第3話

 調理師専門学校の生徒になって間もないある日の夕方、俺は有明荘の門前で初めて愛莉ちゃんと出会った。彼女はジョギングを終えて戻って来たところという様子だった。

 正直ぎょっとした。無理もない。息を弾ませて走ってきたジャージ姿の可愛い女の子が、そのまま門の前を通り過ぎるものと思っていたら敷地内に入ってきたのだから。俺は勝手に有明荘の店子は野郎オンリーだと思い込んでいた(実際その通りだったし今でもその通りだけれど)。

 当時の愛莉ちゃんは、有明荘の離れ、父方の祖母であるウメさんの住居兼管理人室に同居して陸上の有名中学に通い始めていた。俺は今でもよく覚えている。夕日の中、呼吸を整えた愛莉ちゃんが、走って来たばかりの道を振り返ってペコリとお辞儀した、あの瞬間のことを。

 今来た道に礼――。ひどく身につまされる光景だった。胸が苦しくなった。大事な家族にとんでもない言葉を浴びせかけて、仲違いしたまま実家を飛び出してきたことを、俺はそのとき強く後悔した。餓鬼っぽくて情けない自分を改めて感じた。こんな俺だからこそ前向きに、一生懸命にならなければと本気で思った。

 こんにちは、と愛莉ちゃんに挨拶されて我に返った俺はそのとき、彼女に向かって格好いいねと言った。本心からの素直な言葉だった。『すごく格好いい。俺も君みたいに頑張ろうって思った』。一瞬ポカンとした愛莉ちゃんは、すぐに真っ赤になって走り去ってしまった。

 変な奴だと思われたかな、なんて心配になったけれど気にする必要は全然なかった。愛莉ちゃんはそれ以来『妹分』を公言するほど俺に懐いてくれたし、何より、変わり者具合で言えば向こうの方がずっと上だったからだ。走ること以外はからっきし。常識に欠け、私服はダサいし空気が読めない。マイペースな一人っ子で友達は少なく、ひたむきで礼儀正しいけれどコミュニケーション能力はやや低め。有明荘の男連中は誰も彼も口を揃えてこう言う。『愛莉ちゃん、せっかく可愛いのにな』。

「竹内さん? 竹内さんってば! 大丈夫ですか?」

 愛莉ちゃんが心配そうにこちらを見ていた。俺は目を瞬いた。ノーガードのところに突然もらった赤いお粥の衝撃で意識がすっ飛んでいたらしい。ケチャップだと? 改めて小鍋を覗いた。トマトリゾットのよう、などと言っては上品に過ぎる。たとえばビーツを使ってもなかなか出せないだろう、この上もなく毒々しい赤だ。そして妙に青臭い。細切れにされた種々雑多な緑がこれでもかと練り込まれているせいに違いない。

「これっていわゆる春の七草……」

「ブブーッ! 違いまーす」

「違うのかよ」

「竹内さん知らないんですかぁ? 七草粥に入れるのは春の七草じゃなくてもいいんですよ。七種類の草なら何でもいいんですよ。お婆ちゃんそう言ってましたもん」

 得意満面の愛莉ちゃん。その『何でもいい』には『可食植物に限る』という暗黙の条件がくっついていることをこの子は理解しているだろうか。目の前にあるコレは本当に食い物なのか? どんな草の何という成分のせいでこうまでヤバげになった? 

 俺は受け取った小鍋をひとまず畳の上に置いた。愛莉ちゃんにも座るよう促した。

「米はそこにあったチンするご飯だよね。草はどこから?」

「全部『U.V.G.』からでぇす」

 Ume’s Vegetable Garden。離れの脇にあるウメさんの素人菜園のことだ。冬場の。雑草以外に何が生えてたっけ。

「どうしてケチャップ入れたのかな」

「『ケチャップは身体に良い』ってお婆ちゃんが。朝はお味噌汁にも入れてるみたいですよ」

「知ってる。隠し味だね。こっちは自己主張全開だけど。味見はした?」

「はい?」

「味見」

「アジ……、ミ……?」

「え、キョトンとするとこ?」

 宇宙開発関連の専門用語でも聞かされたような顔だ。

 見つめ合ったまましばしの沈黙。

 愕然とした俺の表情が彼女にはどう見えたのだろう、愛莉ちゃんがゆっくりと俯いていく。俺はハッとした。まずい。傷付けてしまったらしい。馬鹿野郎。どうあれ彼女が俺なんかのために一生懸命この七草粥(?)を作ってくれたことは事実だというのに、味見をしたかどうかなんて些細なこと(?)でこんなにも暗い顔をさせてしまうなんて。

 咳払いを一つ。俺は無理にも笑顔を作って小鍋を手元に引き寄せた。

「いや、もちろん嬉しいんだよ? ありがとう作ってくれて。けどその、……後で食べようかなぁ。ははは。今はあれだ、病み上がりだし、とりあえず水だけ飲んで、もう一度横に」

「私、またやっちゃったみたいですね」

  愛莉ちゃんは困ったような照れ笑いを見せた。

 彼女らしくない、弱々しい声でごめんなさいと続けた。

「ダメだなあ私って。走る以外は何やってもこんな感じで。……あははは。迷惑かけ過ぎ。勢いだけなんだから本当。その、正直、美味しそうになんか全然見えないですよね」

「いやいやいや、愛莉ちゃん、そんなことないよ! 本当。来てくれてすごく嬉しいし。いや本当。感謝してる」

 しどろもどろの俺を見上げる愛莉ちゃんはハの字眉だ。哀しそうに首を振った。

「いいんです竹内さん。無理しないでください。えっと、私、駅前のコンビニまで走りますね。何か買ってきます。御飯ダメにしちゃったお詫びに」

「お詫びとか! そんなこと言わないでくれよ。愛莉ちゃん違うんだって」

 俺は焦った。明るさ天井知らずと言っていい愛莉ちゃんをこうまでネガティブにしてしまった自分が呪わしかった。

 ダメなのは俺の方なんだと言いたかった。恩知らずと罵られても仕方のない俺。今ひとつ実習に身が入らないのを親父に対する後ろめたさに転嫁したことがある俺。研修でフレンチの現場の厳しさに触れて怖じ気付いた俺。夢とは随分かけ離れた、学校側が紹介してくれる就職先に安んずる道もアリなんじゃないかと実は本気で考え始めている俺――。

 気まずい雰囲気は、けれどすぐに破られた。

「ええい! もどかしいったらないねこの餓鬼どもは!」

 アパートを揺るがすような大音声と共にドアが爆ぜた。

 唖然とする俺の前で愛莉ちゃんが大きな目を丸くした。

「お婆ちゃん!」

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