行っていた。菊次郎たち若者は密かに正面の海で釣りをしたり遊ぶことが楽しみにしていたが、息抜きにもなる心岳寺詣で、良きこととほめられても非難をする者は誰もいなかった。

とにかく菊次郎は久子から伝えられた妹の遺言とも思える言葉に驚き長くはなかったが、父と過ごした甘酸っぱく懐かしい青春時代を思い出しいた。


「どうします」と久子はぼんやりと遠く見つめている菊次郎を応えを促した。

ほんの僅かな時間であったが、菊次郎は自らの足を失った西南戦争の悲劇さえ忘れていた。ほんの一瞬の出来事であった。久子から菊子の願いを聞いたことからでの出来事であったが、父と過ごした楽しい時期のことだけを思い出していた。菊次郎は、すでに鬼籍に入った妹菊子に改めて感謝した。

久子の声に正気に戻った菊次郎は出来るだけ早い機会に、菊子の願いを叶えてやりたいと久子に応えた。




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