あなたの話が聞きたい

 その夜、我が家のインターホンが鳴らされた。クボタかと思って警戒したが、訪ねてきたのは城之内だった。玄関先で、巷で話題のとろけるレアチーズタルトのロゴが入った紙袋が差し出される。


「猛烈に甘いの食いたい気分になったんだけど、こういうのって一ホールからしか売ってないじゃん。一人じゃ食べきれないから、詩恵奈と山平さんにお裾分け」

「ヤッターー!! ジョーー!! ブラボーー!!」


 甘味が好物の詩恵奈は大いに喜んだ。城之内はタルトを切り分けたらすぐに帰るつもりだったようが、それもなんなので引き止めて家に上がってもらった。早速お茶を入れて、タルトを切り分ける作業に入る。


「今日、二人とも化粧濃いですね」

「可愛いやろ?」

「そうだね」


 サラリと認めて、城之内はルイボスティーが入ったカップに口を付けた。「で、なんでなんですか」と問うような視線を私に向ける。今日は城之内とも気後れすることなく話ができそうな気がした。


「詩恵奈のツテで一緒にバイトしてきたんです」

「へえ、何の………」

「待って。あたしの分が極端に小さい」


 せっかくの流れを躊躇いもなく断つんだ、この女は。ひとつ断っておくと、私が切り分けたタルトの大きさに差異はほとんど無い。言いがかりに等しい発言だ。


「年功序列」

「ボケがわかりづらいよ志維菜ちゃん。三等分っていうのは、タンタンタタン。タンタンタタンでシャッてやんねん。シャッ!」


 詩恵奈が擬音に合わせて大きく身振りをするが、よくわからない。最初から詩恵奈に切り分けさせればよかった。


「お、山平さんこれ読んでるんですか?」


 リズムを刻む詩恵奈を無視して、城之内が机の上に置いたままになっていた技術書を手に取った。


「それ、最近読み始めたんですけど……知ってますか?」


 尋ねると、城之内がニタリと笑った。


「これ書いたの、俺の劇団の主宰なんですよ」

「エーーーー!!!」


 詩恵奈がナイフを落とした。私が柄にもなく大きなリアクションをしたものだから、驚いたのだろう。城之内はパラパラと技術書をめくっている。


「これ全部、稽古前のアップでやってますよ。通してやると結構キツイんですよね」

「あ、あのあの、この、筋トレのメニューのところ、姿勢がよくわからなくて……!」


 ページを指差すと、ああ、と言って城之内が立ち上がった。お手本を見せてくれたので倣って同じ姿勢を取ると、城之内の手が私の身体に伸びてきた。


「ちょっと触りますよ」


 城之内の硬い手が、下腹と背中を挟むように優しく触れる。あたたかくて大きな手から熱が伝わる。


「腰反らさない。背中はまっすぐだけど、肩の力は抜いて。頑張ろうとか上手くやろうとか思わなくていいです。集中して、リラックスしてください。ヘソの下が持ち上がるような、丹田にクッと力が入る感覚、わかります?」


 手の指示に従って姿勢を整えると、頭の真ん中から身体を貫いてナチュラルに軸が立つような、体幹に訴える姿勢になった。安定する。


「はい、それです。できたできた」


 この瞬間、他人に指導できるほど身体に正しさが染み付いている城之内のことを、尊敬した。百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、孤独に勉強して実践するより、実際に指導される方が効率良く、深く学べるものだ。


「ありがとうございます。あ、あと、この部分もよくわからなくて………ここと、ここも」


 欲張って新たにページをめくって見せると、「んー」と城之内は少し考えるように顔を上に向けた。


「よかったら、今度一緒にやりますか? なんかどっか、カラオケとかで広い部屋借りて。俺、教えますよ」

「エーーーー!!!」


 私の大声に驚いた詩恵奈が並べていたフォークを落とした。


「もーー!! 急にリアクションでかい人になるんやめてくれる!? ビックリするやんか!!」

「い、いいんですか……?」

「はい。一人でやるより、二人の方がやれることの幅も広がるし」

「宜しくお願いします!」

「無視すんな!!」


 ギャーギャーわめく詩恵奈を脇に置いて連絡先を交換する。チーズタルトを食べ終えると城之内は自宅に帰った。城之内のカップと皿を下げながら、詩恵奈はまだタルトを食べている私の肩をつついた。探偵のように指をアゴに添えて、劇画じみた表情をしている。


「あると思います」

「ないわ」


 詩恵奈と話しているとつい関西弁が出てしまう。すぐに恋愛の方向に結びつけられることに辟易しながら、私はぬるくなったルイボスティーを飲み干した。



 ☆



 翌週の平日の、私はバイト後、城之内は放課後、合流して駅前のカラオケのパーティールームに入った。机とイスを端に寄せて、無限に流れるBGMの音量をゼロにする。互いにコートの下にジャージを着込んでいたので、すぐに稽古を始められた。


 二人きりなので緊張していたが、時間をかけてストレッチや筋トレの指導を受け、簡単なゲームに取り組むことで、少しずつ城之内と打ち解けることができた。これも演劇の力だ。アイスブレイクと言う。他で習ったことがあることも、初めて聴くことのように受け取ると、理解が深まる感じがした。


 一通り技術書の内容を追って身体が汗ばんできた頃、城之内がカバンから別の技術書を取り出した。


「せっかく二人なんで、やりたいことがあるんですけど………」


 城之内が指し示したページには「感情の記憶と表現」と記されていた。


 ・二人一組で、喜怒哀楽の中から一つ選び、パートナーに「自分が人生で一番XXだった出来事」を話す。

 ・パートナーは聞いた話を演じる。その際、言葉は発さないこと。思わず声が出てしまうのは可。


 注意書きには、大勢でやる際はXXに当てはめるのはなるべく喜怒哀楽の中でもポジティブな感情が良いと書いてある。心が大きく揺さぶられる感情の追体験を大勢でやると、記憶に傷つけられる者が続出し、稽古場全体が錯乱状態になることが懸念されるという。城之内も同じことを言っていて、劇団でも取り組んだことがあるが、その時も題はポジティブなものに限定されたので、一度悲しい話をやってみたかったそうだ。技術書も、悲しいエピソードをやりたい時は、少人数で取り組むことを勧めていた。


「パーソナルな部分っていうか、内面にかなり触れることになるので、差し支えが無ければ、ですけど」

「やりましょう」


 考える間も無く即答していた。何でもいいから、とにかくやりたかった。燃えていた。


 自分の人生の中で、一番悲しかったこと。


 自分の内側に深く潜って、値する記憶を思い当てる。


 悲しかったことや、腹が立ったことはたくさんある。

 すぐに思い浮かんだのは、養成所時代のことだ。一度だけ、女優の講師がレッスンに来なかったことがある。いくら待っても現れず、連絡も取れない。レッスンが成立せずに焦ったマネージャーが、苦し紛れに「今日はこれをやりましょう」と事務所に所属する有名なお笑い芸人のネタを文書にしてプリントしたものを持ってきた。その時すでに、三時間のレッスンのうち、すでに一時間半を待機に浪費していた。講師にも事務所にも同期にも失望する日になった。


 翌月、担当のレッスンの日、講師はケロリと現れた。

 謝罪の一言も無く、何事も無かったかのようにレッスンが始まりかけたので、私は先月どうしてレッスンに来なかったのかと尋ねた。今思い出しても、他に問う者がいなかったことが気に入らない。指摘された講師は手を叩いた。


「よう聞いてくれたわ。ウチ、舞台の稽古で東京におったんよ。曜日勘違いしとってん。ほんで、稽古終わって携帯見たらマネージャーからえらい着信が入っとって、連絡したら、今日レッスンですよ、て言うから、エェェエエエエエ〜〜!! ほんまビックリしたわ。そういう事情やねん。で、先月は何やったん?」


 ちょっと待て。どうして謝罪の言葉が一言も出て来ないんだ?

 金を払い、時間を割き、学ぶためにここに来た私達の意欲や労力を裏切っておいて、それはないだろう。あなたが女優で私達がレッスン生である、そこに貴賎は無くて、蔑ろにされる筋合いは無いはずだ。先月のレッスンは最悪で、心底意義のない時間だった、と私は言った。その場にはネタのプリントを持って来てくれたマネージャーもいた。


「態度が悪い。あれじゃ当分外には出せないなって話になってますよ」


 交流のあったマネージャーに、こっそりと裏の動向を教えられてしまった。長いものに巻かれることができず、私は自分の正義に首を絞められた。


 ………という話が頭に浮かんだけれど、心の方ではそれとは違う話が疼いていた。


「話せますか?」


 頷くと、じゃ、俺から、と城之内が口を開いた。



 _______________________



 城之内の腎臓は彼の父親のものだという。


 尊敬の念を感じつつ、正直、ほんの少しだけ、心のどこかで彼のことを軽んじている部分があった。

 しかし、それを聞いたとき、彼が身の詰まった人間になって、質量を伴って存在していることを脳が認識した。今ここに至るまでに彼に課せられた試練と、その体で生きてきた事実を知ると、胸の中が押し広げられるような気持ちになった。どうしようもなく、城之内が尊いもののように思えた。

 話は続く。

 大学一回生のときに病気になったこと。

 医師が父親のことを「ドナー」と呼んだとき、膝から崩れそうになったこと。


 ――と言うとまるで亡くなったようだが、父親は健在で、今までと変わらない生活を送っていると言う。内面に深く落とし込まれた話をしている城之内の瞳が潤むことはないが、彼を見て、語る己の心を打つものが聴くものの心を動かす真理を本能的に理解した。


 確かに在るのに目に見えない心が、身体を飛び越えて他者に重なり、魂に織り込まれるような不思議で確実な感覚。私たちの生に起こることは、頭で生み出すストーリーには到底敵わない。悲しいけれど、話の内側には彼の心があるからとても豊かで、身があるからこそ、深く響く。


 そういうものを語らなければ。そういうものを聴かなければ。そういうものを得ることができず、気づかずに有象無象に一喜一憂するばかりでは、私たちはどんどん愚鈍で蒙昧な沼の底へと堕ちていってしまう。生きている限り、目を開かなければならない。


「――俺の話は以上です。次、どうぞ」


 私は彼の人生の一部を演じるのだ。軽く扱えるものではない。胸の底に、鉛のように重い責任感が生まれた。それは覚悟によく似ている。


 私の話も、彼にとって、そういうものになるだろうか?


 心が疼く。語ろう。今まで誰にも話さなかったことを。


「とても綺麗な従姉妹がいたんです」


 私が愚かなだけの、悲しい話だ。


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