(5)怨怒リャ


 好き。嫌い。好き。嫌い。


 そんな風に、感情さえも花弁の枚数に委ねることが出来ればいいのに。

 好きと嫌い、二つの選択肢で、割り切れるようには出来ていない。それが人の心。ぼくの心。


「嫌いって言ったらどうなるの? どうしてくれるの?」


「何もせんわ。なんもないみたいにへらへらして、ご機嫌とって、気持ち悪いんじゃ」


「自分が何したか分かってる?」


「あの時のことやったら、分かっとる」


 分かったうえで、それでもぼくに嫌い・・を委ねる。その怠惰に対してぼくは怒っていて、同時に呆れていた。

 勝手に自分の中にいる獣に絶望して、ぼくに対して後ろめたさを感じて、それでも我が身可愛さゆえに波風を立てることすら出来ずに自分の胸を掻きむしればいい。

 ぼくはそのようにして、あの日から今までを過ごしてきたし、唯一ぼくが長々と一緒に語れるシンちゃんにさえも、打ち明けることは無かった。

 あるいは打ち明けることで、その苛立ちを紛らわせたい自分の浅ましさを、曝け出すことになりそうだったから。

 なるほど、なかなかどうしてぼくという人間は、自分勝手な奴だったらしい。

 これは気付きだ。

 こんなに感情が昂ぶって、それでいてこの激昂を客観視する自分もいて――

 多分、今まで生きてきてこんな風に自分が変化する日を過ごしたのは、初めてだ。


「勝手すぎるよ……」


 息が詰まる。まるで胸から下がぼくの身体ではなくなったみたいに、何かがぼくを堰き止めていた。

 心臓もないのに、胸はもう支えきれないんじゃないかってくらい重たい。


「分かっとるわ」


 それも分かっているというなら、どうしてそんなに辛辣な態度を取ることが出来るのだろうか。

 ぼくには解らないし、解りたくもない。


「どうしてあんなことしたの? おねえちゃんのことを、そういう風に見てた?」


 自分でも言っていて恥ずかしくなるような言葉だ。奥歯が震えそうになるのを堪えながら、ぼくは血走ったコウくんの目をじっと見つめる。


「そんなわけあるか」


「じゃあ、どうして」


「聞くな」


「どうして!」


「聞くなっつっとるやろうが!」


「なんで? なんでよ。コウくんに犯されかけたのはぼくじゃないの。そりゃ言いたくないよ。言いたくないってことくらい分かるよ。でもぼくでも聞いちゃだめなの? 言いたくなかったら、だんまりが許されるんだろうけど、ぼくにだけは通じないし、そんなこと許されないでしょう!」


 言葉を重ねれば重ねるほど、そこに怒気を込めている自分に気付いた。気付いたけれど、手ずからいさめるつもりもない。

 首の後ろがかあっと熱くなる。視界の中心で立ち尽くしているコウくんすら、ぼやけて消えてしまいそうだ。

 朧げなコウくんは灰皿を振り上げ、力任せにテーブルに叩きつける。

 盛大な音を立てて砕けたそれの一部は、ぼくの足元にまで転がってきた。

 中で積もっていた灰達は一斉に舞い上がり、灰色を帯びた空気に溶け込むように散らばる。


「……コウくん」


 彼の名を呼んで、そこから続く言葉は無い。最早自分の口から零れる言葉の一つ一つに、明確な理由なんて存在しないとすら思える。


「コウくん!」


 膝の震えはもう、隠しきれてない。

 小刻みに、そして時折跳ねるように震え、ぼくはそのたび包丁の切っ先が彼の胸から逸れることに苛立っていた。


「友達が童貞捨てたから」


 コウくんはついに俯いて、蚊の鳴くような声で零した。


「友達が童貞捨てて、それで……そしたら他の友達も彼女とヤッてて、まだヤッてないのは俺だけやって」


「それだけの理由で? ぼくを襲ったの?」


「襲ったとか言うな!」


「襲ったじゃない! 思い切り後ろから突き飛ばして! のしかかって! パンツまで脱がせて! これを襲ったって言わなかったらなんて言うの!?  どうしてぼくがそんなくだらないことで、あんなに恥ずかしくて惨めな思いをしなきゃいけないのよ!」


「あいつら、俺のことを馬鹿にしたんやぞ!」


 硬い拳が、テーブルを凹ませる。

 いよいよコウくんが何を言っているのかすら分からない。

 柳に風みたいに、声に含ませた怒気すら虚しくなってくる。

 目の奥が熱い。それでも、絶対に泣いてやるもんか。


「……俺が悪いのは分かっとるよ。じゃあどうしたらいいんよ。ねえちゃんに謝って死ねばいいか?」


「知らないよ。自分で考えて。謝ったって許したりしないから」


 糸が切れたように項垂れたコウくんは、頻りに頭を掻く。その所作は病的で、同時に力無くテーブルを叩く手は、何かが取り憑いているみたいだ。

 冷たく突き放す理由は、コウくんに戒めるためではない。彼がどうすればいいのかなんて、ぼくは本当に知らないからだ。

 自分でも、コウくんにどうしてほしいのか解らないのに、剰え自分に謝って死んでくれだなんて言える筈もない。


 それでもぼくは、やりきれない感情をどれだけ人に委ねたくなっても、本当にそうしてしまうほど怠惰な人間にはなりたくない。

 はっと脳裏をよぎるのはあの日の忌々しい光景ではなくて、シンちゃんとの別れ際。

 ぼく達姉弟はまったく同じで、自分の意志で選ぶなんて大それたことは出来ないのかもしれないけれど、ぼくは、ぼくは、この部屋の外で一歩ずつ歩く方法を、人よりも遅いペースで拾い集めているはずだ。


 あなたが引き篭もるこの小さな部屋に、その方法は落ちていますか?

 思わず口に出しかけたその言葉を飲み込む。きっと自分で気付かなければ、一生足元を見ることは無いから。


「どいつもこいつも、俺を馬鹿にしくさりやがって……」


 テーブルを叩く音はやがて、掛け時計の秒針の音と重なってゆく。

 どこか懐かしい感覚だ。そして、そう思った理由はすぐに解った。

 その音が刻む律動は、ぼくの心臓とほとんど同じだった。

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