第19話「告白」

 時間は刻々と過ぎ、社長一家が見舞いにくる時間が迫る。猫戸と立川は病院の裏庭に出た。青々とした芝が広がり、木陰にいくつかのベンチが設置されている。植えられた木に止まった蝉が凄まじい勢いで鳴いていた。神経に触るようなその声は、暑さをより増して感じさせるようだ。

「アッチィ」

 日陰のベンチにゆっくりと立川が座り、タオルで汗を拭いた。猫戸は立ったまま、隣で松葉杖を持って、心配そうに立川の様子を見ている。

「大丈夫か?熱持ったりしてねぇ?」

「うん、それは大丈夫。――まぁ、カーゴパンツなんか普段履かないし、ゴワゴワして暑い感じはする」

 猫戸はスマートフォンを見た。病院に着いたら、社長から連絡がくる手筈てはずになっている。立川が、フゥと息を吐いて言った。

「緊張するな」

「うん」

「梨花ちゃん、笑ってくれるといいけど」

「そうだな」

 立川の頭を見下ろして、猫戸が呟く。

「実はさ、このことがあってから、梨花ちゃん、俺の事見てくれなくなってんだよ」

「……」

「別に、俺なんてどういう関係があるわけでもねぇのに、明らかに負い目感じてる様子で」

 立川がそっと猫戸を見上げた。猫戸は眉を寄せた重苦しい表情で、立川を見ていた。立川の瞳は悲しそうに瞬く。

「本当に負い目なんだろ」

「え?なんで?」

「お前がいなけりゃ、俺は梨花ちゃんに会うことも無かったし……お前が、俺の事好きだし」

 猫戸は眉を寄せた表情のまま否定をしなかった。

 その時、猫戸のスマートフォンに着信が入った。発信者が社長であることを確認すると、猫戸は朗々とした声でそれに応対する。場所を伝えると、中庭まで社長一家がやってくることになった。

「うぉー、緊張する……」

 立川が言って、猫戸の手を借りて立ち上がった。そうして待つこと二分程、芝の中に通った煉瓦の道を、先頭を切って歩いてくる社長を二人は見止めた。集団の最後部で爽やかな白いワンピースの裾が翻ると、猫戸の心臓は緊張で張り裂けそうになった。

 松葉杖からそっと伸ばされた立川の手が、猫戸の背中に触れた。ちらりと立川に目をやった猫戸は、立川が根拠の無い自信のようなものを溢れんばかりに漲らせ、自分を見下ろしていることに気付いた。一瞬目が合うと立川は唇をニヤリと上げて笑い、すぐ正面に向き直った。

「康男さーん!」

 立川が元気いっぱいに手を振る。遠目の社長も気づいていただろうに立川がわざわざ声を出したことで、久々の面会は突然、元気いっぱいに火蓋を切った。

 社長一家が速足になり、あっという間に二人の前に着いた。

「立川、立川!」

 社長が言う。唇は喜びで大きく開かれ、瞳はじっと立川を捉えていた。後ろから付いて来ていた文恵、俊明もそうだ。梨花は相変わらず隠れたまま出てこないが、俊明のズボンを掴んで背後にいるのが分かった。佐夜子は一番後ろにいたが、まだ動かなかった。

 社長の手が、立川の右腕に触れた。立川が瞳を潤ませて、へにゃりと笑う。

「康男さん、お久しぶりです」

「お前、久々なんてもんじゃないだろ!」

 その言葉に皆が笑った。俊明は文恵と顔を見合わせると、梨花の頭に手をやり「梨花、ほら、タチカワくん元気だよ」と声を掛けている。

 微笑ましいそのやりとりの中で、猫戸は共に笑いつつも、冷静に佐夜子を見ていた。佐夜子は口に手をあて、潤んだ瞳で立川を見詰めていた。その視線は喜びを全面に押し出しつつも、愛情が多分に含まれている。

『俺は、あの目線を向けられた事が一度も無かったな……』

 そんな猫戸の視線に気づいたのか、突然佐夜子と視線がぶつかった。猫戸が微笑みを浮かべたまま小さく会釈をすると、佐夜子も同じように返してきた。

「どこか痛くないの?」

 文恵が立川を上から下まで嘗め回すように見ながら聞くと、立川が困った様子で眉を下げる。

「いやぁ、大袈裟に見えますけど、そんなに痛くないんですよ。咳とかくしゃみでアバラが折れそうなくらいで」

「えぇ?咳とクシャミで?」

「マジです、マジ!」

 立川の言葉に笑い、全員の緊張はみるみるうちに溶けた。一番後ろで様子を見守っていた佐夜子が、耐えきれなかった様子で楚々そそと近づいてくる。大きな麦わら帽子の下から、潤んだ瞳がしっかりと立川を捉えていた。

「立川さん」

「佐夜子さん、お久しぶりです!うわぁー康英くんおっきくなったなぁ」

 天真爛漫に笑顔を向ける立川に戸惑い、佐夜子は顔を赤らめたが、視線を逸らしはしなかった。立川が目を細めて、小さく頭を下げた。

「俺が寝っぱなしだった時も、見舞いに来てくれてた話、ばーちゃんから聞きましたよ。ありがとうございます!」

「……良かった、本当に良かったです」

 震える声で佐夜子が言って、微笑んだ。

 空気が和むと、梨花がおずおずと俊明の背後から姿を現した。

「よぉ、梨花ちゃん!ケガは大丈夫?」

 立川が言うと、梨花はどういう顔をしたらいいのか分からない様子で、唇をむぐむぐと動かした。実際、梨花の足にはぺたぺたと幾つかの絆創膏が貼られているのみで、特に大きな怪我も無さそうだ。瞳をぱちぱちと瞬かせて、唯々言葉に詰まる梨花を立川が手招きすると、梨花は慎重に立川に近づいた。

「梨花ちゃん、ピアノの練習、ちゃんと続けてる?」

 立川が梨花の頭をぽんぽんと撫でた。梨花は首を左右に振って否定する。立川が驚いた様子で梨花の顔を覗き込もうとした。実際には、覗き込もうと体を折ったところで、痛みに一瞬息を止め、また身体を起こした。顔だけ出来る限り梨花を覗くように傾ける。

「どうして練習しないの?」

「だって……リンちゃんの、発表会、無かったから」

 梨花が小さな声で言って、不意にぽろぽろと涙を零した。立川を昏睡まで追い込んだ自分の責任を咎める気持ちだった梨花が、初めて自分自身の悲しみに向き合った瞬間だった。

「リンちゃんがピアノ練習しても、もう誰もきてくれないから」

 その言葉に、そこに居た大人全員が驚く。咄嗟に立川が言った。

「あーあ、梨花ちゃんの発表会楽しみにしてたのにな。見せてくれないなんて酷いなぁ」

「でも、終わっちゃったもん」

「また招待状ちょうだい。何度でも行くからさ」

「……ほんと?」

 梨花が立川を見上げて涙を拭った。立川の微笑みをはっきりと目の前にして、また梨花の瞳から大粒の涙が零れ落ちていく。

 涙を流す梨花を、立川は穏やかな笑みで見つめていた。

「俺は、梨花ちゃんに大した怪我がなくて良かったと思ったよ」

 そう言って、猫戸を振り返った。

「なぁ、そうだろ、猫戸」

 突然同意を求められた猫戸は一瞬戸惑った様子を見せた。立川が手を伸ばして、猫戸をグイと前に押す。突如、梨花の目の前に押し出された猫戸は、しゃがんで梨花に目線を合わせた。

 梨花が恐々こわごわと猫戸を見る。涙でぐっしょりと濡れた手で、止まらない涙を抑えようとぐいぐいと拭いていた。

「ごめんなさい、ネコトくん」

「いや、俺は別に……」

 言いかけて、猫戸は言葉を押し止めた。そうして、クラッチバッグから白いハンカチを取り出すと梨花の頬に当てがった。

「梨花ちゃん、いいよ。謝らないで」

「ネコトくん……怒ってないの?」

「怒ってないよ、でも確認しないで飛び出したのはダメです。危ないからね」

 言って微笑むと、梨花は小さく「ごめんなさい、ちゃんと見ます」と呟いてしゃくりあげた。梨花の後ろから俊明がやってきて、鼻をグズグズと鳴らす梨花の肩に手を置いてしゃがんだ。猫戸と目が合うと、優しげな笑みを浮かべて頭を下げる。

「猫戸くんにも、色々手伝って貰って、本当に感謝してます。ありがとう」

「私は、好きでやっていただけなので……」

 ――好きで――

 自分の口から出た言葉に、猫戸自身が一番驚き、戸惑い、思わず口を噤んだ。

『好きで、やっていただけだ』

 猫戸の言葉に不自然な部分は無かった。俊明は何の疑念も抱かず、口を動かして何かを言った。

『好きで』

 猫戸は優しく微笑み返したが、その耳は、受け取った音の全てを遮断している。ただ、心臓のドクドクという強い鼓動が全身に広がっていった。

『誰にどう思われても構わなかった』

 胸が強く締め付けられ、猫戸は無意識に細い呼吸をした。

「立川、どのくらい歩けるんだ?」

 社長の質問で、猫戸は現実に引き戻された。立川が「まだ、そんなに長距離はアレですけど、結構歩けますよ」と曖昧な返事を返している。

「ここらへんをぐるっとするくらいは大丈夫なのか?」

「はい」

「じゃあ、歩きながら喋ろう」

 言って、社長は立川の隣に立ち、ゆっくりと歩き出した。


 立川の隣へ社長が進むと、2列目に俊明一家が続いた。無理にそこへ割り入る事は理由も無く不自然であるため、猫戸はゆっくりとその後に続いた。当然のように、猫戸のやや後に佐夜子が付いてくる。楽し気な前の二グループを尻目に、猫戸と佐夜子の距離は一向に縮まらなかった。

 太陽光はじりじりと猫戸の身を焼く。猫戸は白いハンカチを取り出して首の汗に当てると、そっと佐夜子を振り返った。佐夜子は抱いた康英の汗をタオルで優しく拭っている。

「佐夜子さん」

 猫戸の呼びかけに、佐夜子がハッと顔を上げた。麦わら帽子の広いつばが、佐夜子の女性らしい造作の顔に影を作っている。一瞬佐夜子の足取りが止まる。猫戸は穏やかな瞳で佐夜子を見ていた。

「隣を歩いてもいいですか?」

「――はい」

 佐夜子が頷いた。

 猫戸が歩みを緩めると、俊明一家と距離ができたかわりに、猫戸の左に佐夜子が並び、歩き始める。猫戸は正面に顔を向け、顎を上げて、凛とした表情で小さく言った。

「佐夜子さんに、謝らせていただきたいと思っていました」

 先頭を歩く社長と立川が、木立の中に作られた散歩道へと進んでいく。風に揺れる木々が騒めいた。青々とした葉は、強い陽射しから人々を守っている。

 黙っている佐夜子を伺うように、猫戸は優しく続けた。

「謝罪をしようとしていたのに……情けないことに、連絡を取る勇気がありませんでした」

「猫戸さんは、どうして私に謝ろうとしているんです?」

 佐夜子の言葉に、猫戸はやや驚いた。決して責める口調でも無い。視線が合った猫戸に、佐夜子が微笑んだ。

「私は、あれから色んな事を考えました……自分自身に正直になろうとか、猫戸さんの事とか――立川さんの事とか」

 ふふ、と佐夜子が声を出して笑う。

「私たちは、お互いが、自分自身を偽っていたのが罪だったと思うんです」

 猫戸は、自分が考えていた事そのものが、まるで佐夜子に伝わっていたかのように思い、素直に驚いた。

「だから、猫戸さんは悪くありません」

 佐夜子の胸に抱かれていた康英が腕をバタバタと動かした。それをあやしながら微笑んでいた佐夜子に、猫戸が言った。

「貴女はとても聡明で、魅力的な女性だと思います」

 佐夜子が不思議なものを見るような視線を猫戸に向ける。

「もし、立川が私より先に貴女に出会って居たなら、すべてが変わっていた可能性は高いと思います」

 猫戸は、穏やかで、真面目で、それでいて強い意志を持った視線で佐夜子を見つめ返した。

「でももし、私だけが佐夜子さんに出会っていたとしても、きっと私では貴女を幸せにはできなかった」

 申し訳なさそうにうなだれてから、猫戸は溜め息とともに呟いた。

「……私はどうやら、アイツがいないと――毎日が楽しくないようなんです」

 それは一見するとただの感想だった。しかし、佐夜子には衝撃とともに重く響く。やや眉を顰めて、佐夜子が薄く唇を開いた。

「そんなの、ずるいです」

「えっ?」

「私だって、立川さんが居た方が楽しいんですよ」

 佐夜子が頬を染めると、怒ったように膨らませた。

「猫戸さんばっかり、そんなのずるい」

 まるで子供のように言うその口振りに、思わず猫戸が笑う。口を開けて声を出してから、はっと気付いて右手で口を塞いだ猫戸を、佐夜子はくすくすと笑って見ていた。

「猫戸さん」

「はい」

「私たち、ライバルって言っていいんですか?」

「――そうですね」

 微笑んで頷きかけて止め、猫戸は唇の端を擡げて左の眉を上げると、わざと佐夜子を見下ろす。すっきりと伸ばされた背筋と首があり、艶のある頬の上には、細められた瞳が光を受けてきらりと輝いた。口紅を塗らずとも、朱を沸き立たせた唇がそっと開く。

「ライバルと言うには……私にがありすぎるんじゃないですか?」

 猫戸のいけしゃあしゃあとした言葉に、佐夜子は目を丸くした。すぐにむくれた顔で「もう!いじわる!」と言って、猫戸の左腕を抓った。「いてッ」と声を上げた猫戸と顔を見合わせて、佐夜子は声を上げて笑った。




 木陰に入った立川の隣には社長がいたが、やがてなし崩しに押し出されると、その隣を梨花が陣取った。それもしばらくすると、じりじりと寄っていった佐夜子を含めて大きな笑いが起こる。皆が好きなように話をして帰っていった時には、午後六時をまわっていた。

 社長たちを見送って残った立川と猫戸は、熱の残る中庭のベンチに座っていた。猫戸がちらりと立川に目をやり、声を掛ける。

「疲れたな。大丈夫か?」

「――うん、大丈夫だけど、本当に疲れた」

 弱々しく笑う立川を不安そうに見ていた猫戸に向かい、立川が顔を上げると微笑んだ。

「でも、俺、幸せだよ……皆がこうやって会いにきてくれて、笑顔が見れて、本当に嬉しい」

「立川……」

「早く戻りたいなぁ……」

 立川の瞳は遠くを見ている。夕方になったものの、まだ落ちきっていない陽は青々とした葉を通して、柔らかな光と影を二人に落としていた。

 猫戸は立川の横顔を見詰めた。頬の左側に、肌色のテープを貼っている。事故直後から暫く、そのサイズは頬を覆うばかりに大きいものだったが、今では一部を隠すのみだ。露出する、やや白みがかった新しい皮膚が時間の経過を感じさせる。その皮膚の上に、汗が流れ落ちた。

 目を細めて、猫戸がそっと言った。

「立川」

「ん」

「キスしないか」

 立川はゆっくりと猫戸を見たが、無表情だ。一大決心をして言った言葉への反応を受け、猫戸はウッと喉を詰まらせて唇を噛み、続けた。

「なんだよ」

「……いや、なにも」

「嬉しくねーの?」

「よくわかんない」

 立川の言葉には覇気が無い。どう思って、何を感じているのか分からず、猫戸は戸惑った。

「したくないのか?」

「……猫戸、無理しないでいいよ」

 立川は笑って言ったが、猫戸は笑わなかった。

「無理なんてしてない」

「嘘だ」

「俺がしていいって言ってんだから素直にしろよ」

 猫戸が詰め寄ると、立川の視線がぐるりと上を見て、呆れた様子で溜息を吐いた。

「そんな投げやりなキスしたくない」

 言われて、猫戸は沸騰したように顔を赤くさせた。

「投げやり、なんかじゃねぇ」

「きっと後悔するよ」

「しない」

 きっぱりと言い切った猫戸に違和感を覚えたのか、立川は怪訝な顔で猫戸を見る。

「――猫戸、どうしたんだよ」

「……」

 猫戸はぎろりと立川を睨んでいたが、怯む事無く立川が続けた。

「悪いけど、同情としか思えないんだ」

「なッ……」

「言っただろ、同情とか謝罪とかウンザリするくらいされてるから、正直言って分かるんだよ、そういうの」

「何を偉そうに言ってんだ、何にも分かってないくせに」

 立川が眉を顰めて猫戸を見詰め、何か言い返そうと口を開いた瞬間、猫戸が先に口火を切った。

「俺が、どれだけお前の事が好きか分かってねぇ」

 立川の瞳がゆっくりと見開かれる。

「好きだ、立川」

 猫戸がはっきりと言ったが、その瞳は不安で揺れている。立川が「えっ、えっ」と聞き返して身を乗り出した。一瞬痛みに顔を歪めたが、それでも止めない。

「もっぺん、ちゃんと言って」

「好きだよ」

 身を乗り出してきた立川に僅かに近づいて、言葉を一度切り、猫戸は膝に置いた手をぎゅうと握った。顔は燃えそうな程赤いが、視線は煩悶を含みじっと立川を見詰めていた。

「立川が居なくなるかもしれないと思ったら、すげぇ怖かった。お前のいない世界なんて考えたく無かったよ」

「――猫戸」

 猫戸の一挙一動を見逃さないように見開かれていた立川の瞳から、涙が頬を伝った。驚いた猫戸が立川の顔をまじまじと覗き込むと、立川はハッと気づいた様子で涙を拭って、恥ずかしそうに笑った。

「は、ハハ……ご、ごめん」

「謝んな、馬鹿」

「なんか、胸がいっぱいになっちゃって」

 立川が胸に手をあてて息を吐いた。落ち着こうと深く息を吸ったところで、肋骨に刺すような痛みが走り、眉間に強く皺を寄せた。猫戸が咄嗟に立川の背中に手を当て、擦る。二人の顔が近づいた。

「――ッ」

 驚いた様子で猫戸が息を呑む。立川がそっと言った。

「――猫戸、目つむって」

「あ……あの……」

 明らかに狼狽した様子で猫戸が小さく呟く。立川が猫戸のシャツを掴んで引き寄せる。無意識に猫戸も立川のシャツの裾を掴んだ。

「あっ、おい、立川、ちょっと……」

「目ぇ瞑れって」

「待って、待って俺ッ、オレ」

「シー」

 猫戸の耳元で立川が囁くと猫戸はゴクンと喉を鳴らして、小さな声で囁いた。

「俺、キス……したこと、ねぇんだよ」

「……」

 立川が体勢を変えないまま「マジで?」と聞いた。猫戸が頷く。

「今までセックスした時も、キスは……してない」

「――そっか」

 ふっと笑い、立川はゆっくりと身体を離して猫戸の顔を覗き込む。真っ赤な顔の猫戸が立川を見ていた。立川がそっと言った。

「ファースト・キスが俺でいいの?」

「――お前が……」

「ん?」

「お前がいい……立川」

 言われた立川は、ニヤニヤとした笑いを堪えつつ、さらに聞く。

「ここ中庭だから、誰かに見られちゃうかもしれないけど、いいの?」

「うっせぇ、良い訳ねぇ!……でも仕方ないだろ」

 猫戸が吐き捨てるように「お前とキスしてぇんだから」と言い切った。立川のシャツを掴んでいた、猫戸の手に力が籠る。立川がそっと猫戸の頬に右手を伸ばそうとしたが、また痛みに小さく声を上げて体勢を戻した。名残惜しそうにのろのろと下げられた手を猫戸が掴む。

「立川、普通にしてろ、俺からする」

「えっ?」

「目ぇ閉じろ」

 立川が何度も「エッ?」と言いながら目をパチクリさせた。猫戸がずい、と身体を寄せる。

「待って待って、猫戸、なんか違――」

 猫戸の顔が近づいた。長い睫毛が間近で瞬いたのを見て、立川は自然に瞳を閉じる。立川の薄い唇が、ふわりとした猫戸の唇に触れた――はずだった。実際に触れたのは、唇とは思えないただの肌だ。一瞬だけ触れたそれに違和感を覚えた立川がそっと目を開けて、目前の猫戸を確認した。

 猫戸は真っ赤な顔で俯いている。

「ん?」

 立川がその顔を覗き込んだ。猫戸は、唇を咥内に入れて歯で噛んでいる。そのせいで全く唇が見えない。立川がブフフと噴き出した。笑ったせいで肋骨が軋み、目尻に涙を浮かべて笑いを堪えている。

「あイテテ……お前!何やってんだよ!ちゃんと唇出せ、くちびる!」

「……」

「なぁ、キスするんだろ?」

「……」

「お前、クチが『ンー』ってなってんじゃん『ンー』って。それでいいの?」

 猫戸の顔は今にも火を噴きそうだ。珍しくダラダラと汗をかいている。立川が追い打ちをかけた。

「えー?今のがファースト・キスでいいのー?」

「もう、もう……立川、勘弁してくれ……」

「どしたの」

「俺、今のが、精一杯なんだよ、マジで」

 泣きそうな声で猫戸が言った。手の甲で唇を拭い、隠している。

「うーん、まぁ、あの猫戸がなぁ、って思ったら、大成長だと思うけど」

「ごめん」

 立川が眉を下げて笑った。その時、中庭に穏やかなオルゴールの音楽が流れた。立川はふと顔を上げて空を見上げる。

「あー、部屋に戻らないと」

 溜め息交じりに言って、立て掛けていた松葉杖を手に取った。立ち上がろうとする立川を手伝おうと猫戸がその身体を支えた時、立川が囁いた。

「今日はお前でヌくわ」

 ギクリとして猫戸の身体が固まる。立川は松葉杖に体重をかけてバランスを取り、立ち上がると飄々とした様子で続けた。

「お前は?俺でヌくんだろ?」

 猫戸が唇をわなわなと震わせて、眉間に皺を寄せた。

「サイアクだな、てめぇ!」

「何とでも言いなよ。俺がオカズを何にしようと勝手じゃん」

「それを俺に言うなよ!」

「じゃあ聞かなかったことにしといて」

「できるか!」

「下品だと思ってる?」

「当然だろ!」

 噛み付くように答える猫戸に向かってちらりと立川が視線を送る。

「それでも俺の事好きなの?」

 猫戸は戦慄わななかせた唇のまま「好きだよ!」と言い切った。

 きょとんとした顔で立川が猫戸を見ている。間をおいて、頬を赤く染めると、視線を逸らして「……おう」と答えた。

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