9 楊貴妃の潮風が吹く

「ま、ひとまず、これからもよろしく、ということで」

 宇田島は、ノンアルコールビールをグラスに注いで三谷に差し出し、乾杯する。窓の外には向津具半島の内海うちうみである油谷ゆや湾が穏やかに広がっている。

「ホテル楊貴妃ようきひ」の2階にあるレストランには、スイングジャズのBGMの中、多くの客が海を眺めながらランチをとっている。

「この辺りでは『楊貴妃』っていう文字をたくさん見るんですけど、何かゆかりがあるんですか?」

 三谷は割り箸の袋に書かれたホテルのロゴを見ながら聞く。

「昔、楊貴妃の遺体がここに流れ着いたっていう伝説があるんですわ」

「そりゃまたすごい話ですね」

「まあ、ウソかホントかは別として、この近くには楊貴妃の里っていう中国風の庭があって、そこには楊貴妃の墓もあるんですわ」

「ロマンがあるじゃないですか」

「ロマンも何も、大昔の人たちが言い伝えてくれたおかげで、ちょっとした観光スポットになっとるんやから、まあ、ありがたいことですわな」

 宇田島はノンアルコールビールを喉に流し込んだ後、地ダコの刺身を口の中に放り込む。なんだか、食べ方がサマになっている。

 三谷はとりあえず吸い物に口をつける。鯛の出汁が効いた、上品な味わいだ。

「長門って、いいところですね」

「そりゃ、ありがとうございます。ワシも久々に帰ってみて思うんですが、間違いなく、食いもんがうまいですな。魚もうまいし、野菜もうまい。牛肉も豚肉も鶏肉もみなうまい。ここは昔から養鶏が盛んでね、焼き鳥の町っていうて全国に売り出しとるんですわ」

「へえ」

「まあ、でも、ええとこって言うてもろうてうれしいですけど、ワシらが高校生やったころの賑わいは完全に消えておりますわ。若者わかもんはみんな都会に出て行くし、新しい産業も興りませんしな。人口の減り方も半端ないですわ。何とかせなあかんとは思うても、どうしようもできませんな。せやから、ラグビーで花園に行くっていうんは、長門の人に元気をもたらすための、まあ手っ取り早い方法ですわな」

「なるほど」

「そりゃ、地元は盛り上がりますよ。うちの生徒はほとんど長門の子やし、こんなド田舎の高校が街の子に勝つっていうんは、それだけでアツくなるやないですか」

 宇田島が釜飯を茶碗によそう前で、三谷は静かにうなずく。

「私も、だんだんとやりがいを感じ始めてるんです」

 三谷は力強くつぶやく。宇田島は釜飯をほおばりながら「向高ラグビー部の夢は、地元の夢でもありますからな」と言い放ち、大声で笑う。三谷の膳の上には宇田島の口から鋭く放たれた飯粒が細かく飛び散る。

「私も、ただ、ラグビーだけを教えるというのはうすっぺらい気がするんです。高校生には、ラグビーを通じて、目標に向かって努力することの大切さを体得してほしいんです」

 三谷は服に付着した米粒をそっと指先ではじき落としながら言う。

「まあな、そういうことが社会に出てから役に立つわけですからね」

「同感ですね。『ラグビーは子供をいち早く大人にし、大人にいつまでも子供の魂を抱かせるスポーツである』っていう言葉がありますけど、やっぱりこのスポーツはチームワークを学ぶことができると思ってるんです」

「One for all, all for one ですな」

「でも、それって、言うほど簡単じゃないです。ただ仲良く楽しくやればいいっていうわけじゃないですから。高い目標を立てて、そこに向かって個が強くならない限り、絶対に『One for all』にはならないです。時には劣等感を抱いて精神的に追い詰められたり、それでもチームメイトと支え合ったり、そういう教育的プロセスを乗り越えていくことが求められるんです」

 自分はこのスポーツに戻ってきたのだという思いが、ぐっとこみ上げてくる。

「まさに先生の言われる通りやと思いますよ」と宇田島は返す。

「彼らには、ラグビーで学んだチームワークを、ぜひ故郷のために活かしてほしいと思うんです。今地方を元気にしたいと思っている自治体は、数え切れないほどあります。茨城でも埼玉でもそうでしたから。いや、むしろ、都市の方が疲弊してたりするんです。だから、この長門市で、ラグビーを通じた人材育成による地方創生のモデルを作り上げたいですね」

「いやあ、ありがたいですわ。ワシらOBとしても、全力でバックアップせなあかんですな」

 宇田島は、深海魚のように目をギラギラさせて、改めて乾杯を要求してくる。野心に満ちた黒い瞳だ。

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