第9話 行き先を告げず腐爛するサンドリヨン

 ――嫌な予感がする。


 よくある言い回しだ。


 この世界に来てからというもの、嫌な予感がした時には必ず嫌なことが起こる。必ずだ。なぜかというと、ここはありとあらゆる嫌なものをかき集めてできたような世界だからだ。どう転んでもろくなことにはならない。


 俺の鼻はとうに利かなくなっていて、何が本当に嫌な予感なのか嗅ぎ分けられなくなっている。だったらいちいち危険を避けようと神経をとがらせるより、投げやりな諦めを抱いている方が精神的にはマシなのかもしれない。


 そんな風に思っていた。


 そんな風に思うことにしていた。


 そこに現れた、旧アベリー市の手前に流れる河を堰き止めるほどの死体の山。


 世界は着実な滅びへと一直線に転がっていく。その中にはこんな光景もあるだろう。やむを得ないことだ。


 俺は体の芯をねじられるような悪寒から気をそらし、『よくあること』だと自分を騙した。


 やがて河を渡る橋まで馬車は進んだ。悪臭を吸い込んだウロコ馬が、勘弁してくれと言わんばかりの鳴き声を上げる。そりゃあウロコ馬だってこんな場所を渡るのは嫌だろう。迂回することも考えたが、渡河できる場所を探すのも一苦労だ


 まっすぐ突っ切った方が早く抜けられるんだから我慢しろ、と慰めてそのまま橋を渡った。


 腐敗の進む死体の山はさすがにキツい。人間の死体は見慣れたつもりだったが、それでも直視したら吐いてしまうかもしれない。


 橋の両側にはいくつかの小山に分割されて積み上がる死体があり、その周辺で何かがうごめいている。幸い化け物ではなく生きた人間だった。たぶん街の住民なのだろう。マスクと灰合羽を着込んだその姿は遠目にも酷く汚れていて、どう見ても近寄りたくない感じがする。


 彼らは――男だか女だかわからないが、どうやら周りの灰をかき集め、死体にかぶせているようだった。臭い消しのためだろうか?


 よせばいいのに好奇心を引かれ、俺はその様子を少し詳しく見た。


 死体の周りには、面白いほどの量のネズミが死んでいた。


 まるで死体をキャンプファイヤーに見立てた死んだネズミのフォークダンスだ。


 理にかなっている――と言えばかなっている。灰をかぶせておけば、死体をかじりに来たネズミの群れを毒で一網打尽にできる。


 生理的嫌悪感を少しの間だけ忘れ、俺はその様子に見入った。


 感心した、とは言わない。灰をかぶせて回る連中は、公衆衛生を守るための仕事とか、あるいは死者を弔おうとする行いとか、そうした理由で死者と毒の灰を混ぜあわせているのではないからだ。


 死体の服や持ち物を剥ぎとっている。


 積み重なった死体の間を縫って金目の物を探し、また次の死体へ。


 俺は再び悪寒に襲われた。


 だが、それでも――世界の終末にはこんなこともあるのだと自分を納得させた。地球の歴史にだって終末思想はあるし、自然災害や戦争が起きれば似たような光景も現れるはずだ。俺が知らないだけで、ここ以外の地域でも似たようなことはあってもおかしくない。もっと酷いこともあるかも知れない。世界が滅ぶしかないのなら、人間の心がおかしくなるのも当然なんだ……。


 そう言い聞かせていれば、俺は自分を騙し通せたかもしれない。


 あの靴を見るまでは。


     *


 諦め。


 見て見ぬふり。


 このふたつで地獄の灰に沈んでいく世界に順応できた。俺はそう思っているし、実際間違っていないはずだ。


 この世界は滅びる。日本には帰れない。異世界で細々と生きて、それ以上のことには関わらない。


 抗わず、詮索せず、望まない。そうやって過ごした結果、俺は御者の仕事にありついて、少なくとも餓死や野垂れ死にすることを避けてきた。処世術というのか? そんなところだろう。


 諦めて、見て見ぬふりをする。


 その最たるものが……。


 気がつくと俺は馬車を飛び降りて、死体を漁る羅生門ババアを突き飛ばし、その『収穫物』の中から靴の片方をもぎ取っていた。


 遠目にもそれと分かった。傷つき汚れがこびりついていてもひと目で分かった。直に手で持って感触を確かめ、裏返し、確信した。


 茶色い革靴。


 女物


 右足。


 MADE IN CHINAの文字。


 間違えようもない。


 これは学校指定の革靴だ。


 あの日、地球の、日本の、あの教室から転移した、クラスの女子の誰かの靴だ。


 意識が頭半分ほど体の外に飛び出しているような気分だった。死体だらけの周囲の様子も、音も、腐臭も、降ってくる灰のことも全部吹っ飛んだ。


 とっくに諦めて振り返っても無駄だと思っていた三年前の出来事。それ以前の普通の生活。泥だらけの革靴は、片足だけでそれらの記憶を揺さぶった。


「あああああーッ!!」


 発情期の黒ゴケザルのような唸り声を上げて、羅生門ババアが俺に飛びかかってきた。いくら死体から金目の物を剥ぐようなババアでも、いきなり突き飛ばされて泥と灰の混じった地面に倒されれば怒り出すのも無理はない。


 完全に動揺しきっていた俺はそのタックルをまともに受けた。


 転んで尻餅をついたところに羅生門ババアはさらに追い打ちをかけ、両手を振り上げてメチャクチャに殴りかかってきた。体重も腕力もなくて痛みはほとんどなかったけど、ババアの叫びと手にした革靴と、三年間の暮らしと、いろいろのものが頭をぐるぐる回って抵抗することもできなかった。


 何がなんだかわからなくなって――わからないままババアは俺から3メートルほど離れたところで泥まみれになって呻いていた。


「イリエ。どういうつもりか知らないが、御者が荷物を捨てて何をやっているんだ?」


 いつのまにか横にはルシウムが立っていた。


 マスク越しに俺を見下ろす視線には、死体だらけの風景に対するはっきりとした嫌悪感と、何かそれとは違うものが含まれていた。


 何と言っていいのかわからないがそれは他の何かではなく俺に向けられてるような気がした。


 軽蔑ではなく、哀れみ――だろうか? よくわからない。俺が哀れんで欲しいという願望を抱いていたからそう見えたのかもしれない。


「見ろ」


 ルシウムは、手に持っていた刃物を投げ、地面に突き刺した。


「気をつけてくれ。いまさら治安の悪化について講釈する気はない」


 ババアが錆びた大ぶりの包丁を懐から出して、俺に振り下ろそうとしてきたところを彼女に救われたらしい。


 殴ったのか投げ飛ばしたのか、ババアは薄汚い地面に突っ伏したまま動かない。一応、まだ生きているように見えた。死んでいるのかもしれない。どうせ死んでも誰からも文句の出ない人間だろう。そういう手合は多い。


「……その靴は?」


 手に握りしめていた革靴をルシウムに見られた。


 自分で思ったよりも大きく体が跳ね上がり、俺は慌てて灰合羽の中にしまいこもうとした。それはいまさら遅い。


 護法軍の軍人女の目からは、羅生門ババアからさらに上前をはねるような行動に見えたかもしれない。俺自身、同じシーンを目にしたらそういう感想を持つだろう。


 うまい言い訳は何も思いつかなかった。


 卑屈なゲス野郎を演じて少しでも金目の物が欲しかったとか何とか、そういう方向に持って行ってもよかったが、相手は治安を維持する立場の人間で――何をやってもうまくいきそうにない。 


 俺は異世界から来た人間であることを誰にも打ち明けてはいない。


 面倒なことにしかならないからだ。


 誰かから指摘されたこともない。


 前にも言ったけどここは神の祝福で誰でも意志が通じ合う世界なので、言葉にも不自由しない。骨格や肌や髪の色も特別違和感のあるものではなく、要するに黙っていれば気づかれることではないのだ。


 でも、この状況を説明するのは難しい。靴一足の何に興奮したのか。客観的にもわけのわからない行動だ。


「まあいい。こんな酷いところで立ち止まっていないでは早く街に運んでくれないか? 君の仕事はまだ終わっていないぞ」


 ルシウムは興味なさげに後ろを振り返り、橋の上に停まった馬車と、愚痴を言うように鳴くウロコ馬の様子を見た。


 本当に興味が無いのか、そういうふりをしているのか。


 どうせ俺なんかにはわからない。


 汚れと悪臭をなるべく払い落とし、御者台に登った。マスクの中に溜まるほど汗をかいていたことにその時ようやく気付いた。


 何であんな靴なんて拾いに行ったんだろう? 酷い気分がますます酷くなるだけだ。今さらどうにもならないのに……。


 結局、靴は馬車まで持ち帰ってきてしまった。


 持ち主はどこかで河を堰き止めているのだろうか。

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