(3)合理的感情爆発が未遂に終わった理由


 佐伯さんはそれまで進んでいた方向とは真逆、つまりぼくがあの子を追っていた方に向かって歩いている。

 時折ぼくの歩調を窺いながら。少しだけ窮屈そうに。

 ぼくはというと、その窮屈な歩幅についてゆくのがやっとで、膝が震えてしまいそうだ。


「で、帰り道に知らない子供に心臓を盗まれた、と」


 佐伯さんは、時系列すらめちゃくちゃなぼくの言葉を的確に掬い上げて、纏めてみせた。そのようにしてログラインの如く簡素に整えられたこの出来事は、いざ人の口から聞くと目眩がしそうなくらい素っ頓狂なお話だ。

 他に言いようは無かったのかと思ったけれど、よくよく考えると、人に伝える言葉など、往々にしてつまらない装飾が施されたものであって、その言霊が外気に触れる前の純真なことときたら、無愛想なくらい簡素なものであることがほとんどだ。


「……信じられる?」


 ぼくは恐る恐る聞いてみる。


「いや、まったく」


 がっくりと肩を落としてしまった。それが自分でも分かったから、咄嗟に佐伯さんの表情を窺う。

 やはりと言うべきか、佐伯さんはぼくの顔を見ていた。ほんの少しだけぼくよりも高い目線。そこから注ぐのは、ぎらついた眼光と言ってもいいくらい、険しい視線。

 その目が何を求めているか、皮肉なことにすぐ分かった。ぼくと佐伯さんは、やはり同じなのだろう。

 情感や配慮など全て置き去りにして、簡潔に、伝えるべきことだけを手っ取り早く伝えてしまいたい。

 冷たい人と揶揄されることが怖いだけで、ぎらついていながらも冷ややかな視線は、きっとぼくのものでもあるのだ。

 ぼくは立ち止まり、佐伯さんのコートの袖を掴み、引き寄せた。ちょうど左のおっぱいに触れるように、影が伸びたような細い指を、手のひらを、胸に当てた。


「心臓の音が、聞こえないの」


 佐伯さんは一瞬目を見開いたけれど、すぐに仏頂面を被り直した。

 そしてぼくの胸に当てた手で思い切りおっぱいを掴んだ。

 それは気を抜けば声を出してしまいそうな痛みだった。包まれるような、あるいは意地悪に抓られるような、そんな痛み。

 声だけを喉の奥に押し込んで溢れた吐息は、味なんかするはずもないのに甘い。脳が端の方から焦げついて、奥の方はすごく熱い。膝が震えている。この震えがどこから来るものなのか、ぼくは知らない。

 不意に佐伯さんの手が離れた。浅い呼吸を繰り返していたのに、その瞬間胸が酸素を取り込もうと目一杯息を吸ったような気がした。

 胸から真っ直ぐ宙を下り、ぼくの手首を掴む。そして親指をあてがい、脈拍を測っている。

 一分間を測り終える前にその指は離れた。そして佐伯さんはしばらく黙り込む。ぼくは彼女がなにかしらのリアクションを起こすのを待っていたから、その時間はもしかしたら一瞬だったかもしれないけれど、途方も無く長い時間に思えた。


「あるよ。心臓」


 佐伯さんは眉を顰めながらそう言った。


「心臓の鼓動ってそんなにはっきり聞こえるものじゃないよ。平常時はね」


「平常時」


「そう、だからあんたの胸を握ってみたの。どきどきするかと思って。でも拍子抜け。全然鼓動なんて聞こえてこない。わざとらしく感じてる演技なんか……もしかして、触られ慣れてたから平気だった?」


 そんなことは無い。その勘違いは甚だ不本意だと、みっともなく弁明したい。しかしそれに食い下がることを良しとはしない。問題はそこではないからだ。

 身勝手に茶々を入れるくせに、相手がそれに乗っかってしまうと、途端に機嫌が悪くなるのだ。それはきっと、ぼくも同じこと。すごく、身勝手だ。


「……ふうん、つれないね」


 ぼくが何も言わないでいると、佐伯さんはぶっきらぼうに言い放った。それはあんまりだと思ったけれど、仏頂面が少しだけ崩れ、頬が弛んでいる。


「ま、そんな経験豊富なあんただから、私は仕方なく脈を確認してみたの。そしたら思った通り、普通に血が通ってるじゃない」


 言われてぼくは、慌てて脈を確認した。親指を跳ね除けようと、弱い律動が通っている。けれどそれは身体全体からこの場所に辿り着いたような、あの、肩から薄っすらと跳ね上がる感覚が無かった。

 まるでぼくの手首だけが自律して動いているような、不気味な感覚だ。


「あるでしょ、脈。心臓が無くなったらそれ止まってるから」


 佐伯さんは言った直後に口を真一文字に結んで、少し視線を泳がせた。


「何言ってんだろ。そもそも心臓が無いと生きてるわけないよね」


 そんな当たり前なことを言われて、ぼくは酷く傷ついた。直後に傷ついたと自覚出来る程度には、深い傷だ。

 あまりにも理路整然としている。そんなところに、立ち返ってほしくなかった。それでもぼくは、何かを言うことが出来ない。

 佐伯さんならきっと、あの日取り乱し、排除されてしまった時のように――


「けれどあんたってがりがりだし、こうも聞こえないっていうのは少し引っかかるね。ましてや帰り道で子供に心臓を盗んだと言われたのは事実だし、探してみようか、あんたの心臓」


 澱みかけた心をそっと掬い上げるように、彼女の言葉が空っぽな胸の部分に深く刺さった。

 そこに常識的な感覚さえも織り交ぜてしまって、それでもぼくの言葉には耳を傾けるだけの理由があると、そう言われているような気がした。

 都合の良い解釈でしかないのかもしれない。たとえばこの直後、二手に分かれて心臓を探すことになったとして、佐伯さんはそのまま真っ直ぐ家に帰ってしまうかもしれない。きっとぼくはそれでもいいのだろう。


「もっと詳しく教えて、その子の特徴。見つけたらすぐ連絡するから」


 佐伯さんはスマートフォンを取り出しながら。


「何ぼさっとしてんの。時間無いんでしょ。連絡先教えて」


 ぼくははっと我に返り、慌てて同じようにスマートフォンを取り出す。

 メッセージアプリのIDをやや早口で伝えると、それほど間を置かず、「あ」とメッセージが届いた。

 ぼくはこういう時、なんと言えば良いのかを嫌というほど知っていた。だけどぼくはそういったこれまで培った経験も全て無かったことにして、それでもありがとうと、小さな声で呟いた。

 佐伯さんは肩を竦め、踵を返した。歩き出すために、やや前のめりになった身体をぐっと押しとどめた。少なくともぼくには、そのように見えた。


「あまり期待しないでよ。あくまで帰り道に意識しとくってだけ。だって私……」


 そこに続く言葉を、ぼくは知っていた。だったら過度の負担をかけないように、ぼくがやるべき事は一つだった。


「ジコチューだから」


 彼女の言葉を先読みした言葉は、そのすらっとした背中にぶち当たった。ぼくには見えない佐伯さんの顔。笑ったような気がした。

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