第6話 花見―1―

 そしてとうとう週末がやってきた。猫戸の家に下げていた逆さまのてるてる坊主は何の効果も無く、春のうららかな陽気の朝を迎えてしまっている。猫戸と立川は、会社のある駅で落ち合うと電車で移動をした。始めは猫戸が車を出すと言ったが、猫戸が(おそらく)唯一楽しめるであろう酒が飲めなくなるのは頂けない、と立川が拒否をした。かといって自分が運転するという頭はない。「俺だって飲みたい」と立川が結局譲らなかったため、結局揺れる電車内で猫戸は立川のジャケットをぎゅうと掴む羽目になった。

 ボディバッグを斜めに背負った立川は、いつもに増して活動的な印象を与えた。やや短いベージュのチノパンツと、くるぶしが見える長さの靴下、そしてそれを真っ白なデッキシューズが覆いつくしている。パンツとの隙間から見える足首は、腱がはっきりと現れ、引き締まっていた。紺色のジャケットの袖を捲り上げたそこから、太い腕が晒されている。猫戸は電車の揺れに耐えながら、吊り革を握る立川のを上腕を呆けたように見上げていた。

「……猫戸、なんでスーツなの」

 突然頭上から降り注いだ質問に、猫戸はハッと我に返った。

「えっ?」

「なんで休みの日までスーツなんだよ」

 立川が問う通り、猫戸はいつもと変わらぬスーツ姿だった。ぴたりとした、張りのある生地が体を包んでいる。春の爽やかさが連想される、薄い灰色の生地には細いピンクと白のストライプが入っている。靴は磨き抜かれた、キャメル色の革靴だった。猫戸はバツが悪そうに言った。

「俺、こういうの慣れてねぇから、何着たらいいのか、全然わかんねーんだよ……」

 恥ずかしそうに口を尖らせるその姿が、立川の目には愛おしいものに映る。そんなやましい立川の胸の内など気づかず、猫戸が続けた。

「相手は、社長だしよぉ……俺はその秘書だしよぉ……正直、着てくもんはおろか、行って何するかもわかんねェよ……」

 電車がカーブに差し掛かると、猫戸は当然の如くぐい、と立川のジャケットを引き寄せた。立川自身は吊り革に掴まっていたため問題なかったが、猫戸がふら付いている。

「ほら、ちゃんと掴まっとけよ」

「おう、悪ィ」

 立川が猫戸の背中を支えた。麻の混じったシャリ感のあるスーツに手が触れると、ヒヤリとした冷たさを伝えてくる。それはすぐに立川の掌と、猫戸の体温で温もりを帯びた。猫戸は違和感を覚えないのか、何も言わない。立川は『役得だな』と、込み上げるニヤニヤとした笑みを噛み殺すのに必死だった。

 社長の住まいがある最寄り駅に到着すると、駅前から徒歩一〇分ほどに位置する口コミのサイトでも人気のパティスリーに立ち寄った。ガラスケースの中で宝石のような輝きを放つ洋菓子を見ながら、二人で選ぶ。

「文恵さんのお子さんが、梨花ちゃんって言うんだけどよ、まぁどうせ子供だから、多分こういうもん好きだろ」

 後半、社長秘書にあるまじき言葉遣いで無神経に言い放ち、猫戸は可愛い動物の装飾がされたプリンを意気揚々と購入した。パティスリーを出て向かう途中で、今度は酒屋に寄り、立川が常温でも楽しめるワインと使い捨てのプラスチックカップ、紙皿、そしてやや値段の高い缶詰を購入した。選んでいる横から、猫戸が「それなら俺も食えるわ」と、主張の強い(そしてほぼ強制の)アドバイスをしていたものだ。とりあえず、猫戸が一つも飲み食いできないという事は無くなった。

 花見会場に指定されたのは、社長の住まいに程近い川沿いの公園だった。いくらかの桜が堤防に沿って植えられている。その堤防は市民がジョギングをしたり、犬の散歩をしたりする遊歩道を兼ねていた。堤防から公園を見下ろせば川沿いに遊具やアスレチックが設置されている。今の時期は一面の桜が咲き誇っているが、桜は垂れ下がって咲くため、上から見下ろしてもそこまで美しい光景では無かった。

 庶民が見下ろして「あまり綺麗に桜が見えない」という会話をする堤防から公園へ下れば、そこは市が管理をし、区画を区切って市民に貸し出しをしている特別区だ。トイレやゴミ捨て場の管理は行き届いていた。酔狂で降りてきた堤防からの迷い人は、今まで自分たちが立ち、見下ろしていた場所に、本当の美しい世界がある事をそこで初めて思い知ることになる。

 時間は午後一時を回った。まだ堤防を歩きつつ、二人は花見会場を探していた。一般庶民と同じように、堤防沿いの桜を見上げている。堤防に腰を下ろし、公園を見下ろしている幸せそうな家族の頭上で、満開の桜は重そうに枝を垂れていた。

「綺麗だな」

 笑顔で猫戸が言う。二人で歩きながら、立川はふと思った疑問を口にした。

「桜は汚くないの?」

「はぁ?桜のどこが汚ねぇんだよ!あんなに綺麗なのに汚いと思ってんの?頭おかしいぞお前」

 『理不尽だ』と、立川は言葉を失った。何が気に入らないのか、ぼろくそに言われた事に少なからずショックを受ける。しばらく二人で場所を探してうろうろしていたが結局分からず、広い公園を見渡して立ち尽くしていた猫戸のスマートフォンが鳴った。すぐに応答する。

「はい!猫戸です」

『猫戸どこにいるんだ、お前』

「今、右手にアスレチックとトイレが見える辺りの上から、場所を探しております」

『そしたら、堤防から降りて、アスレチックと反対側に歩いてこい』

「はい、すぐ参ります」

 猫戸は言うと通話を切り、立川と一緒に堤防から下った。堤防の上とは打って変わり、公園の道沿いに立つ桜は太い幹をぐんと天へ向かって伸ばし、途中からはさらに力を得ようとするが如く左右へと強靭な男の腕のような枝を広げる。それは更に幾つもの細い枝を支えて、天井と見間違わんばかりに薄桃色の桜が咲き誇っていた。まだ散るタイミングでは無かったが、風に吹かれては、ほろほろと花びらが舞い落ちた。歩きだしてものの数分で、正面の方向から猫戸の聞きなれた、鈴が鳴るような声が響いた。

「ネコトくーん!」

 梨花が猫戸の姿を見止めて、ブルーシートの上に立ち上がっていた。それだけでは満足できなかったのか、脱いでいた靴を履きなおして駆けてくる。ピンク色のワンピースの裾から、レースが翻った。いつも括られている髪の毛は、パーマをかけたのかフワフワと風に靡いた。いよいよ梨花が近づくと、猫戸は手に持っていたパティスリーの箱をおもむろに立川に押し付け、しゃがんだ。

「梨花ちゃん!こんにちは」

 梨花は猫戸の前までやってくると、一旦立ち止まり、まるで恋人のように猫戸の胸元に顔を埋める。

「もう!ネコトくん遅いよ~!」

 今にも額がくっつきそうな程に顔を寄せ、頬っぺたを赤く染め膨らませて猫戸に抱き着く。猫戸が梨花の背中を優しく叩いて、そっと体を離した。

「梨花ちゃん、今日はお姫様みたいだね」

 立川は頬の筋肉が引き攣るのを感じた。歯の浮くようなセリフと動きを繰り出すこの男は本当に俺の知っている猫戸なのだろうかと、隣で立ったままその光景を見下ろした。そうして、先ほど猫戸が「子供」だと言っていたのはこの少女の事だと理解をした。着ているピンク色のワンピースは確かに子供用だったが、フリルやレース、キラキラとしたビジューがふんだんに使用されており、上等なものであるのはすぐに分かった。顔は特に美麗であるわけでもなく、親が普通なのだから普通だろうと立川は思った。ただ、親に無い「愛嬌」がこの少女には天然のものとして備わっている。一方で、同年齢の子供よりもませた様子で猫戸おとなに接する姿は、彼女の足元にかしずいてきた大人が多い事実を思わせた。

 梨花は恥ずかしそうに、でも満更でもない様子でスカートの裾を弄って、ちらちらと上目遣いで猫戸を見た。

「リンちゃんかわいい?」

「うん、かわいいよ」

 にっこりと笑った猫戸が言うと、梨花の瞳が潤んだ。そして咄嗟に踵を返すと、元来た道を二倍の速さで戻って行った。小さな少女が駆け戻って行くのを、猫戸がしゃがんだまま目を細めて見ていた。

「お前、すげぇな」

 立川が耐えきれなくなったかのようにはっきりと言った。見上げる猫戸を、驚愕した様子で見下ろしている。猫戸は居心地が悪そうに立ち上がった。耳が赤い。

「なんだよ、何が言いてぇの?」

「俺知らなかったけど、猫戸って二重人格かなんか?」

「ハァ?」

 怪訝な顔をする猫戸に立川が聞いた。

「梨花ちゃんは汚くないの?」

「何言ってんだ?」

「さっき抱き締めてたじゃん」

 言われて、猫戸は一瞬黙った後に「梨花ちゃんが汚いと思えるなんてお前どうかしてるぞ」と立川へ軽蔑の眼差しを向け、指さした。またも理解し難い猫戸の感覚に、立川は自分の頭が混乱するのを実感した。

 二人は梨花のいざないで、花見席へ到着した。周囲のグループは一区画に五人ほどで花見をしているが、株式会社ジモテックを担う錚々そうそうたる顔ぶれが揃っているそこは、たった数人で三区画を貸し切っていた。広く敷かれたブルーシートの上は冷え対策の分厚い毛布で八割方覆われている。その上には、仕出しで頼んだらしき重箱や手作りのおかずがずらりと並んでいた。仕出しの重箱からはみ出る伊勢海老の髭が、自分はただの重箱ではないと否応なしに主張している。一家の花見に掛ける意気込みは一般の感覚を疾うに振り切っており、それが周囲の普通の家族に与える威圧感も相当なものだ。梨花の着衣や動作、やってきた立川と猫戸を見る近隣グループの視線はまるで珍獣を見るように一歩引いたもので、花見席での話のネタになっているらしいことは痛いほど分かった。

 社長は花見席の奥に座椅子を持ち込み、胡坐あぐらをかいて手を挙げる。

「おう、よく来たな」

「お待たせし申し訳ございません。この度は、お招き頂き誠にありがとうございます」

 猫戸の仰々しい挨拶に苦笑して「まぁいいから座れよ」と社長が手を招いた。社長の向かって右横には文恵が座って居る。梨花は広い区画の中を、縦横無尽に動き回っていた。「失礼します」と言いながら革靴を脱ぎ、敷かれた毛布の上にそっと足を下ろす猫戸を、寝転がった梨花が嬉しそうに見詰めていた。

 立川が一礼をして、一族に声を掛ける。

「どさくさ紛れに、俺も来させてもらって良かったです」

 口を開けて豪快に笑う立川に文恵が「ま、人数多い方が楽しいでしょうしね」と言った。女帝の言葉を全て本気にする気など毛頭無い立川は「お邪魔にならないように隅っこに居ますよ」と笑い返した。梨花は寝転がったまま、母親と喋る『野生のゴリラを連想させる男』をしげしげと眺めている。ゴリラは梨花の陣地である毛布の上へ、どすどすと容赦無く上がってきた。

「あの、奥様と俊明さんは?」

 道路寄りの場所に腰を下ろしながら猫戸が聞くと、即座に梨花が答える。

「ばあばは来ないよ!パパは佐夜子さやこちゃんと一緒に来るの!」

「サヤコちゃん……?」

 猫戸が反復し、瞳をぐるりと巡らせたのを見て、立川は先日の社長室で感じた不穏な雰囲気を思い出した。少し眉を上げ、まるで品定めをするようにちらりと向けられた文恵の視線が強烈に記憶に蘇る。ふと文恵を見たが、今の文恵は特にその会話に興味が無さそうにワインを口にしていた。

「ほら、お前らも飲め飲め!」

 社長が言うだけ言って、自身は缶ビールを煽る。すぐに立川は立ち上がり「いただきます!」と言うと桜の木の根元に置いていたクーラーボックスを開け、中から缶ビールを取り出した。

「猫戸、コップに移して飲むだろ?」

「――うん」

 猫戸は不安気に頷きながらボックスに近寄り、こそこそと抗菌シートを立川に手渡して囁いた。

「マジで悪いけど、缶ビールの口のとこだけコレで拭いてから移してくんねぇ?」

「お前ここでもそういう事言う?」

「――本当、ごめん」

 猫戸は自身の感覚に嫌悪すら抱いていた。過度な潔癖は決して褒められたものではないのも自覚はしていたが、どうしても許容ができない。無理をして飲み下したとしても、自分の体の中に沸き立ち増殖する「汚いもの」が思い起こされ嘔吐してしまう。それだけは今回避けなければならなかった。外で(しかも人が多い中で)物を食べようというこの場自体がすでに、潔癖メーターの針をレッドゾーンまで振っていた。下手をすれば「汚いもの」への「嫌悪感を抱く」手順を踏まずに全てをぶちまけかねない状況だ。

 その一方で、猫戸は潔癖性を一種の自分自身のアイデンティティだと思っていた。幼少期から想像力が豊かだった猫戸は、人には見えないバイキンが見えると言い張り親を困らせた時期がある。次第に、多くは自分自身の問題であるということを認識してからも「嫌ならば、そのような事態に巻き込まれるのを徹底的に避ける」事で乗り切ってきた。ピンチは星の数ほどあったが、体調不良を理由に乗り越えられなかったことはない。ある意味有難いことに、不快感は露骨な程、顔色などの見た目にすぐ現れた。

 立川は、氷で冷やされた缶ビールの水滴をタオルで拭きとると同時に、取り出した抗菌シートで飲み口を拭いた。「これでいい?」と聞くと猫戸はホッとした様子で頷く。遠目に見ていた文恵が言った。

「あなたたち、仲いいのね」

 言われた猫戸は文恵を見た。何も答えないうちに「だって今日二人で釣りに行く約束だったんでしょ」と続けた。

 猫戸は何も言えず苦笑いをする。立川が、プラスチックコップを準備しながら答えた。

「どうなんですかね、先日三縞さんの対応に二人で向かってから、色々話すようにはなりましたけど、別に仲良くは無いんじゃないすか?」

 猫戸はまた何も言わず、ただ困ったように笑っている。文恵は大して興味なさそうに「ふぅん」と言い、数の子を重箱から皿に盛って口に入れた。

 一家の感覚が普通でないことは、その文恵の持つ皿が本当に陶磁器であることからも察せられる。おそらく文恵の周囲で今花見を盛り上げている全ての生活雑貨が本物だろうと立川は思った。あの、曇り一つないワイングラスも、数の子を文恵の口に運んだ箸ですら。

 立川がビールのタブを引き上げると、小気味よい音で炭酸が僅かに噴き出した。咄嗟に梨花が寄ってきて、それに触れようと手を伸ばす。立川は「おっと」と言って手を上げ、梨花の手からビールを遠ざけた。梨花は驚いた表情で立川を見る。

「今、危ないからあとでね」

 言われた梨花は、挨拶もなしに自分の陣地に踏み込んできたゴリラに向かって強い目線を向けた。

「ネコトくんのやつはリンちゃんがやるの」

「あ、これコップに入れてくれるの?」

「うん」

 立川が猫戸をちらり見ると、猫戸はハラハラした様子で小さく頷いた。立川はゆっくりとビールを持った左手を下ろすと「じゃあこのコップに入れよう、ゆっくりだぞ、ゆっくり」と笑った。立川がコップを持ち、梨花がビールをそこへ注ぎこむ。殆ど泡になった出来上がりを見て、立川は豪快に笑った。

「まだまだ修行が必要だなー」

「だってリンちゃんこんなの初めてやったもん!」

 その言葉に、少女の経験の浅さを感じて立川は小さな同情を感じた。梨花の目をじっと見て微笑む。

「そうなの?その割には上手だね、もう百回くらいやったことある人と同じくらい上手い」

 梨花は満足そうに頷くと、両手でコップを持ち、頼りない毛布の足元をそろそろと踏みつけながら猫戸に近寄った。座ったままの猫戸に向かって茶汲みのからくり人形がカタカタと進むようで、その光景は様子を見ていた社長を豪快に笑わせた。梨花は猫戸の所までたどり着くと、笑顔でそれを差し出した。

「はい!ネコトくんどうぞ!」

「ありがとう」

 泡が落ちついたビールは、コップの中の三分の一ほどしか残っていなかった。猫戸がそっと一口飲んで「美味しいよ、梨花ちゃんが初めてやったなんてすごいね」と唇を引いて微笑んだ。梨花はその猫戸の微笑みを確認すると、意気揚々と立川の元へ戻ってきた。意外な行動に立川が驚く。

「どしたの?」

「もう一回!」

「猫戸はそんなに飲めないんじゃないの?」

「じいじにあげるの!」

 褒められた事が嬉しかったのだろう、梨花はコップを立川に持たせ、また自分で注ぎ始めた。社長はそれが自分の元に届けられると信じ、そわそわしていた。先ほど同様のお粗末な出来になったビールを、梨花が社長の元へと届けに行く。社長の瞳は優しさで細められ、今にも迎えに走ってしまいそうな溢れんばかりの喜びが見て取れた。

「じいじにくれるのか?」

「うん、あげる」

 梨花は祖父にとってもいい孫のようだった。ふと違和感を覚えて立川は手を止め、文恵をちらり見る。自分の娘が発案した花見で、初めてビールを注いでみたり、猫戸と仲睦まじい様子を見せているにも係わらず、何も言わない文恵。淡々とワインを煽るその様子は、梨花に興味が無いようだった。

 その時、堤防の上から「おーい」と呼ぶ声があった。皆が顔を上げると、そこにひょろりと俊明がおり、背後に誰かが立っている。俊明が笑顔で階段を降りてきた。

「パパおそーい!」

 梨花は言ったが、ブルーシートの上で立ち上がるに留まっている。愛しのネコトくんとの差は歴然だ。猫戸と立川は立ち上がり、近寄ってくる俊明へ頭を下げた。

「お疲れ様です、俊明さん」

「すみません、先に頂いてました」

 口々に言う二人を制して、俊明がフゥフゥと上がった息を整えながら笑った。

「いやあ、意外と混んでるもんだね、堤防の上の人が凄くてさぁ……迷子になるところだったよ」

 そう答える俊明の背後にいる女性は遠慮がちに姿を隠していたが、枯れすすきのような俊明ではそれを隠せる程の物理的な部分が不足している。猫戸と立川は嫌でも意識せざるを得ない。

「猫戸くん、立川くん、本当に来てくれてありがとう」

 俊明は満面の笑みを浮かべている。そして愛娘を指して言った。

「テンションすごい事になってるね」

 はは、と笑う二人は、立ったまま俊明が毛布の上に上がってくるのを待ち、そしてその後ろから付いてくる女性を改めて見た。

 女性は、ふわりとしたベージュのチュニックに、白いサブリナパンツを履いている。パーマをかけた長い髪の毛は後ろで一つに括られて、動きに付いて揺れた。しかし、実際に居たのは彼女だけではなかった。その腕にはしっかりと赤ちゃんが抱かれている。

 穏やかな笑みを浮かべて、女性が猫戸と立川に頭を下げた。

「初めまして、次女の佐夜子さやこと申します」

 猫戸が素早く笑みを返した。

「初めまして、わたくし康男さんの秘書を務めさせて頂いております、猫戸歩ねことあゆむと申します。この度はお招きいただきありがとうございます」

 まるでガチガチの真面目くさった挨拶だった。立川はいつも通り笑いながらペコリと頭を下げる。

「システムエンジニアの立川龍造たちかわりゅうぞうです。宜しくお願いします」

 社長の家族に対しては余りにもフランクに思えたその挨拶に、佐夜子は優しい笑みで以って応えた。俊明が通路沿いに回って文恵の隣に座る。

「ほら、皆座ってくださいよ、立ったまんまじゃお酒も飲めないよ」

 珍しく仕切りながら、立川と猫戸を座らせる。佐夜子は靴を脱いで上がると、姉の対面に腰を下ろして座り、寄ってきた梨花に赤ちゃんを見せた。梨花は嬉しそうに声を掛けた。

「ヒデくーん」

「さっき、お腹いっぱいになったから寝ちゃったのよ」

 赤ちゃんは熟睡をしている。木々のざわめきにも、大人の会話にも動じずに、小さな鼻をたまに膨らませては、小さな吐息を漏らした。

 最終的に六人と赤ちゃん一人が花見に参加することになった。座り席は、一番通路から遠い社長を上座にして、時計回りに文恵、俊明、一番通りに近い場所に猫戸、梨花(場所不定)、立川、そして佐夜子と赤ちゃんだ。授乳をするためお酒を控えていると言う佐夜子の為に立川はリンゴジュースをコップに注いで渡した。全員の顔を見渡すと、社長は満足そうに頷いて声を高らかに宣言した。

「さて、梨花の提案でこんなに素敵な花見も出来ることになりました。皆今日は仕事を忘れて、楽しんでいって欲しいと思います」

 いつも言わないような内容、そして穏やかな口調で社長が挨拶をする。『家族にとっちゃ無礼講だろうけど、こっちは気が気じゃないわ……』と思った立川が、右にいる猫戸を見ると、案の定背筋をびっしりと伸ばして、じっと社長を見詰め、真剣な表情で頷いていた。おそらく無礼講という文字は猫戸の辞書には無い。

「……そういうところが真面目すぎんだよお前」

 小さく言った立川の言葉は、猫戸には聞こえなかったようだ。社長の乾杯の音頭で、花見が始まった。


 ビールの入ったカップをじっと持ち、緊張した面持ちの猫戸はひたすら正座をしていた。何をしたらいいのか分かっていない、しかし飲食をして盛り上げるという事もできない、そういったジレンマが立川には手に取るように分かった。

「猫戸、立て。康男さんところに酌に行こうぜ」

「う、うん」

 猫戸は素直に従って置くかどうか迷ったカップを持ったまま立川に続き社長の元へ行く。

「康男さん、まあ一杯どうぞ!」

 立川が社長の横におもむろに正座をして、ビールを掲げた。社長は「いや、俺缶ビール直に飲む方が好きなんだよ」と言いつつも、満更でもなさそうにプラスチックカップを持った。立川が猫戸に缶ビールを渡して、何故か持参されていた猫戸のカップをその手から奪うと言った。

「いつもお世話になっている猫戸から失礼いたします!」

「おお、ありがとう」

 咄嗟に猫戸が社長のカップにビールを注ぐ。

「こういう機会を作っていただいて、良かったです」

 猫戸が穏やかな笑顔で言うと、社長が満足そうに頷いた。猫戸の笑顔は緊張を孕んでおらず、自然と出た言葉だというのが立川にも分かった。その光景を見ながら、ぼんやりと考える。

『猫戸は今までこういう機会を不快に思っていた訳では無く、ただ参加する勇気も無かっただけだろう。その場で起こる事件を考えると、決して清潔とは言い難い事例も多々ある。それを乗り越える勇気が無かったんだ。――じゃあ、今は大丈夫なのか?どうして今日は参加したんだ?』

 猫戸が酌をしたビールを、旨そうに社長が飲んだ。猫戸と立川は一礼して、文恵の所まで行く。簡単な挨拶を済ませたが、文恵は「私ワイン派なの」と言ってビールを拒んだ。

「今日、酒屋で美味いって勧められたワインを買ってきたので、後で開けましょう!」

 立川が笑顔で言うと、文恵が笑った。

「楽しみにしてるわよ、私生半可なモンじゃ美味しいって言わないんだから」

 その後、二人は文恵の隣に座る俊明の持つグラスにビールを注ぐ。軽く一杯程度しか飲んでいないはずの俊明は、すでに顔を赤くして上機嫌だった。おもむろに俊明が切り出した。

「二人はさ、ほら、あの、彼女いるの?」

 言われた立川は心臓が一瞬収縮するのを感じた。俊明が無邪気に言う。

「ほら、皆結構独身を楽しんじゃってる人多いじゃない?うち。若いうちに結婚した方がいいんじゃないかと思ってさ」

「今は居ないんですよね、いっつも愛想つかされてフラれるんすよー」

 弱々しい立川の返答を聞くなり、突然横から文恵が入り込んできた。

「分かるわー立川くん、それっぽいもん。じゃあ、猫戸くんは?」

 ワイングラスを傾け猫戸に向けつつ、文恵が真顔で問いを投げた。猫戸は肩を竦める。

「私も今居ないですね。当分、一人でいいかなと思っています」

「どうして?勿体ない」

 文恵のその言葉には、猫戸への当然の好意が滲んでいる。仕事で見せる「端正な顔立ちでスタイルも良く、誠実で真面目で一所懸命で、仲間へのサポートも忘れない」そんな猫戸の一面だけしか見る機会の無い者であれば当然抱く想いだ。猫戸の持っている問題点を、誰も知らない。

 猫戸は苦笑いを浮かべた。

「誰かと居ると、疲れてしまうんです」

「ほら、そういうところが今の若い子にありがちな『積極性の無さ』なのよ」

 世間一般で言われるベタな意見を採用し、持ち出す文恵に立川が笑いを零した。文恵は気づかず、自論に集中している。

「二人って佐夜子と年齢変わらないくらいなんじゃない?」

「俺たちは二十六です。タメなんで」

「佐夜子ちゃん、たしか二十七歳だよね?一つ上なのかな」

 おざなりに答えた立川の返答を受け、俊明が言って佐夜子へ目線をやる。俊明の目線に釣られて、皆が佐夜子を見た。赤ちゃんの顔を優しく覗き込んで微笑む佐夜子がそこにいる。たまに、横からちょっかいを出す梨花を諫めたり、顔を見合わせて笑ったり、冗談を言ってくる父親に笑い返したりする姿に、穏やかな内面を感じさせた。

「優しそうな方ですよね」

 立川の言葉に、赤ら顔の俊明が神妙な顔つきで首を振った。

「優しいなんてもんじゃないよ、気遣いの塊みたいな子だよ、本当にいい子だからね佐夜子ちゃん」

 義理の兄として義妹を褒めちぎり強く主張するなど珍しい事例だ。猫戸は微笑んで佐夜子を見ていたが、何も言わなかった。文恵が切り出した。

「猫戸くん、佐夜子どう?」

「どうって……言うのは……」

「どう思う?」

「綺麗な方だと思いますけども……」

 この二人は、何を考えて何を自分に求めているのだろう、と猫戸は思った。身内の褒めちぎり大会なら身内のみでやってほしい。

 文恵が顔を寄せ、小さな声で言った。

「あの子、離婚して実家ウチに戻ってきてるのよ。元旦那の暴力とストーキングで」

 猫戸は言葉を失った。立川は、文恵の言葉が聞こえていなかったのか口元に笑みを浮かべたままキョトンとしている。初対面で、知らない相手のバックグラウンドを正面から突然知ってしまった猫戸は、動揺が隠せなかった。

「えー……ッと、はい。そうなんですね」

「しゃっきりしないわね、どうしたのよ猫戸くん」

「すみません」

「うちの妹が今特売セール中なのよ?何とも思わないの?」

 その言い草に、猫戸は今度こそ何も言えなくなった。もちろん立川であったとしてもそうだろう。いい人間だと褒めながら、安売りするような薦め方を快く思う人間がいるだろうか。俊明は苦笑いを浮かべて、猫戸の表情を伺っていた。

「文恵さんの言い方もアレだけどね、ほら、今はさぁ、息子の康英やすひでくんも産まれたところで、まだ自由にデートしたりはできないかもしれないんだけど」

「なんすかなんすか、俺も混ぜてくださいよ」

 こそこそとやり取りをしていた二人に、立川が声を上げ割って入った。朗々としたその声に佐夜子も姉達に視線を向ける。気まずい様子で文恵が顔を逸らして、立川に噛みつくように言った。

「あんたはいいのよ!」

「なんでですか、俺だって自由にデートしたいですよ」

 文恵の顔色が変わる。

「聞いてたの?」

「俊明さんの『自由にデートできない』っていう部分だけ聞こえました」

「俊明くん!もう!声が大きいのよ!」

 文恵が俊明を睨みつけ、直後に元居た定位置へ戻っていった。

「とにかく立川くんには関係ないから」

「文恵さーん、そんな言われ方寂しいっす、オレ」

 文恵に媚びを売るように、猫撫で声の立川がワインを用意している横で、俊明は何も言わなくなった猫戸の顔を覗き込む。

「ほら、ね、みんな君とピッタリだって話してたんだよ」

「そうですか」

「そうですか、って……凄くないかい?社長の身内を薦めるくらい、君の事を皆が高く評価してるっていうことだよ」

 猫戸の表情は、俊明が今まで見た事の無いような険しいものだった。唇は一文字に引かれ、眉間には深い皺が刻まれている。俊明が慌てた。

「怒ってるのかい?」

「いいえ」

「じゃあそんな、怖い顔するのやめようよ!」

 猫戸は自分自身が険しい顔をしていたことに驚いたが、表情を少しも変えず「そうですね、すみませんでした」と言うなり、立ち上がって、桜の木の根元に用意していたゴミ袋へ、空になったビールの缶を入れた。

 背後に、付いてきたのか立川が立っている。手に持っていた空のワインボトルを、ゴミ袋の横に置きながら言った。

「どうした、猫戸――大丈夫か」

「ああ」

 無表情で答え、猫戸はちらりと立川を見た。

「本当に、文恵さんと俊明さんの言ってた話聞こえてなかったのか?」

「うん。デート云々しか聞いてない」

 桜の枝から重そうに垂れる花を見ながら、立川が答えた。そうして笑顔で猫戸を振り返ると、言った。

「さぁ、後は梨花ちゃんと佐夜子さんにお酌しないとな!」


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