第11話「デート の 約束」

 翌火曜日、立川の行った『社長のパソコンへの侵入』は、本人から社長に報告されると当然大問題になった。社長室へ呼び出された立川の背中を、システムエンジニア仲間は不安そうに見ていた。

 立川にはそういう行為に至った経緯を合わせた始末書の作成と、二カ月の減給が言い渡された。――あくまでも、表向きは。

 社長は立川の話を聞くと「確かにアイツは俺以外の連絡出ないらしいからな」と、深く納得した様子で言った。「だからって、体調悪い猫戸を呼び出してどうすんだ、お前」という至極もっともの意見も忘れていない。立川は「猫戸があんな様子なのおかしいじゃないですか。あんなにボロボロになってる姿見た事無かったもんで、家で死んでんじゃないかって凄く心配したんですよ」と情に訴えかけた。社長は「まぁ、心配するのはいいが出社させたら可哀相だろ」とまたもや御尤ごもっともの意見を述べてくる。心配しようが、何をしようが、猫戸に無理をさせたという事に違いは無い。猫戸本人からの訴えは無かったものの、それを社長は良しとしなかった。

「猫戸に無理をさせたから、お前始末書はちゃんと書けよ」

「はい……」

「あと、二カ月減給な」

「うえっ!二カ月ですか!……はい、覚悟の上だったので、しっかりと反省させていただきます」

「よし、じゃあ二カ月減給するから、ちょいちょい飯連れてってやるよ」

「康男すぁーん!」

「いいからとっとと始末書かけ」

 社長室で行われたやりとりを、猫戸は自席で聞いていた。時折作業の手を止め二人の様子を伺っていた猫戸は、最終的に一人笑みをこぼしていた。

 数日すると猫戸の体調はすっかりと戻り、いつもの冷静な姿で職務に当たっていた。一方で、解決しないといけない事もある。


 ある日、猫戸が運転する車の中で社長が言った。

「最近、佐夜子と会ってないみたいだな」

 ギクリとしつつ、猫戸は平静を装った。しかし顔には緊張が走る。

「申し訳ありません」

 後部座席の社長から、大きな溜息が漏れた。

「文恵から言われたんだけどよ、二回目の……あれだ、雨の日の時よ、佐夜子が泣いて帰って来たっての聞いてんだ」

 その言葉は、今まで言いたくても言えなかった言葉だろうと猫戸は思った。体調不良で早退をしてしまった日、猫戸のミスを追及する社長は明らかにいらついた様子で猫戸に相対していた。しかし、社長の中でも『父』としての顔と『社長』としての意識の狭間で苦悩したのだろう、一言も佐夜子の話をしてこなかった。互いの感情と体調が落ち着いた今、話すべきだと判断している様子だった。

 猫戸が「停車させてお話をさせて頂けませんか」と言うと、社長は「おう」と頷いた。車を近くのコンビニの駐車場に停車させ運転席から出て、猫戸は社長の為にアイスコーヒーを買って戻る。車外に出ていた社長にそれを手渡した。

「ありがとよ」

 ブラックのアイスコーヒーをストローで吸いながら、社長は社用車に凭れていた。その前に直立不動で猫戸が立つ。社長が、手で払う仕草をした。

「お前、そんなド真ん前に立たれたら緊張するから、横に来い」

「はい」

 言われるまま社長の横に移動し、猫戸は目の前の穏やかな光景を見た。やや暑くなった気候に耐えられなくなったのか、スーツのジャケットを脱いだサラリーマンの集団がアイスキャンディーを食べている。土木工事中らしき服装の中年男性は、山盛りの弁当を両手に持ってコンビニから出てきた。

「康男さん」

 猫戸の言葉に対して、社長はただアイスコーヒーを啜る音を立てている。

「文恵さんからお聞きになった、佐夜子さんが……泣いていた件ですが……原因は、私が佐夜子さんの気持ちを裏切った事にあります」

 社長のアイスコーヒーを啜る音が止まった。

「その事について、佐夜子さんにも、康男さんにも……皆さんに申し訳なく思っています」

 それは『猫戸が佐夜子の気持ちをもてあそんだ』とも取れる説明だった。だが、それ以上に猫戸は説明のしようが無い。佐夜子が同様に『自分自身を騙していたという罪』をその父親に暴露する程、猫戸は愚かではなかった。

「なんだ、お前……その、彼女とか、いたのか」

 社長が小さく言った。猫戸が首を振る。

「――いえ、おりません」

「佐夜子が気に入らなかったか」

 溜息と共に言われた言葉に胸が締め付けられる。猫戸は苦悩の表情で瞳を閉じ、また首を振った。

「佐夜子さんと出会った頃に――」

 言い掛けた猫戸の脳裏に花見の光景が蘇った。一面にピンク色が包み込む世界で、楽しそうに笑う社長、梨花。傲慢な態度を見せながらも、満更でもない様子だった文恵。皆をまとめてくれていた俊明。そして、微笑みながら我が子を愛しそうに見つめる佐夜子。――豪快に笑い、猫戸を気遣い、赤ちゃんを大事そうに抱き、梨花と喧嘩し、真面目に教育を語り、梨花と仲直りし、皆にクローバーを配り、猫戸には厳選したものをくれた立川。

 猫戸が顔を上げる。真っ直ぐに前を見ていた。

「好きな人がいました」

 社長はまたアイスコーヒーを啜った。返事は無い。

「――しかし、私はそれを否定したい気持ちがありました。……ですので、康男さんから佐夜子さんの話をされた時に、心のどこかで『佐夜子さんとお付き合いしていく方がいいのではないか』と思っていたかもしれません」

 実際には、猫戸は佐夜子の話を出された時に『どうして俺なんだ』としか思わなかった。それは佐夜子の好意が明らかに猫戸に向けられたものではなかったという事に気づいていたからだ。一方で、文恵あね計謀けいぼうや、康男ちちおやが良かれと思い薦めた縁談で引き裂かれた佐夜子の気持ちに、落ち度など少しも無い。

 社長はストローで一気にアイスコーヒーを吸い上げると、大きく溜め息を吐いた。

「いや、うん……お前を見る目が間違ってたとは思ってねぇよ、俺は」

「康男さん」

「佐夜子もな、ヘタクソだからな。色々と。親としては心配なんだわ」

 言いながら、氷だけが残ったカップをゴミ箱に捨てに行く。戻るなり後部座席を自分で開けて乗り込んだ。

「おい、モタモタすんな、行くぞ」

「――はい」

 猫戸は運転席に乗り込んだ。




 季節は初夏になった。社内の人は薄着になったが、猫戸は相変わらずスーツを貫いている。屋上で風に当たっていた立川が切り出した。

「暑くないの?それ」

 猫戸に向かって言う。立川が着ている紺色のポロシャツは汗が滲んで、まだらな濃紺になっている。猫戸は嫌悪感を露わにして言い切った。

「みっともないお前のポロシャツよりマシだろ」

「どうみっともないんだよ」

 立川は大して気にしていない様子で、猫戸の前で腕を広げて全身を見せた。中にインナーは着ているようだが、わきの部分が濃紺を超えたブラックに変貌している。暑さ対策なのか、仕事をする気の感じられないハーフパンツからは、しっかりと脛毛すねげの生えた脛が伸びている。猫戸は吐きそうになるのを、口を押さえて顔を背ける。

「見せ、んじゃねぇ」

「なんだよー、教えてくんないと、みっともない姿を皆に曝して歩くことになるだろー」

 言いながら寄ってくる立川から逃げつつ、猫戸は笑った。

「マジで寄ってくんな、きったねぇんだよ!」

「あ、また汚いって言った」

 立川が傷ついた様子で言う。背後で呟かれた言葉にはっとして、猫戸は立ち止まると立川に視線を向けた。

「ご……ごめん、立川」

「いや、いいけど。キメェのは本当なんだし?」

「あー、違うんだ、いや、違わないんだけど」

「違わねぇのかよ!」

 立川は言うと、猫戸の横に並んでビルの手すりに体を預ける。猫戸は勿論自立していた。

「いや、流石にちょっと暑いか……」

 はは、と笑うと猫戸が手に持っていた水のペットボトルを持ち上げた。

 その時、屋上のドアを開けて他社の女性社員が現れた。続けて男性社員が屋上へ足を踏み入れてくる。二人は先に居た立川と猫戸に気づくと、小さく会釈をして、やや居づらそうに反対側へ向かった。当然の事ながら屋上は共用の場所だ。周囲に立ち並ぶ背の高いビルからの眺望を考えても、機密性は無いに等しい。

 二人からやや遠い場所で、女性社員の笑い声が上がり、甘える語尾が響いた。遠目に見ても、男女二人は社内で公認された付き合いの様子だった。なんとなくその二人に目をやっていた立川が、猫戸を振り返る。

「なぁ、猫戸」

「うん?」

 猫戸は手に持っていたペットボトルの飲み口に唇を付けながら、立川を見上げている。ペットボトルを離した唇に小さな滴が乗ると、舌で唇を舐めた。立川の心臓はドクリと打った。

「デートしないか」

 言われた猫戸は一瞬きょとんとした表情をしていたが、やや顔を赤らめると視線を逸らした。

「嫌か?」

 立川が追い打ちをかけると、猫戸は小さく首を振った。

「え、なに?嫌なの?いいの?どっち?」

 立川がニヤニヤと笑いながら猫戸の顔を覗き込もうとする。猫戸は赤みを帯びた耳が立川から丸見えである事にも気づかずに、苛立った様子で顔を背けつつ、舌打ちをした。立川が一瞬にして顔をしかめる。

「えっ!舌打ち?今舌打ちした?」

「してねぇ」

「しただろ、舌打ち!」

「うっせーな……」

 猫戸の全く乗り気でない返答を受け、立川は遠くにいる男女を見ながら心から残念そうに言った。

「なんだよー、そんなに嫌がられるとは思わなかった」

 言って立川が腕時計を見た。昼休憩の時間は間もなく終わる。「よっ」と声を上げて、手すりから体を起こして、立川は猫戸を振り返った。

「――ぼちぼち、時間だな。もう戻ら」

 言い掛けて、立川は押し黙った。猫戸は唇を噛んで、睨みつけるように立川を見ていた。その頬は赤く染まっている。思わず釣られて立川は顔を赤らめた。

「なに……どうしたの、猫戸」

「もう一回聞けよ」

「え?何を?」

「その……行くかどうか」

「デート?」

「うん」

 立川は、猫戸の様子で何が言いたいのかをなんとなく察した。優しげな笑みを浮かべて、猫戸の表情を伺うように小さく囁いた。

「デートしよう、猫戸」

 猫戸が唇を噛む歯に力を込めたのか、一瞬赤い唇は白くなった。直後に解放されると、赤みを増して立川の瞳にうつる。その唇が動いた。

「する」

 短く言い切ると、猫戸はとっととその場から動いた。

 立川が後を追いながら屋上のエレベーターホールと階段が併設されたホールへ戻る。エレベーターは今二階にあるようだった。下りのボタンを押して機体の到着を待つ。

「なぁ、猫戸」

「なに?」

 屋上のエレベーターホールは天井が高く、二人の声がエコーのように響く。やや声を小さくして、立川が猫戸を見た。

「俺、お前の連絡先知らないんだけど」

「いや、知ってんだろ」

「知らないよ、花見の時も調子崩した時も、連絡したのは社用スマホだし」

「あー、そっか」

 猫戸が納得した様子で言うと笑った。

「そういえば、俺もプライベートスマホっての、持ってるんだった」

 少し寂しそうに、光る下りボタンを猫戸が見る。

「俺のプライベートな連絡先、うちの会社で知ってる人ゼロだな」

 エレベーターが到着する。二人で乗り込むと、短い間の個室になる。立川は、誇らしげに胸を張って言った。

「じゃあ俺はうちの会社の中で猫戸の番号知った『ハジメテの人』なわけだな」

「そうだな」

「そうなってくるとさぁ、今すでに猫戸のスマホに入ってる人に嫉妬するわー」

「え……なに、お前そういうタイプの人?」

「そういうタイプって、彼女の登録連絡先に男がいないか勝手に見たり、怒ってスマホ破壊したりするタイプってこと?」

 立川の口から具体的な行為の内容が挙げられたことで、猫戸は不快感を顔にくっきりと現した。立川が溜め息を吐いて困ったように笑う。

「安心しろよ、そんなのしないよ」

 そうして猫戸を見つめると「でも」と付け加えた。

「お前が心を許して、連絡先を教えるような存在ってどんな人なんだろうって、すごく気になるし嫉妬もする」

「くだらねぇ事気にすんじゃねーよ」

 猫戸は心底どうでもよさそうな表情を浮かべると、操作盤へ向き直った。髪の毛から僅かに姿を覗かせる耳は、赤くなっていた。

 エレベーターが四階に到着すると、立川が先陣を切って降機した。そこで社長がエレベーターホールに立っていることに気づき、咄嗟に挨拶をする。

「康男さん、お疲れ様です」

「おう、おつかれ立川」

 声を聞いた猫戸は降りかけていた体をまたエレベーター内に戻し、操作盤の前へ立って『開』ボタンを押した。

「お疲れ様です、康男さん。お出かけでしょうか」

「おう、ちょっとな。いいよ猫戸、気ィ使わんでいいって」

 社長がエレベーターに入ってくるとすぐに、操作盤の前にいた猫戸を追い出すように場所を奪った。慌てた様子で猫戸が問いかける。

「本日、一四時から商店街の宮木みやき会長と打ち合わせがございますが、お戻りは問題ございませんか」

 エレベーターホールから心配そうに見てくる猫戸と目が合うと、社長は困ったような表情で笑った。

「大丈夫だ、心配すんな。ちょっと……下に佐夜子が康英やすひで連れて来てるらしくてよ」

 猫戸の瞳が大きく開かれる。左右からり出し、閉まろうとする扉の隙間から社長の声が小さく響いた。

「まぁ、すぐ戻るわ」

 エレベーターの扉は左右から閉め切られると一本の筋のようになり、機体を隠した。猫戸は、それを見詰めたまま呆然と立ち尽くしている。背後から立川が声を掛けた。

「猫戸」

「――うん」

 ゆっくりと猫戸が振り返ったが、すぐに立川を見ずに歩き出す。その後ろを追いながら、立川が言った。

「お前の思ってること、いつかちゃんと話してくれよ」

 猫戸が歩く速度を緩めると、当然の如く立川は隣に並ぶ。そうして猫戸が立川を見上げながら、言い放った。

「話してやってもいいけど、俺がお前に話してやろうと思えるような日がくるとは、思えねぇな」

「ど、どういうことだよ」

「立川、にぶいから」

「は!?」

 エレベーターから会社までは大した距離ではない。すぐにそのドアの前に着くと、ドアを開けようとする猫戸の顔を立川が必死で見ていた。

「俺はニブくないぞ」

 猫戸は無言でドアを開けた。「戻りました」という猫戸の声に、営業管理課の数名が「お帰りなさい」と答える。社長室へ向かう猫戸に向かって、立川が小声で「俺はニブくねぇからな!」と強調した。

『どの口が言ってんだよ、それ』

 猫戸は思いながら自席に着く。社長のスケジュールをタブレットで確認しつつ、パソコンでメールを開いた。

『教えてやるわけねぇだろ』

 マウスをクリックする手を止めて、猫戸はディスプレイを睨み見た。思わず唇を噛む。

『俺がどれだけ苦しんだと思ってやがるんだ、あの野郎。佐夜子さんの想いや苦しみに、立川あいつが自分で気づけばいい。それで、本当に『おれに好意を抱いた事』が正しかったのかを悩めばいい』

 猫戸は無意識のうちに唾をゴクリと飲み込んだ。そうして、緊張していた体を弛緩させて、溜息を吐いた。

『そうやって、アイツがもし、俺から離れていったら……その時は』

 心臓がグッと縮まるような痛みを覚える。猫戸が見ていたディスプレイはぼんやりと滲んだ。

『きっと俺は、今のこの考えを、クソ程……後悔するんだろうなぁ』

 猫戸は心の底から深い溜め息を吐いて、視線を落とした。



 数時間後、立川は猫戸から社内メールに送られてきた電話番号とメールアドレス、ソーシャルネットワークサービスのIDを自身のスマートフォンに登録した。すぐさま、メッセージを送る。

「『俺だよーおれおれ!』……送信……『スタンプ』……送信」

 そうして二人の気持ちがデートをすることへと向き始めた同日、立川のブースに楠原がやってきた。

「おう、立川」

「あ……ああ、楠原さんお疲れ様っす」

 立川が明るく答えた事に、楠原は何かを感じ取った様子で笑う。

「お前上機嫌だなァ」

「え、分かりますか」

 楠原でなくても分かる、絵に描いたような上機嫌を見せながら立川は笑みを漏らした。楠原は何か言いたそうにしたが「まぁ、いいや」と言うなり背を向けてまた来た通路を戻っていった。あわてて立川が席を立ち、追う。

 楠原はすでに自分のブースに戻っていた。資料と書籍の山に埋もれるようにして、中ほどに開いた穴のような場所へ身をすっぽりと収めている。

「楠原さん」

 立川の声に、楠原が顔を上げる。改めて見た楠原は、目の下に隈を作って憔悴した様子だった。元々ある口の横の皺は、普段あっけらかんとした楠原の笑顔を強調するものだったが、今は深く影を作り、その心の内を訴えるように刻まれていた。

「――俺に何かできることはありますか」

 思わず立川は言っていた。楠原は立川を見上げる瞳に掛かる重い瞼を何度も瞬かせて「すまんな、ありがとう立川」と呟いた。

 楠原は立川に、自身が担当している『スーパー寺門屋てらかどや』の案件の説明をした。元々この案件は、楠原をシステムエンジニアとして、プログラミング専門の女性社員の金森かなもりとタッグを組んで二人で作成する予定だった。しかしそれが、行き詰まっている。楠原が頭を抱えた。

「康男さんには報告してある。金森ちゃんと二人じゃ、クライアントの要求に応えきれないのが目に見えてるんだ」

「わかりました。俺の花屋のシステムは、来週火曜に納品するんで、トラブルが無ければ康男さんの指示に従います」

 立川の言葉に楠原は頷いた。


 その日は営業管理課の文恵を始めとした女性社員数名が経理の精算があると言って残っていた。挨拶をして、立川と楠原は会社を出る。猫戸はすでに退社していた。

「立川さぁ、今日ゴキゲンだったけど何かあったの?」

 日中よりも幾分か顔色の良い楠原が聞いた。立川は、ヘヘヘーと笑う。

「なんと俺、猫戸の連絡先ゲットしたんスよ」

「おい、嘘だろ」

 楠原が露骨に驚いている。二人でエレベーターに乗り込むと一階へ下り、他の企業の社員に挨拶をしながらビルの外へ出る。感心した様子で楠原が言った。

「よく教えて貰えたな」

「まぁ、紆余曲折うよきょくせつありましたけど。……その点で言えば、楠原さんにちょっとくらいは感謝する事もあるかなぁ」

 立川は、猫戸との距離がグッと近づいた『三縞みしまハウジング』の件を脳裏に浮かべた。あの事が無ければ、猫戸はまだ自分に警戒心を抱いていただろう。どうやって互いを知ったらいいのかも分からなかったに違いない。

 楠原は立川の言葉の意味を理解できない様子で苦笑した。

「なんだよ、ちょっとしか感謝しないのか。人でなしめ」

 言われた立川は、思わず声を出して笑った。

「俺、猫戸には『人たらし』って言われてるんですけど。楠原さんから見たら『人でなし』っすか!」

「待て、俺からしたらあの猫戸に『人たらし』って言われる仲だっていう事の方がかなりの衝撃だよ」

 立川が停めていたロードバイクの鍵を外して、ヘルメットを被った。入口の横からガタガタと出てくる立川を見ながら、楠原がニヤニヤとした下卑た笑いを漏らしている。

「あの、ネコト雪の女王がねぇ」

「……なんすかそれ」

「え、良くない?俺が今考えたんだけど」

「寒すぎて、風邪引きそうっす」

「雪の女王なだけに寒いか!」

「全然上手くないですよ、ソレ」

 ロードバイクにまたがりながら「次それ言ったら、俺楠原さんの案件手伝わないですから」と言うと、楠原は突如神妙な顔つきになり、背筋を伸ばして直立し、口にチャックをする仕草を見せた。立川が口を大きく開けて笑う。

「じゃあ、また明日」

 立川の言葉に楠原が笑って手を上げた。

 その日、立川のSNSには、猫戸からたった一言「おつかれ」とだけ返信が入った。

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