甘くて苦くて吐きそうさ


 好きです。俺と付き合いませんか。


 仮にそういう話だったのならギリギリ悪くないのだが、水を吸ったスポンジのように重い鎹の足取りからは、彼の話が楽しいものではないことが伺える。駅前のカフェまで行きましょう、と言ったっきり鎹は無言で道を歩いているが、それだけで彼の憂鬱がひしひしと伝わってくる。この陰気な男と陽気な詩恵奈の血が繋がっているなんて、血縁とは不思議なものだ。


 鎹が指した駅前のカフェとは改札前にあるチェーン店のことだと思ったのだが、連れられたのは駅の向かいにある老夫婦が営むレトロなコーヒー専門店だった。一番安いブレンドコーヒーがチェーン店の倍の価格に設定されているような店だ。ヒヤっとしたが会計は鎹持ちになるだろうと踏んで、臆さずにメニューの中で三番目に高いシュペンナーを注文した。見慣れない名前の下に、シュペンナーとは俗にいうウィンナーコーヒーのことなのだという注意書きがあった。鎹はブレンドを注文した。


「すいません、わざわざお時間いただいて」

「いえ、大丈夫です」


 鎹は間を埋めるようにちまちまと氷水の入ったグラスに口を付けている。コーヒーが運ばれてくるまで話を始めるつもりは無いらしい。店内に流れるジャズに耳を傾けながら、充満するコーヒーの香りを吸い込む。いい雰囲気の店だ。


 間も無く飲み物が運ばれてきた。コーヒーの温度でフチの周りのクリームが溶け、中央にぽっかりぽっかりと白いクリームの塊が浮いている。口をつけるとコーヒーとクリームの温度が絡まり、冷たさとぬるさと甘みと苦みを同時に感じる、複雑で単純な味がした。美味しい。鎹は一口飲んだ後、カップを置いて、溜息混じりに呟いた。


「しーちゃんの話なんですけど……」


 心底憂鬱だと言うように。


「晶木の叔父さんから連絡があったんです」

「詩恵奈のお父さん?」

「はい」

「いつ?」

「しーちゃんが東京に逃げてきた日から。そこからわりと頻繁に」


 鎹は私の顔を見ずに話を続ける。


「叔父さん、しー……詩恵奈は俺のところに居座ってると思ってるんです。……怒らないで聞いてくれますか?」

「内容によります」

「だから、山平さんのところじゃなくて、俺ん家に泊めてるってことにしました」


 自分を頼った詩恵奈をキャミソール一枚で追い出しておいて、よくも抜け抜けと嘘をつけたものだ。


「それで?」

「叔父さん、詩恵奈がどういう風に過ごしてるのか、心配してました。二人ともすぐカッとなってケンカしちゃうんですけど、やっぱり親子だし。詩恵奈、こっちに来てから叔父……お父さんに一切連絡してないみたいで。それで」

「私から詩恵奈に連絡取るように言ってほしい?」

「………はい。それと――」


 鎹がカップを持ち上げる。ヨーロッパ調の華奢なカップがとても重たそうに見えた。


「……実際、詩恵奈ってどうなんですか?」


 不穏な感情が、胸の内を支配する。


「――どう、って?」

「絵? やりたいんですよね、詩恵奈は。もう何か仕事就いてるんですか? まさか、フリーターなんてことはないですよね」


 ほら、こういうところ。さっきから鎹の物言いが引っかかる。なんだか、ものすごく、苛々、する。


フリーターですけど。コンパニオン続けてます」


 鎹は浅い溜息をついた。嘲笑うかのように口角が上がる。


「東京来ても結局それなんですよね。絵で生計を立てられてないのに絵描きとかデザイナーとか名乗るの、クリエイティブの世界の全体の質を落としてるって考えないのかな。成人してもアルバイトって……女性はいいですよね、稼ぎのある相手と結婚できれば通帳の心配はいらないんだから」


 鎹は息もつかずに言葉を続ける。乱暴に置かれたカップが厳しい音を立てる。


「山平さんから言ってやってくれませんか? そんな叶えるつもりのない夢なんか見る前に、自分の力で生きられるようになれって」


 視界が霞むような、眩むような、滲むような、不思議な感覚だった。鎹とは、こんな言葉を冷然と口にできる人物だったのか。私は彼を小動物のように常に何事かに怯えている者として認識していた。こんな風に他人の生き方を貶める鋭さを秘めていたなんて、知らなかった。


 目を合わせないまま、鎹はカップにスプーンを入れる。ミルクも砂糖も入れずに、スプーンだけをカチャカチャと回す。


「叔父さんももう若くないんだし、勢いで家出なんかして、他人の家に厄介になるなんてバカな真似してる場合じゃないんですよ、親の気持ちも考えろっつーの。実際、山平さんも迷惑でしょう?」


 親とケンカをした勢いで家を出て、一人で知らない土地を訪れた詩恵奈。大きなスーツケースに夢と希望と不安と反抗、その他少ない荷物を詰め込んで。入り口すら見当たらない中で、ただ一つ絵を描くことだけを希求して。未熟で拙い若さゆえの無謀と、若さゆえの弱さを全開にして。人を頼り、拒まれ、それでも生き抜こうと藁にも縋った詩恵奈の恐れや悲しみの部分は、この人には感じられないのだろう。この人に見えるのは詩恵奈の生来の豪胆な精神だけ。厚かましくて、自立してなくて、驚くほどだらしない部分しか見えていない。


 ちゃっかり資格を有していて、働く術ならいくつか持っているくせに、そこに骨を埋めようとしない詩恵奈の想いを見ようとしない。


 この人には見えない。感じられない。この人の中で、何かが腐ってる。


 私たちと鎹の間には、決して越えられない壁、埋まらない隔たりがある。鎹には詩恵奈を理解しようという意気が無い。そのことにどうしようもない断絶を感じる。


 バカな真似してる。

 早く自立しろ。

 親の気持ちを考えろ。

 いつまでも叶わない夢なんて追うな。


 そんなこと、言われなくてもわかりきってるんだよ。


「迷惑だと思ったことは無いです」


 弾かれたように鎹の目線が上がる。初めて目が合ったような気がした。


「あんたみたいな人には一生かかっても届かないものに、詩恵奈は届きますよ」


 自然と溜息が出た。私は詩恵奈のことをこんな風に思っていたのか。言葉が勝手に溢れてくる。喉の奥が熱い。詩恵奈に対する自分の気持ちが、こんなに熱いものだったなんて思わなかった。


「鎹さん、あんた、美味しいおかゆなんて作れないでしょ」

「おかゆ?」

「詩恵奈がウチに来た翌日、私、胃腸炎になったんです。そのとき詩恵奈が作ってくれたおかゆ、めちゃくちゃ美味しかった。あのチャラチャラのフニャフニャっぷりで調理師の免許を持ってるなんて、ギャップありすぎでしょ。………詩恵奈はちゃんと、普通の人みたいに、働いて生きようと思えば生きられるんです」


 だけど、選ばない。選べない。そういう風にできている。


「あんた、詩恵奈が怖いんでしょ。詩恵奈みたいに、やりたいことのために今まで築いてきたもの、全部捨てたりできないから。大してやりたくもない仕事を大してやりたくもないなと思いながら仕方なく働いて、酒飲んで、愚痴って、寝て、起きて、また働くんでしょ? そういうものだって諦めてるから、詩恵奈みたいな生き方が理解できないんでしょ。だから詩恵奈が怖いんでしょ。この」


 息を大きく吸って、吐き出すと同時に、鎹を言葉で殴る。


「臆病者が」


 長い沈黙が訪れた。静かな店内に、音楽だけが流れている。


 言いたいことを言いたいだけ言った。言いすぎたかもしれない。鎹の顔は沈黙の間に、青くなったり赤くなったりした。


「俺だってね」


 喉に何かがつっかえているような声だった。


「好きなことだけやって生きられるなら、そうしたいですよ」


 会社員の人生なんて、そりゃ、アンタ達みたいなのにはわかんないですよね。


 そう呟いて、鎹は店を出た。

 店を後にするその背中は、やっぱり小さくて少し頼りない。私は鎹の日常、彼が繰り返してるであろう日々について考えようとして……やめた。


 私の分のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。飲みながら思う。私の言葉は鎹のことを傷付けた。それが正しいのか間違っているのか、そんなことはどうでもよかった。自分の気持ちを素直に述べただけだが――酷いことをしただろうか。ただ、こんなにも詩恵奈のことを考えたのは初めてだ。


 だけど、引っかかっていることもある。


 共に暮らし始めてから、私は詩恵奈が絵を描いているところを見たことがない。


 どうぶつのうんどうかいの絵本と、大阪にいた頃デザインしたというスマホのケース。あれ以外に詩恵奈の作品を見たことがないのだ。


 正直、鎹が詩恵奈を貶したとき、私は自分のことも貶されたような気持ちになった。だから、勢いで牙を剥いて反論した。その言葉の中に嘘はひとつも無い。しかし、詩恵奈のことを心から庇いきれない部分もある。


 気分が悪い。私は机の上に残された会計伝票を見つめ、深く溜息を吐いた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る