ひとりが二人


 部屋に戻ると詩恵奈が枕に顔を埋めてシクシクと泣いていた。失恋した相手にかける定型文第三位。


「あんな奴のどこが好きだったの?」

「顔〜〜〜〜〜〜!」


 端的で何よりだ。


 ボックスティッシュを差し出すと、詩恵奈は涙を拭きながら訥々と語り始めた。


 ここまで暴れておいて驚きなのだが、詩恵奈は鎹のことを一途に想い続けていたというわけではなく、実家を飛び出して鎹の所に転がり込んだところ、幼い頃の淡い恋心をうっすらと思い出し、家出の身で心に隙間があったことも重なり、人肌恋しさに背中を押されて行動したという。「誰でもよかった」と聞いたときには頭がクラクラした。


 行く宛ても無く夢だけ携えて家を飛び出すその無謀。先行きが見えない心細さも、寂しさも、誰かの体温を求めたくなる気持ちも、わかる。


 しーちゃん怖いんすよ。


 私は行間が読める大人なので、この言葉の奥にあるもの、根のところを感じることができる。


 確かに怖いな。いつか自ら身を滅ぼしそうだ。


「寂しくても、宿が無くても、関係無い。夢追う第一歩で脱いだら、この先ずっとそうして生きていくことになるよ。それが自分にとって正しいことなのかどうか、考えな」


 優しい言葉をかけてあげられなくて申し訳ないが、覚悟が無いならさっさと帰ったほうがいい。

 求めるものを掴もうとするなら、困難でも、悲しくても、誰にも縋らずに一人で立ち上がらなければならないことだってある。詩恵奈の精神は何かを追う者としてまだリアルじゃない。現実のシビアなところを端折って、夢に目が眩んでいる。


 そして私の目も眩んだ。トイレに駆け込んで、せり上がってくるものを吐き出す。あ、これあかんやつだ。塾でのトイレの光景を思い出して、戦慄した。


 ☆



「胃腸炎ですね。最近ウィルス性のやつ流行ってますから」


 胃の中を上下左右に激しくシェイクされてる気分だ。体が鉛のように重い。

 クボタさんが鳴らしたインターホンで目覚めたあたりから違和感はあったのだが、まさかここまでのことだとは思わなかった。タクシーを拾って病院まで連れてきてくれた詩恵奈はバッチリとマスクを付けて、昨日私が買っておいた手指消毒用のアルコールを熱心に手のひらにすり込んでいる。


「ふふん、キャミイチで外におったあたしがピンピンしてて、志維菜がボロボロになってんのおかしいな〜〜。なんでやろ?」


 会話をする気力が無いので黙っているが、なんでやろ? はこっちの台詞だ。どうして私がこんな目に合わなければならないのだ。感染性となるとしばらくバイトを休まないといけないし、給料が減ってしまう。そうなると今後の予定や支払いの計算が狂う。返却期限が迫ったレンタルDVDも何枚か残っているし、この病院の代金だっていくらかかるんだろう――――。ああ、考えれば考えるほど頭が重くなってきた。熱が上がっているかもしれない。

 私には体調が崩れると日頃の行いの悪点を省みて恨む癖がある。初対面の鎹にチョップなんかしたからこうなったのだろうか。扉の前にいた詩恵奈をすぐに助けなかったからだろうか。いつもクボタさんを雑に扱っているからだろうか。バイト先の同僚や生徒の保護者を見下したり軽蔑したりしているからだろうか。どれだ、どの自業自得だ? どの因果応報だろう? あれのせいでこうなったのだ、とこじつけないと、何もかも遣る瀬が無い。


 こういうときこそ身に起こる全てのことには意味があるという定型文をビリビリに破きたくなる。体調不良に意味も理由も無いだろうが――――。うなされながら点滴パックを睨む私をよそに、他にも点滴中の患者がいる室内に詩恵奈の能天気な声が響く。


「点滴終わったらお会計してー、薬もらってー、薬飲むために何か食べなあかんよなー。あの戻しっぷりやと食欲無いやろうから、トロットロの美味しいおかゆ作ったるわ。そこは期待していただいて差し支えありませんと言っておきましょうっ! 梅? たまご? 何がいい?」


 うるさいし、詩恵奈の手料理なんてエキセントリック☆ポイズンクッキングの予感しかしない。激物料理で胃腸炎に追い打ちをかけられる地獄絵図がありありと浮かんだが、予想を裏切って、詩恵奈が作ったおかゆはとても美味しかった。おかゆという素朴な料理を美味しいと思ったのは初めてで、実を言うと少し感動した。詩恵奈は得意げに冷蔵庫をパッカパッカと開け閉めしているが、電気代が無駄だからやめてほしい。


「ふふん。あたし一応調理師免許持ってるから」


 そんなのいつ取ったの?


「高校ん時。卒業と同時に免許取れる学科があんねん」


 免許があるならそれで働けるではないか。


「だ! か! らぁ! それでガッツリ働いちゃったら絵ぇ描く時間取られへんやん!? あたしは絵でやっていきたいの!」


 ならどうして調理師免許を?


「ご飯って一生食べなあかんし、それやったら自分でおいしいご飯作れたほうがいいやん? ていうか、あたし的には志維菜の話が聞きたいな、元気になったらでいいけど。ま、今日はもう寝とき」


 ゆっくり時間をかけておかゆを食べきり、薬を飲んで、ベッドに入る。時計を見ると十四時を回ったところだった。まだ十四時か、もう十四時か。今日はいろんなことが起こる日だな。


「はー、お腹すいたぁ。あたしもなんか食べさせてもらおうっと。まあ米しか無いけど………。一人暮らしって、大変?」

「大変」


 体調を崩した時に誰かが傍にいるなんて、もう一生無いことだと思っていたし、家族でも友人でもない昨日知り合ったばかりの人間に介抱されるなんて、思ってもみなかった。人生何が起こるかわからないものだ。


 何があっても一人で乗り越える、一人きりで生きていこうと心に決めて上京した。それがこのザマだ。詩恵奈がいなければ、病院に行くことも、ご飯を食べて薬を飲むこともままならなかった。


「…………ありがとう」

「いいよ、早よ寝ーや。あ、大丈夫、部屋の物には勝手に触らんから。安心して寝ていただいて大丈夫ですと言っておきましょう」


 そんな言葉に安心などしないが、突っ込む間も気力も無く、ぐっすりと眠ってしまった。






 どれくらい眠っていたんだろう? カーテンが開いた部屋は暗くなっていた。水が飲みたい。


 顔を横に向けると、詩恵奈が書物を置いているラックの前であぐらをかいていた。見事に部屋の物に勝手に触っている。話が違うじゃないか。私の喉が渇いたように、詩恵奈の舌の根も乾いたらしい。


「おい泥棒」


 誰が泥棒やねんと軽口を叩いて振り向く詩恵奈を想定していたのだが反応が無い。詩恵奈の傍らには私の演技書が積まれている。ほとんどのページから付箋が飛び出ていて、使い込んだ表紙はボロボロだ。スタニスラフスキー、ステラ・アドラー、ブレヒト、チェーホフ、ベケット、シェイクスピア、ラバン………。読んでおかなければならない技術書、作品は山ほどある。どれだけ時間を費やしても、全てを読み尽くすことができない。それでも知れることは知りたい。睡眠時間を極限まで削っていたことも、今回体調を崩した一因かもしれない。


「志維菜はさ、なんで役者なん」


 暗い部屋の中で、静かな炎が灯る。


 頭の中にやたらと詩的な文章が浮かび上がる。詩恵奈の瞳がそんな風に見えたからだ。上目づかいにこちらを見たときとは違い、心の底から話をしようとしていることがわかった。


 目指すものについて、会話の繋ぎみたいな気安さで触れられることはよくある。


 目立ちたいの? テレビに出たいの? 恥ずかしくないの? すぐに泣けるの? 泣いてみてよ。 どうして役者なの? スターになりたいの? 芸能人に会ったことはある? 今のうちにサイン貰っとかなきゃ。有名になったら売るの。あはは。


 単純な好奇心、雑な他人事。そんな風に軽く触れられる度に他人に絶望する。頼むからくだらないことを言わないでくれ。どれも違う。全然違うんだ。


 説明してもわからないだろうな。お前らなんかにわかってたまるか。奥歯を噛み締めながら適当に笑ってやり過ごし、家に帰って床を叩きながら叫ぶ。今に見てろよ、見返してやるからな、ナメてんじゃねえ。そうやって内に溜め込んだものを消化して、前に進むエネルギーに換える。言葉よりも行いで示す。あいつらにはわからない。そんな奴らに話す価値はない。想いを他人に語ることは避けてきた。他人はどうしようもなく煩わしい。私はいつだって舌打ちを堪えている。その舌の根が疼く。言葉の一音目を探している。伝わるだろうか。伝えられるだろうか。


 世の中にはたくさんの素敵なことがあって、何に心を惹かれるかは人によって違う。詩恵奈のそれが絵や料理や教育だったように、私が出会ったのは、惹かれたのは、選んだのは、コレだった。コレじゃなきゃダメだった。コレがないと息ができない。


 他者の理解はいらない。この意志は私だけのものだ。自分が掴めていさえすれば、それでいい。自分が生きるために何が必要かを私は知っている。特に意味など無さそうな世の中で、唯一生きている意味を感じられる、その感覚だけが確か。いつでもずっと胸に有る本音。


「生きたいから」


 それを聞いた詩恵奈は、少しだけ、泣きそうな顔をした。


「突拍子も無い、厚かましいお願いやってわかってる、ねんけど、それ、でも、あのさ………」


 つっかえながら喉から絞り出すものだから、声が震えている。

 感情が理性を追い越すと、人は自分をコントロールできなくなる。度を越した怒りが震えを引き起こすように、あまりにも嬉しいと涙が出るように、今、詩恵奈も何かを感じている。何を感じているんだろう。


「あたしを、ここに、住ませてください」


 申し訳ないけどそれはできない。代わりに何か手伝えることがあればできる範囲で力を貸すから、と言う。普段場をやり過ごすためにやっているように、思いやりを装って尽力するような姿勢を見せれば断る罪悪感からは逃れられる。自分のことすらままならないのに、他人の世話を焼いている場合じゃない。第一、この子は信用できるのか? 無計画に家を飛び出して、人の家に転がり込んだかと思えば家主に迫り、自分を助けてくれた初対面の人間の家の壁を蹴るようなとんでもない女だ。

 普通じゃない。詩恵奈も大概社会から浮いている。


 断ろうと思った。だけど頷いていた。


 詩恵奈はうれしそうに笑った。年相応の可愛らしい笑顔。ドキッとさせられる人懐っこさがある。ああ、見事に絆されてしまった。そういうことにしておこう。私も大概普通じゃない。


 みず。そう言うと詩恵奈がピョンと跳ねてキッチンに消えて行った。


 先のことを考えずに安請け合いをした自覚はある。これからどうなるだろう。


 ひとつ言っておくと、ここに住むことを許した理由と詩恵奈が美人であることは、全く関係無い。


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