第六話

「ただいまー」

「おじゃましまーす」

「お邪魔します」

「邪魔なら帰れ」

「…………」

 笑顔の鉄拳を顔に受けて、涙目になって蹲る仁の背中を東間が優しく擦る。

 男同士の友情を深め合っている間に勝手知ったる我が家の如く上がった理香は鼻孔をくすぐる甘い臭いに眉を顰める。

「なに、この――なんか臭いって感じの甘い臭いは?」

「ああ、たぶん二階で紗菜が盛っているんだろう。いつものことだ」

「あれっ? 紗菜ちゃんの部屋って防音は完璧なんじゃなかったっけ」

「東間、世の中に完璧などという言葉はない。が、確かに紗菜の部屋は色々な意味で刺激が強く、子供に悪影響を及ぼす可能性が高い部屋なので封印されている」

「でも臭いがするわよ?」

「理香の鼻が動物並に優れているということだろう。なお、俺だってその気になれば臭いを嗅ぐことができるんだからね!」

「変なところで対抗意識を燃やされても困るんだけど」

『お帰りなさいませ、マスター。そしていらっしゃいませ、理香様、東間様』

 玄関でたむろっている仁たちの元に馳せ参じるは茶筒のような胴体と頭、足はなく、両脇に付いたキャタピラで移動しており、マジックハンドのような両腕を持つ珍妙なる機械。

 奇天烈極まりないその機械は仁たちのカバンを手に取り、居間へ運ぶ。

「ああ、一号」

『なんでしょうか』

「今日の夕食は俺が作るから、手伝ってくれ」

『畏まりました。では、私はこれで』

 礼儀正しく頭を下げて――体の構造上、どうやっても頭を下げられないので雰囲気だけだが――去る一号の後に続いて居間へ移動。

 早速ダラける仁を他所に、理香と東間は居間の隅に置かれたカバンの中から勉強道具を取り出す。

「おいおい、今から居間で勉強か? 熱心だねー」

「座布団?」

「全没収でいいでしょ」

「そうね」

「酷いでやんす」

「つまらないことを言うからだよ。酷いと思うなら、面白いことを言ってみればいいんじゃないかな?」

「俺的には布団が吹っ飛んだレベルのとても面白いギャグなんだが」

「センス皆無。来世からやり直した方がいいんじゃないかしら?」

「幼馴染みの容赦ない言葉の刃が俺の心を抉る。理香ちゃんの薄過ぎる胸の中で慰めてもらうか、東間君の理香ちゃんに匹敵する胸筋の中で慰めてもらうか」

「ボールペンで刺すわよ?」

「抱き着いてきたら金属製の灰皿で後頭部をカチ割ろうかな」

「どうして灰皿なんて持っているのかとか、何気に理香ちゃんより東間君の方が圧倒的に殺傷力が高いとか、言いたいことは色々あるけど取り敢えずゴメンナサイ」

「素直でよろしい」

「やることないならご飯作りを始めればいいじゃない。あっ、それとも私が代わりに今日の晩御飯を」

「理香! この問題の解き方がわからないんだけど!」

「さて、頑張っている二人のために俺は全身全霊を振り絞り、我が作品の力以外は誰の力も借りることなく夕飯を作ってみせますか!」

「えっ、ええ?」

 前触れもなく、急に張り切り出す男たちに押され気味になった理香は困惑の中で東間がわからないといった問題を解く。

 しかし彼が尋ねてきた問題は恐ろしく簡単な基礎の問題。

 引っ掛けの類いもなく、公式通りに解けば難なく解答を得られる、少なくとも東間が解けられないはずがない問題。

 そのような問題を何故わざわざ訊いてくるのか、尋ねようと口を開き掛けた彼女に東間は怒涛の質問責めを繰り返し、質問への回答以外彼女に言葉を紡ぐことを許さない。

 東間が足止めをしている間に仁は夕飯作りを開始。

 一号の協力の下、冷蔵庫を開けて材料と相談。夕飯を何にするか、心の中で決めると同時に行動開始。

 基本的な物にアレンジとして余っていた別の材料を投入して完成した三人分の漬けマグロ丼をテーブルに並べる。

「ご飯だよー」

「はーい」

「あっ、もうご飯なの? 時間が経つのって早いわね。にしても、東間が変な質問ばっかりするから、あんまり宿題は進まなかったわね」

「ご飯を食べ終わったら仁も交えて宿題をすればいいと思うよ」

「それはそうだけど」

 席に座った二人の前に箸と醤油皿を置き、自身もまた着席すると両手を合わせて丼に向けて頭を下げる。

「ところで? 俺が? なんで? 宿題?」

「なんでって、アンタだって宿題はやらなきゃダメでしょ」

「宿題をやらず、教師を困らせながら呼び出しを受けるのが俺のジャスティス」

「やりなさい」

「はい」

「よろしい。で、これは何?」

「漬けマグロ丼です。割と手が込んでいます」

「見ればわかるわよ。私が訊いているのはご飯と漬けマグロときゅうりの他に変な豆みたいなのが入っていることなんだけど」

「銀杏です」

「なんで?」

「余っていたからです。味付けは特にせず、素材の味を活かしてみました」

「フーン」

 箸を手に取り、ご飯と銀杏と漬けマグロを口に運ぶ――直前で思い出したように席を立った二人は洗面所へ。

 石鹸を付けて両手をしっかり洗い、うがいを行って口と咽喉をスッキリさせてから改めて椅子に座り、仁に倣って両手を合わせて頭を下げる。

「頂きます」

「頂きます」

「いただっきまーす」

 ほぼ同時に漬けマグロ丼を食し始める三人が顔を顰めるまでそれほど時間は掛からず、突き刺さる二方向からの視線に仁はニヒルな微笑みを見せる。

「OKだ。お前等の言いたいことはわかる。俺も同じ感想だ」

「本当に?」

「僕たちが何を言いたいのか、ちゃんとわかっているの?」

「もちろんだとも。俺たちが何年一緒にいたと思っている。お前たちはこう思っているんだろう? 銀杏が邪魔だと」

「正解」

「銀杏邪魔」

「だよなあ」

 箸で摘み上げた銀杏を口に運べば、弾力という名の歯応えのある感触が口から脳へ伝えられる。

 しかし素材の味を活かすという理由で味付けがされなかったため、銀杏そのものは完全なる無味であり、ご飯に合わない。

 ならば漬けマグロには合うのかと問われればこれも否。下手に歯応えがあるせいで噛み切りやすくなっている漬けマグロの足を引っ張ることしかできていない。

 三つを同時に食べれば銀杏が邪魔をするため、美味しさが半減とまではいかないけれど明らかに本来の味を損ねている。

「やっぱり思い付きでアレンジなんかするもんじゃないな。これじゃ漬けマグロにもご飯にも銀杏にも申し訳が立たない」

「理香の料理みたいに、明らかにぶっ飛んでいるような料理ならともかく、ここまで中途半端な料理じゃ笑いも取れないよ」

「ちょっと東間、今の発言は女として聞き逃せないわね。私の料理の何処がぶっ飛んでいるのよ」

「ああ、そうだね。ゴメン、理香。山を一つ滅ぼし掛けるような邪竜と化した君の料理はぶっ飛んでいるどころじゃ済まなかったね」

「あの時は大変だったなー。主に後始末が」

「あ、あの時はちょっと材料を間違えちゃっただけよ! アンタたちだって、まさかレンコンを投入したくらいでチョコレートが邪竜になるなんて思わないでしょ!」

「うん。どんな化学反応を起こそうが、奇跡が起きたとしてもチョコレートが山一つ滅ぼす邪竜に変化するはずないよな」

「アレはもう才能以外の何物でもないよ。理香は人類が到達できなかった段階にまで上り詰めたんだって感動したくらいだ」

「アンタたち、私のことをバカにしているでしょ」

「当然」

「無論だとも」

 犬歯を剥き出しに、怒りを露わにする理香だったが当時のことを思い出したからか、怒りは見せても物理的暴力や言葉の暴力に訴えることなく銀杏入り漬けマグロ丼を一気に喉の奥へ流し込み、大量のご飯と銀杏に咽喉を詰まらせる。

 水を求めてさまよう彼女の手に渡されるのは沸騰寸前のお茶。

 背に腹は代えられない、と、熱々のお茶を喉の奥に流し込めば舌と咽喉が火傷するような痛みに襲われる。

「おお、まさか本当に飲むとは」

「仁、咽喉を詰まらせている理香に今のはないと思うよ」

「うむ。理香なら耐えられると確信を持っていたが、行動してから俺も後悔している。すまない、理香。改めて水をプレゼントしよう」

 差し出される水道水入りのコップをひったくるように奪い取り、熱に焼かれる口と咽喉を冷やす。

 落ち着きを取り戻した彼女は報復として一発だけ拳を振るい、己の非を理解している仁は一切の抵抗を行わずに彼女の拳を受け入れて倒れる。

「ハァ、ハァ、割と本気で死ぬかと思った」

「理香は頑丈だから死ぬことはないって確信していたけど、火傷したら大変だからああいう悪戯は控えた方がいいよ」

「うむ。湧き上がる俺の悪戯心を抑え切れなかったのは我が未熟故なり。でも受け身くらい取れば良かったと後悔する程度には痛いです」

「自業自得よ。むしろその程度で済んだことに感謝して欲しいわ」

「銀杏入り漬けマグロ丼を一気食いした理香ちゃんにも責任はあると思います」

「それは――反論できないわね。その点については謝るわ。ゴメンナサイ」

「うむうむ。謝罪の言葉を受けて余は満足じゃ」

「はいはい。それじゃあこの微妙な漬けマグロ丼をさっさと食べて、宿題に取り掛かろうか。時間は有限、時は金なり、だからね」

「うーい」

「返事ははい」

「はいはいはいはいはいはい以下略」

「一体何を略したのよ」

 呆れる理香の眼差しに照れながら微妙な漬けマグロ丼をかき込み、冷ましたお茶で一服を終えると片付けに入る。

 次いで東間、理香も片付けを手伝おうとする――が、男同士のアイコンタクト直後に東間が素早く理香より空の丼を奪い取り、受け取った仁は流れるような淀みない動作で洗い物を開始。

 無論、東間の役割はそれだけで終わりではなく、抗議の声を上げようとした彼女の腕を掴むと力尽くで居間まで連れて行く。

「何のつもりよ、東間!」

「理香、余計なことは言わなくていい。というかしなくていい。君はただ、黙って僕と一緒に居間まで行けばいいんだ」

「そういうわけにはいかないでしょ。親しき中にも礼儀あり、って言うんだし、私だって洗い物を」

「シャラップ!」

「ええっ!?」

「理香、世の中には口にして良いことと悪いことがあるんだ。そしてさっきの発言は完全な後者。魔王が復活したらどうするのさ!」

「魔王って誰よ! 復活って既に誰かに倒されたの? そもそもどうして私が洗い物って言っただけで魔王が復活するのよ!?」

「また言った。理香、君のせいで世界が滅んだら君は自分を責め続ける。優しい君が壊れる姿は僕も仁も見たくない。だから下手なことは言わない方がいい!」

「つまりアンタも仁も私にぶん殴られたいってこと? 右ストレートで顔面を破壊されたいってこと!?」

「それで君の気が済むなら仁は受け入れてくれるよ」

「アンタは食らう気はないのね。ハァ。昔はもうちょっと優しかったというか、マシな性格だったのに、どうしてこんなに歪んじゃったのかしら」

「僕は歪んでいないよ。歪んでいるのはこの世界。間違っているのはこの世界だ」

「発想がテロリストね。と、そういえば紗菜ちゃん、夕飯になっても降りてこないけど、大丈夫かしら? お腹を空かせてないといいんだけど」

「仁が何も言わないから大丈夫なんじゃない。それにほら、紗菜ちゃんは理香よりも本能で生きている部分が強いから、お腹が空いたら自分で降りて来て勝手に何か食べると思うよ」

「私の何処が獣染みているって?」

「すぐに人を威嚇するところとか」

「威嚇されるようなことをする方が悪いんじゃないかしらね」

 本日何度目になるかわからない、犬歯を剥き出しにした威嚇に怯まず、東間は居間に理香を座らせると宿題を再開するためにノートを広げる。

 仁が二人と合流したのは宿題を再開してから十分後のこと。

 三人で居間のテーブルを囲み、黙々と宿題に取り組む彼等に音もなく現れた一号がお茶の差し入れを行う。

「さんきゅ」

『脱水症状にはお気を付けください』

「わかっているよ」

「ありがとね、一号」

『何かありましたらお呼びください』

 彼等の邪魔をしないようにと部屋から退出する一号を見送る者はおらず。

 最後に宿題を始めたにもかからわず、最初に宿題を終えた仁は真剣にノート及び教科書と向き合う幼馴染みたちを弄ろうと真面目な顔で画策するも、彼のことを良く知っている一号に捕縛され、風呂場に連行されると服を剥ぎ取られ、湯船の中に放り込まれる。

「一号?」

『マスター、湯加減は如何でしょうか』

「うむ。中々悪くない。悪くないが何故お風呂?」

『そこでおとなしくしていてください。ただ、のぼぜと湯冷めには十分ご注意を』

「ああ、うん。それはいいんだけど」

 閉じられた扉から一号の影が消え、脱衣所から誰もいなくなる。

 無理やり風呂に入らされたことについて多少なりとも怒りを覚えていた仁だったが、ちょうどいい湯加減のお風呂の中で身も心も癒され、怒りの心が湯の中に溶けていくのを実感する。

 蕩けてしまいそうな熱いお湯の中、顔の下半分を湯に浸けて泡を作って遊びながら彼は今日一日の出来事を振り返り、いつも通りの一日であることに微笑みながら微睡みの中に意識を沈め、頭を含めた全身をお湯の中に沈めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る