第4話百目小僧

 京都に滞在している時には八重は、定時に市長宅の菊子を訪問するようになった。菊子と久子が子供を学校に送り、朝の片付けも終わりかけ、一休みをする頃を見計らい訪ねて来るのである。そして三名でお茶を呑みながら世間話に花を咲かせるのである。八重が母親、菊子が娘、久子は多少、年をとっているが、孫と言える三世代の会合という表現も出来る雰囲気であった。その日も八重は定時に顔を出した。

 天気、晴。風なし。少し蒸し暑く感じる日であった。昨夜の小雨で道路は少しぬかるんでいた。

 菊子が八重に子供の前で話したかと聞くと、八重は話が伝わる速さに八重は驚いた。

「八重さんのことをほめていたわよ。あのオバサンは偉い人だ」と

「変なオバサンと言ったでしょう」と八重が言葉を返した。

 お茶を持ってきた菊次郎の妻の久子が変なおばさんと言う言葉を耳にして吹き出した。久子の子どもたちも、八重のことを変なおばさんと言っていたのである。

 八重は怒ってみせたが、子供たちの評判に満足しているようであった。

 明治後半を迎えたとは言え、男尊女卑、身分や貧富の格差が大きい時代である。女性が子供相手とは言え、大勢の人の前で女性が話すことなど珍しいことであった。

 菊子は運河沿いの散歩の途中に交わした子供たちとの約束を思い出し、八重に質問した。

 姉の質問である。

 八重は真剣に答えた末に、看護婦になるには看護婦の養成所を卒業して、日本赤十字に登録すればなれるはずだと答えた。

 次ぎに弟の質問である。

 佐野常民のように人になるためにはと質問には、少し笑ったが、今は、しっかり勉強するしかないわねと答えた。

 一流の教育者でもあるが、八重の人並みの答えに菊子も久子も胸をなで下ろし安堵した。

 質問に答えた後も八重は憂鬱そうに考え込んでいた。菊子は八重を案じた。

 八重は、ふたたびため息をついた。

「講話をするように頼まれているのよ。でもお二人の子供達の反応を聞くと、軽々しく引き受ける勇気が出ないわ」

 久子が子供たちも次の話を楽しみしていたと励ました。

 それでも八重の気分は晴れる様子はない。今度はどのようなお話を考えておられるかと励ますために菊子が質問した。

「決めていないのよ。でも校長から、百目小僧などは存在しないから安心をしろと子供たちに言い聞かせてるように頼まれているの」

 百目小僧と言う話を始めて聞いた。

 菊子は本能的に自分の手の甲を見たが、反応はなかった。菊子の神秘的な能力を知っていたので八重と久子は菊子の手の甲を見た。

 悪い予感や異界の妖怪が関係すると、彼女の手の甲に痣が浮き、菊子に不思議な能力を与えるのである。

「菊子姉さん本当に百目小僧はないの」と、気味悪そうに膝をすり寄せて聞いた。

 久子にとって菊子は義理の妹であるが、二人でいる時は菊子姉さんと呼んでいた。

 菊子は何も感じないと答えた。

 それを聞いた久子は落胆した。

 八重も落胆し肩をすぼめた。

 菊子から百目小僧がいるという返事が返ったら、実在する百目小僧と処分は菊子に任せることはできる。そして自分は、百目小僧の存在を否定するために依頼された講話は断ることができると八重は考えたのである。八重はその淡い希望を打ち破られたことに落胆したのである。

「諦めて話すしかないようね」と八重は落胆するのである。

「さて、どんな話をすれば子供達に百目小僧はいないと納得してもらえるかしら」と、悩むのである。

 百目小僧の話とは何か。

 久子は子どもたちから聞いていた。

 子どもの話だと割り切っていた。

 子供達の間で流行っている話らしい。深夜の鴨川の水面に無数の蛍のような青白い火の玉を漂い、その火の玉を持ち帰り観察すると、一つ一つが百目小僧だという。形や大きさも女の子供の小指のようで、頭は女の子のオカッパ頭なのよ。表と言わず裏と言わず、表面全体に百個の目が付いていて、その目の一つ一つが生きていて、子どもたちを、恨めし気に睨むというのである。

「どう思う」と、八重は菊子に聞いた。

 菊子は頭を傾げる。

 菊子は二人の子供が話さなかったことも不思議である。

「三月三日のひな祭り前後から囁かれ初めて、三月五日頃に、爆発的の子ども達の間で広まったらしいのよ。三月五日と言う日を、みずごの日と読めないこともないと校長先生は案じていたのよ」

 久子は子どもが水子という意味を知っているのか疑問に呈した。八重は成長過程の子どもの知識欲や好奇心は驚くべきものがあると答えた。 


 水子とは生まれる直前や直後に死んだ子供のことである。病気などが原因で成長しきれないのならまだしも当時は、育てることのできない親による子どもの間引きが日常茶飯事に行われていた。庶民によるの人口抑制施策であった。江戸時代から明治に変わっても厳しい現実は存続をしていた。維新当時、日本の人口は三千三百万人ほどだったと言われる。千九百年頃には約五千万に増えている。

 明治期は国家の生産様式が変わっていく時期でもあった。不平等条約下であるとは言え、外国との貿易や工業化が一気に進み、都市のインフラ整備や医療整備も進んだが、それでも庶民の生活は貧しかった。生きるのがやっと言う時代であった。現金収入の少ない農村では、娘や息子を工場へ出稼ぎに出し、なんとか食いつなぐしかない人々で溢れた。現金収入の差と貧富の差が一気に拡大した時代でもある。現金を稼ぐために若者は都市周辺部の工場街で日雇い労働者として働き、働いても豊かになれない時代だった。

 月の平均月収はたとえは工場の女工は約二円、農作業の男性日雇いは三円、都市部の大工は十円であり、銀行員の初任給は三十五円、国会議員は六十七円と言われている。

 女工の給料は国会議員の給料の三十五分の一程度である。現在の国会議員の年収を約三千億円と推定すると、その三十五分の一は八十五万円であり、その格差が理解できる。

 国民の大多数は工場労働者や農作業の日雇いであり、銀行員や国会議員との給料格差を見るだけで貧富の格差を実感できるはずである。日本が先進国として発展をする明治時代であるが、大多数の庶民には生き地獄のような時代であった。

 映画「無法松の一生」に描かれた主人公の人力車夫「富島松五郎」のような一生や庭師や大工で一生を送るのが庶民の人生だったに違いない。農村で食えなくなった者も都市に逃げ込めば、かろうじて雨露から逃れ、飢えや寒さからも逃れることができた。このような庶民の男女の間に子どもが生まれ、水子として間引きされることが起きても仕方がないことである。それ以外、遊郭という公的な売春宿もあった。避妊具や避妊についても医学的な学問も未発展な時代である。一般庶民が今のような家族を持つことはできず、世帯を構える事の出来た人々は一部の上流階級に限られた事であった。法治国家、近代国家として法を整備し、戸籍法や民法が整備されても、庶民には何の意味もなく、国家が国民を戦争に動員ための準備にすぎなかった。

 日露戦争後、日本は満州を足がかりに急激に大陸進出を図るが、この問題を解決するために国民の意志を受けての行動だったとも言えないことはない。


 日露戦争で日本は何を得たか。

 樺太などの統治権を得た。だが一番、大きかったのは満州への足がかりだった。また後日、大きな災いをもたらすことになった。

実は日露戦争勃発の大きな原因にロシアと清国の李鴻章との間で一八九六年に締結されたカシニー密約というのがある。日清戦争後の下関条約の舞台裏で締結された清国とロシアの密約であるが、三国干渉や日本に対する莫大な賠償金支払いの支援に対する恩義に答える形で清国はロシアに様々な利益を供与することを約束したのである。

 後世に影響を与える大きな約束は東支鉄道の開設を清国がロシアに許したことである。鉄道会社は満洲に於ける鉱山及び商工業を営むことができたのであるが、日露戦争の勝利で、その権益は日本に譲渡されたが、カシニー密約が保証する期間の短さが日本に不幸を招く一因となったのであった。権益期間のの延長を巡り、大隈重信は中国と二一箇条の要求の出さざる得なくなったのであるが、当時の清国支配者袁世凱との間で調整が終わった段階で、新たに軍部などから要求された強固な申し出が日本政府と中国政府の間に大きな溝を造ったのである。交渉期間も迫り、日本は袁世凱に回答を委ねる形で、未調整の部分も含めて清国に投げかけたのであるが、袁世凱はそれを報道機関にリークしたのである。そして清国内だけでなく、第一次世界大戦の渦中にある西欧列国の批難も一身に浴びてしまうのである。

  当時の満州は荒れ果てた不毛の大地である。一九一一年の辛亥革命で廃された清王朝にとって満州は父祖の地であり聖地であった。だがそれ以前の王朝を支配してきた漢民族にとって満州とは万里の長城の北側であり、南の漢民族にとっては化外の地であった。国家として権勢を誇った頃には南の被支配民族の漢民族の移住を禁じていた。ところが阿片戦争の敗北や太平天国の乱で国が乱れ、国威が衰えるにつれ、漢民族が黄海や万里の長城を超え、移住し、大草原の中に集落を創り定住を始めたのである。

 移住者は必要に迫られ外部から集落を守るために武装を始め、守備隊を造るのである。

 各集落の守備隊は農作業に従事するかたわら農閑期には馬賊となり、互いの村を襲撃しあうのである。

 不凍港を求め南下政策を進めるロシアは三国干渉で得た旅順港まで大草原を横断し、東支鉄道線を敷設し、要所に駅を創り、鉱山開発や農地開拓を始めようとしたのである。逆のことも言える。地下資源が眠る場所に駅を造り、町を造り、周辺に農地造り、そして人々を集め、資源を掘削した。当時は石炭や鉄などが主要な資源であった。もちろん金や銀など希少金属も探査の対象であったことは言うまでもない。


 日露戦争に勝利した日本は東支鉄道経営の権限を得て、名前を満州鉄道と変え、開発を進めた。満州に国家の形態を持つ国家らしきものができたと言われるのは一九二〇年頃である。日露戦争から十五年ほどが経過していた。その立役者は張作霖である。彼も馬賊の出身である。彼は満州に国家を造った後に、中国統一の夢を捨てきれずに北京に上った。ところが蒋介石軍に破れ、みずからの本拠地である奉天に戻る途中、一九二八年(昭和三年)六月に列車ごと爆破され死亡するのである。時の日本の総理大臣は爆殺事件を曖昧にして真相解明を怠ったことで昭和天皇の怒りを買い辞職をした田中義一である。ところが日露戦争当時、馬賊に過ぎない張作霖を見出したのは、この田中義一だった。


 水子や間引きなど、子どもには知られたくない厳しい現実がある。それが小学校の低学年の間で悲しい怪談話になりつつある。この怪談話を静めてくれと言うのが校長の希望のようであった。

 その日も八重は答えを得ることが出来なかった。

 夜、菊子は二人の子供に百目小僧について聞いた。

 冬子は大人の仲間入りをしつつある年齢である。答えに躊躇したが、幼い息子はスラスラと答えた。

「百目小僧の話は聞いたよ。でもうちの学年では話題にならない。小さなうちに死んだ女の子が目だけが小指ぐらいコケシの中に無数に残っていて、鴨川を流れて来るんだって。育てることのできない貧乏な親は子供を小さいうちに殺されるそうな。それを間引きと言って、田舎では公然の秘密として行われているそうや。親の手で殺された子どもの目ん玉だけがな集まるそうな」

 おしゃべりな弟を姉が制止しようとした。

 菊子は弟の肩を持った。

「間引きという言葉をあなたの年で知っているの」

「育てることができない親が子供を殺すことだよ。学級の者はみんな知っているよ」とスラスラと答えた。

 だが深刻さは伝わってこない。まだことの重大を認識していないようである。

「先生が教えるのと聞く」と、息子は友達が話すんだと答えた。

 八重が言った子どもの旺盛な知識欲や好奇心のなせることであろう。

 冬子は学級ではどうなのと菊子は聞いた。

「百目小僧の話をしたがる者もいるわよ。でも、そんな話には加わらない」と、答えた。

 冬子の大人じみた反応に安心した。

 だが誠之助との貧しい生活を振り返ると、もし大山巌と言う庇護者がいなければ、子どもを養子に出したり、間引きをすることをあったかも知れないと菊子は恐ろしいことを考えた。

 生きるためには悲しく酷い道も選ばざる得ない。現実として諦めるしかない。それが固まりきれない子供の心に波風を起こしている。

 翌朝も八重が浮かぬ顔で市長宅を訪ねて来た。

「今さら、お断りすることもできないわよね」と、気弱な言葉が八重の口から一番に発せられた。

 菊子は昨夜の二人の子供との会話を伝えると。八重はますます、顔を曇らせた。子ども達は、そのような間引きの対象になりかけたという恐怖をも同時に感じているのでろう。生死の問題に悩むのは早すぎる時期であるような気もする。だが、これも戦争の影響かも知れないと八重は思った。

 八重の脳裏を人権と言う言葉がかすめた。

 そして、ある人物のことを思い出した。

 佐賀の江藤と言う人物である。

 実は、明治三年に京都に本拠地をおく小野組という企業が、事業を円滑に進めるために本社を東京に移したいと申し出をしたが、京都府や関係者は反対した。反対の理由は小野組が本社を移転することで京都府は莫大な財源を失うのである。

 小野組は京都府を相手に訴訟を起こした。

 しかし裁判所は容易に、訴訟を受けなかった。

 八重の兄の覚馬は、当時、京都府に顧問として雇われたおり、京都府の近代化や都が東京に遷都して以来の衰退防止のために働いていた。すでに兄は他界して数十年を経ているが、菊子の兄菊次郎が兄の遺志を継ぐ存在のように思えた。

 当然、覚馬も八重は反対した。その趣旨を明治政府の高官に伝えるために運動をしに出掛けたのである。兄は失明をし、腰を患い歩くこともままならない不自由な身体だった。八重は、その兄を背負い高官を訪問したのである。長州出身の高官は快く話を聞いてくれた。

 当時の県知事が長州出身の植村という人物であることも関係をしていた。

 だが当時の司法卿の江藤の反応は、八重を極端に不愉快にした。「小野組の裁判への申し出を却下するように」と司法卿である佐賀出身の江藤に陳情に訪れた時には最悪の印象を受けた。

 兄を背負い廊下を進む途中、破れた障子から二人の姿を覗き見る書生の視線があり、陳情を受ける江藤の無愛想さに怒りを味わった。無礼だと怒りを感じた。

 あの時の障子穴から覗き見る目を、まるで百目小僧の視線のように感じた。

 だが八重はその後に司法卿として日本の司法制度確立を急ぐ江藤の立場や、女性の人身売買を禁ずる働きを知ると、とんでもない思い違いをしていたと反省をした。もちろん、人身売買を禁ずる法律は機能をしていない。

 だが、明治七年の佐賀の乱で無念な死を遂げなければ、日本は法治国家として発展をしていたはずである。そして江藤の立場になり、当時を振り返ると、目も見えず、腰の病で歩くこともできない兄を背負い陳情に出向いた自分たちを卑怯な輩と思ったに違いない。

 不自由で腰の病気で歩くこともできない兄を背負い陳情に向かう自分そう思うと八重は無念に思うのである。


 当時、江藤は東北の尾去沢銅山という私有財産を長州藩出身の井上馨らの政府が不正に没収、競売に付して、同郷人である岡田平蔵に落札させると言う事件でも長州藩出身者と鋭く対立していた。

 八重は菊子に思うことをすべて話そうとした。

 菊子にとって八重の話を聞くことは、この上もない学習の機会であった。

 菊子は佐賀の乱と聞くと、それから四年後に父が起こした西南戦争を思い出してしまうのである。

 お茶を運んで来た久子が二人の絶望的な表情を見て、夢も希望のない暗い顔をしていると批判した。

 八重と菊子は、同時に顔を上げた。

「夢や希望」

 八重が久子の言葉を繰り返した。

「子供たちに、新しい時代を造れと訴えてみる。これから子ども達の時代よ」と八重は叫んだ。

 幕末から維新、そして新国家造り、佐賀の乱、西南戦争などの内乱、自由民権運動、大きな犠牲を払いながらも、日本は進歩している。八重は自分の目の当たりにしてきた歩みを胸に描き、日本の進歩を確信した。百目小僧など、存在もせず、子どもの勇気を奪うだけの妖怪は、この八重が退治してやると宣言した。八重は子供たちの心の中の百目小僧に宣戦布告をしたのである。


 八重の話を聞くために数十名の親が子ども達の後ろに立っていた。八重の話の自らが体験した話である。会津戦争で銃を執り戦ったことや、日清日露戦争で従軍看護婦としての活動体験もあった。幕末から日露戦争までの日本の発展を俯瞰する話になった。人間は進化をしているということを伝えたいと言う思いが込められていた。

 最後に彼女は校長との約束をした百目小僧の話題を忘れなかった。子ども達に、「百目小僧の話を知っていますか」と聞いた。

 子ども達の間から、どよめきがあがった。

 一種の期待もあったはずである。

 子ども達にとって、今や八重は尊敬を一身に集める存在である。その八重から百目小僧の真の物語が聞けると期待をしたのである。

「手を挙げて」と促した。

 子どもたち、全員が一斉に元気よく手を上げた。

 その中から元気が良く、利口そうな男の子を指名し、百目小僧について知っていることを話すように促した。

 指名された子どもは八重が聞いたとおりのことを話した。

「その他のことを知っている人はいない」と八重は促した。

 会場の所々から補足する声が上がった。

「大きさは小指程度」、「髪の毛は、おかっぱ」などと言う声である。

 八重は一つ一つの声の子ども声を復唱した。

 子どもたちの発言が途絶えた。

 もうないのかしらと発言を促した。

 会場は静まりかえった。

 八重は会場を見回して、「それでは本当に百目小僧がいると思う子どもは手を上げて」というと、数十名の子どもが手を挙げた。

 上級生と下級生の間に挟まれた会場の真ん中の列に座る子どもたちに手を上げる子どもが多かった。

 八重は、「手を挙げたみんなの中で百目小僧を見たことがある人はいる。その人以外は手を下ろして下さい」と声を上げた。

 子供たちは周囲の反応を見ながら、一人二人と手を下ろしていった。そして最後には全員が手を下ろした。

 みんな手を下ろしてしまいましたね。

 百目小僧を見た者は誰もいない。と聞いた。

 子供達はみずからの目で周囲を見回した。

「それでは百目小僧はいないと言うしかありません」

 八重は補足をした。

「世の中には不思議な出来事がたくさんあります。でも百目小僧はいないようです。誰も見たことがないもの。百目小僧が生まれた理由に同情するのは大切なことです。そのような悲しい子どもが生まれないように、これから皆さんが考え、解決をしていかねばならない問題です。きっと、そのような時代がきます」


 八重が子どもたちの前で予言してとおり、時代は進む。

 大正時代に入ると大正デモクラシーの時代に入る。中でも時代を代表するのが、理想主義、人道主義、人間を肯定する白樺派の一団である。グループを構成する武者小路実や志賀直哉などは華族出身であり、乃木希典が院長を務める時代の学習院の卒業生である。彼らは乃木の教育方針に反抗し、白樺派を結成し、新しい時代を築こうとした。乃木は彼らの行く末を案じ、森鴎外に相談をしたと伝えられている。だが多くの庶民は社会を変えるようなどと野心や夢を抱くこともできない時代である。それでも在野には志を持ち、命がけで活動する庶民がいたことも事実である。



 千九百六年(明治三九年)京都市長宅の縁側を賑わした百目小僧の話は、まだ終わらない。

 翌朝も八重が訪ねて来た。

「うちの亭主は何をしているのかしら」と、久子はいきなり、愚痴をこぼした。

 八重と菊子は久子の剣幕に驚いた。

「うちの亭主は今朝は朝帰りで、まだ寝ているのよ」と腹を立てた。

 久子は菊次郎が華やかな女性が多い、京都での生活に浮かれてはいないかと案じ続け続けていた。それが爆発したのである。

 久子の怒りは度を越した。あのような片足に、私以外の女性が寄り付くとは思えないけどと口走ってしまったのである。

 八重も菊子も、久子の言葉に衝撃を受け、きまずい雰囲気になった。

 八重も顔を歪めた。

 菊子は場を取り持とうするが、どのようにして良いか判断が付かなかった。

 その時、いつもの徳治郎が顔を出した。

 女三人の目は一斉に彼を向けられた。

 菊次郎を悪の道に引きずり込もうとする張本人であることは三人とも知っている。

 八重が、徳次郎を軽くいなした。

「徳治郎さん、夕べはどこでお楽しみ」と笑いながら尋ねた。

 八重の質問は徳次郎にとって鳩に豆鉄砲であった。

「菊次郎さんを案内して島原まで」と答えてしまった。

 島原というのは京都の下京区にあり、かっては花街である。

 幕末には西郷隆盛の志士や新撰組などが遊んだ有名な花街であるが、維新後は寂れてしまった。

 徳治郎は安易に応えてから久子の姿に気付き、きびすを返し、立ち去ろうとしたが、久子は見逃さなかった。

「ちょっと徳治郎さん。待ちなさいよ」と大音響でで怒鳴ったのである。

 その大声に奥で寝ている菊次郎も目を覚ました。

「詳しく話を聞かせ下さいな。うちの亭主は島原でどのような仕事をしているのですか」と言い、まるで徳治郎の襟首を掴むようにして縁側に座らせてしまった。

 徳治郎は久子の剣幕に怯えながら、説明を始めた。 

「実は島原の町を何とか賑やかにせんといかんと言うことで、昨夜、市長にも参加して頂いたのです。なにしろ島原と言うと維新前は、大変な賑わいでな、菊次郎さんや菊子さんのお父さんの西郷先生も、よう羽目を外して騒ぎよった場所です。町衆仲間としても放ってはおけません」と言い、救いを求めて菊子を上目遣いにのぞき見たが、菊子は知らぬふりをした。

 徳治郎は仕方なく、久子に言い訳を続けた。

「ところが酔いも過ぎましてな、あのあたりは、周囲は田んぼと畑。周囲は真っ暗闇や。しかも小雨までもがやしょぼしょぼと降ってくる。人力車も車夫も都合出来ない。歩いて帰ろうにも菊次郎さんは足が不自由だし、途中で、今、京都中で話題になっている哀れな百目小僧などに会ってしもうたらと思うと足もすくみ、とても帰る気などにはなれません。仕方がないから最後に残った仲間と、そのまま明け方まで座敷で雑魚寝をした次第です。何も悪いことはしておりません。また今後は奥方に心配をかけるような誘いはしませんから許して下さい」と、ひたすら謝った。

 徳治郎の言い訳に八重も菊子も顔を伏せて、吹き出そうとする笑いを必死に堪えていた。

 菊子は夫や徳治郎を叱りつける久子の姿を見て、母も父をこのようにしつけたに違いないと思った。時には激しい喧嘩もしたと母から聞いていたが、そのせいかも知れない。母は、すばしっこい女性であった。父も簡単には捕まえることが出来なかったに違いな

い。しかも久子の視線は足の不自由な亭主の菊次郎ではなく亭主を誘った町衆の徳次郎を刺している。

 自分も久子のように夫を叱りつけることが出来れば、あるいは夫も変わってくれたのではないかと離れて暮らす夫のことを、ふと菊子は思った。しかし次の瞬間にはすぐに頭を横に振り、その思いを消し去った。夫が西南戦争や、その後の牢獄生活で受けた傷の重さを思い出した。

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