第7話 虎千代の魔力

 丸一日かけて信濃を抜け飛騨に入った。山深く人の気配はとうに途絶えていた。

山道は木々が鬱蒼としていて昼間だというのに薄暗かった。

 新緑のトンネルを抜けると少し広い道に出た。強い日差しに見舞われて視界がぼやける。虎千代は額に手をやって陽を避けると、鴉天狗の様に頭襟を付け、結袈裟を着た山伏達がカモシカのように岩棚を駆け降りる姿が見えた。

 段蔵は神妙な面持ちでひらりと急斜面を飛び交う山伏達を睨みつけて足を速めた。虎千代も歩調を合わせる。

 山伏達は山襞を滑るようにして虎千代と段蔵の前に立ちはだかり、錫杖の頭飾りを外した。頭飾りを抜き捨てると、諸刃が槍の様に現れた。山伏達は相当鍛錬された刺客であると、一目で見て取れた。

「小僧を渡してもらおうか」

 一人の山伏が低い声で段蔵に言うと、他の二人が素早く三方に分かれ段蔵を取り囲んだ。 

「断る」

 段蔵が威嚇を含めた凄みのある声で言うや否や、錫杖が三方から一斉に段蔵に襲いかかった。

 段蔵はとんぼ返り、攻撃をかわしながら手裏剣を三方に放散し、九十度にそびえる岩肌を蹴って体を反転させ、膝のばねを収縮させた。

「標的確保」

 段蔵はにやりと笑って、極限まで縮めたばねの箍を一気に解放した。空気抵抗を避け、一の字に飛ぶ段蔵が矢の様に空を裂いた。次の瞬間、標的にされた山伏の首が飛び、切り離された胴から血が噴出した。

 虎千代が軽業師の様に空を舞う段蔵に見とれていると、山伏の一人が虎千代の襟首を掴んだ。

「何するんだ!放せよ。僕だってやる時はやるんだからな」 

 虎千代は山伏の腕をポカポカと殴ってやったがビクともしない。山伏に持ち上げられ虎千代の足が浮いた。

「こら、放せって言ってるだろ!」

 足をばたつかせて抵抗したが地面から体がみるみる離されていく。

「もう、こうなったら本気出すからね」

 虎千代は山伏の腕を両手で掴み、引き離そうと顔を赤くして腕を伸ばす。襟首を掴む山伏の力が急に抜け落ち、虎千代の尻が地面に激突した。

「痛って~。ほら見たか、僕の本気を」

 嬉々として万歳する虎千代の手に、重みがかかる。虎千代が突き上げた己が腕を見上げると、胴体から切り離された山伏の腕だけが虎千代の手にしかと握られていた。

「わ~!何だこれ、コラ離れろ、この、この」

 虎千代は腕を大きく上下に振って山伏の腕を振り解こうとするが、虎千代の手からなかなか腕が離れない。

「もう、離れろって言ってるだろ!」

 虎千代が山伏の腕と戯れていると段蔵が虎千代の腕を掴んで山伏の腕を引き離した。

ふっ~と虎千代が安堵していると「怪我はないか」と段蔵が尻餅をついたままたたずむ虎千代に手を差し伸べた。

「うん。僕は大丈夫」

 段蔵の手を握ると、べとりした血の感触が虎千代に伝わった。虎千代が顔を上げて段蔵を見ると、段蔵は全身に返り血を浴びて肌が真紅に染まっていた。

「段蔵さんは?」

 虎千代が心配そうな顔を浮かべると

 「どうもない、怖くなかったか?」段蔵が膝をついて血塗れの顔を虎千代に向けた。

 「ちょっと怖かったけど、でも段蔵さんがいてくれるから大丈夫だって思ってた」

 虎千代がそう言うと、段蔵は真紅に染めた顔から白い歯を零して「それは良かった」 と、碧い空を背にして優しい笑みを浮かべた。

 虎千代が立ち上がり辺りを見渡すと山伏達の姿が無かった。「あれ?」虎千代が首を傾げていると、段蔵が切り取った山伏の腕を谷に投げながら「谷に落とした。追手が見つけるまでには手間がかかるだろう」そう言って山道を先に進んだ。


 小川で血を洗い流し、着替えてから目的の祠を目指すこととした。

「段蔵さーーん。もっと、こっちで一緒に水浴びしよーうよ!!」

 虎千代が十間近く距離を取って水を浴びる段蔵に声をかけた。谷を囲む岩棚に

「しよーうよー」の声が跳ね、反響している。段蔵は叫ぶ虎千代に両手を大きく交差させて断った。


 陽が翳り始め段蔵が足を止めた。

「今日はこの辺りで野宿だな。明日には祠に着けるだろう」

 そう言って、山道を外れ川縁に降りて行った。段蔵は川べりにあった巨石を見つけると下に潜った。巨石は他の石の上に乗っていて丁度洞穴の様になっていた。

「寝れそうだ」

段蔵はそう言って岩から顔を出した。虎千代が岩下に顔だけ潜らせると、人二人は優に寝れるほどの空間があった。

 虎千代は巨石から顔を出して「それにしても」と言いながら段蔵の顔を見た。「何だ」とばかりに段蔵が訝しい表情を浮かべると、虎千代はその場でへたり込んだ。

 段蔵は咄嗟に腕を差し伸べて虎千代を抱きかかえた。虎千代はぼそりと力無く「お腹空いた」と呟いた。段蔵は抱えた腕をすぐさま抜いて、虎千代を石が敷き詰められた川縁に落とした。

「痛いなぁ。何も落とすことないじゃん。本当にお腹空いて動けないんだよ」

 駄々をこねる虎千代に段蔵は、行李から干し芋を取り出して虎千代に手渡した。

 「またこれぇ。もう飽きた。違うの食べたい」

 寺を出発して初めの二日は旅籠に泊まったが、その後は山深く宿場町が無かった為、野宿が続いていた。

 二人は丸二日干し芋しか口にしていなかった。段蔵はしょうがないなぁと言わんばかりの呆れ顔を浮かべ、小袖を上半身だけ脱いで川の中に入っていった。段蔵は膝ぐらいの深さの場所で立つと水面を凝視し静止した。

 「銛(もり)も無いのにどうするのさぁ」

 虎千代が巨石を背にだらしなく腰を下ろしたまま段蔵を罵倒している。段蔵は虎千代を睨みつけ人差し指を口元に立てた。虎千代はため息を漏らして茫然と段蔵を眺めた。水面を見詰めたまま凝固していた段蔵が少し動いたような気がした。虎千代は岩が昼間に吸い込んだ日の温もりを背で感じながら、腹の虫の合唱を聞いていた。

「投げるぞ」

 段蔵の声が聞こえたかと思った瞬間顔に何か冷たいものが当たった。虎千代が体を起こすと、一尺はある岩魚が地面で乱舞していた。

「空から岩魚が降ってきた!でかい!凄い!」

 虎千代はキラキラと目を輝かせた。

 「段蔵さん、何したの。どうやったの?」

 段蔵はふんと鼻を鳴らして、再び水面に目を向けた。虎千代は固唾を呑んで段蔵の所作に目を凝らした。段蔵の二の腕がピクリと動いたかと虎千代が思った次の瞬間、段蔵の手には既に岩魚が握られていた。

 「段蔵さんの手、見えなかった」

 虎千代が感嘆の声を上げる間もなく、二匹目の岩魚が空から降ってきた。

「また降ってきた!凄い、凄いよ段蔵さん!僕にもやらせて」

「お前にはできないよ」

 段蔵がジト目で虎千代を見た。ボッと虎千代の負けじ魂に火がついた。段蔵の見よう見まねで、水面に何度も手を突っこんで岩魚を追った。しかし、岩魚は虎千代をあざ笑うかのように、ひらりとすり抜けていった。

「この、この、この」

 虎千代はやけくそになって水面をやたらめったらに叩くのだった。


 陽が消えうせ満天の星が頭上に花咲く。焚火を囲んで段蔵が捕った岩魚を虎千代は満足げにかぶりついた。結局自分では一匹も捕まえることができなかった。

 パチパチと焚火がはぜる。七歳で寺に入門したこと、それまでの記憶がないことを焚火の炎で頬を赤く染めながら、虎千代が段蔵に話した。

「だから僕は控え選手なんだよ。ことが起こらなければそれでよし。兄上に何かあればその時はってね。しかたなしに……」

 虎千代はぽつりと零し、手にした小枝で薪をいじって煙を吐き出させる。

 「仕方なしに?」

 黙って虎千代の話を訊いていた段蔵が訊き返した。

 「うん。父上は僕が出家してから一度も会ってくれないし、家中の者も腫物に触るようにしか僕に接してくれない。……母上だって」

 「虎御前様がどうかしたのか?」

 「……僕と会うとき、どこか、怖がっているような気がするんだ」

 煙越しに、虎千代の悲しげな顔が揺れる。

 「怖がる?自分の娘に会うのにか?」

 段蔵が首を傾げた。

 「僕は男だ」

 虎千代が頬を膨らませた。

段蔵はあいまいに頷き、謝るように軽く片手を振った。

虎千代はふんとそっぽを向いて、天を仰ぎ今にも落ちてきそうな星たちを凝視する。

 「……僕は誰からも愛されてないんだ」

 流れ星が天空を走ると同時に虎千代の頬にほうき星が伝った。

  段蔵は身を焦がされて頃合いになった岩魚を焚火から取り出し「もっと喰うか?」と虎千代に差し出した。

「うん」

 虎千代は涙を拭って力強く頷いた。

 「光育様は凄い人で尊敬してるんだ。他の小坊主と同じように僕に接してくれるし、優しいんだ」

 手を打って光育の話をする虎千代の顔から、先程見せた陰影は消え失せていた。

 「僕、光育様の秘密知っているんだ?」

 「何だ?」

 虎千代は興味なさげに訊く段蔵の顔を覗き込んだ。

「聞いてる?」

「聞いてるよ」

 顔の近い虎千代に段蔵は少し照れながら体を反らして答えた。

「光育様のね~」

 勿体ぶる虎千代の話し方に痺れを切らせて、段蔵が立ち上る。

「何だよ、答え訊きたくないの?」

「喰ったんだろ。もう寝るぞ」

 段蔵はぶっきらぼうに応えて、虎千代に背を向けた。

「段蔵さんの父上や母上はどうしてるの?」

 虎千代が焚火に薪をくべながら訊いた。

「いくさで死んだ」

段蔵は背中越しに一言だけ零した。

虎千代は立ち上がり、ふと頭の片隅をよぎった、自分でも驚くような言葉が口をつく。

 「戦の無い世の中になったら、段蔵さん嬉しい!?」

 風でざわめく木々たちに紛れない声が、夜の闇に広がる。段蔵は歩みを止めて振り返り、どうとも取れるような笑みを零して静かに首を縦に振った。その面差しは穏やかで優しく、でもどこか淋しそうにも見えた。柔らかな月明かりに照らされた段蔵の姿に虎千代は見惚れていた。立ち騒ぐ胸の内を虎千代は必死に抑えていた。


 夜明け前に出立した。追手を避け、飛騨山脈を稜線に沿って歩いた。

朝日に彩られた桃色の雲海が眼下に広がる。虎千代は吉祥天にでもなったような気分を味わっていた。霊峰白山が眼前にそびえ立つ。

「もうすぐだ」

息を切らす虎千代に段蔵が手を差し出した。天蓋を被った虚無僧が5、6人列をなして前方から歩いてくる。

「ちっ」

 段蔵は舌を鳴らして「もう直ぐだと言うのに」と苦々しい表情を浮かべた。段蔵は引き回し合羽の内で柄に手をやり、何こともなければよいのだが、と祈るような気持ちで虚無僧たちとすれ違った。

 すれ違いざま虚無僧の一人が一見尺八に見える仕込刀を抜いて段蔵に襲いかかった。

「久しぶりだな。段蔵」

 虚無僧は刀で鍔を押しつけながら低い声で言った。聞き覚えのある声だった。

「虎千代!狙いは俺だ!お前は先に行け!」

 段蔵が虚無僧を睨んだまま叫んだ。段蔵の指示通り、虎千代は全力で駆けた。

別の虚無僧が虎千代に棒手裏剣を投げつける。

「危ない!」

 段蔵はそう叫びながら前宙返り、虎千代の顔面の前に右腕を突き出した。段蔵の腕に棒手裏剣が肉を潰す鈍い音を立てて三本突き刺さった。

「行け」

 段蔵は重い声で虎千代に言うと、腕を振って手裏剣を外し、虚無僧たちに刃先を向けた。

 虎千代は段蔵のことが気になりながらも言われた通り走った。二十間ほど走ったとこで虎千代が後ろ髪をひかれ振り返えると、六人の虚無僧に囲まれた段蔵が必死の攻防を続けていた。段蔵の様子がおかしかった。体がふらつき、跳躍力も昨日とは別人のようだった。

「毒だ。さっきの手裏剣に毒が塗られてたんだ」

 虎千代はひとりごちて、鈍い動きで虚無僧たちと刃を交わす段蔵を見やった。

段蔵の引き回し合羽が見る見る襤褸切れのように切り裂かれ、手甲の先から血がしたたり落ちた。

虎千代は走って段蔵に駆け寄った。

「どうして、戻ってきた!」

足元の覚束ない段蔵が息を切らせながら虎千代に恫喝した。

 「だって段蔵さん。ふらふらじゃないか。このままじゃ、やられちゃうよ!」

 虎千代は虎御前からもらった鞘にひょっとこの蒔絵が施された懐刀を手にして叫んだ。

 「こいつらは、風魔だ。俺を殺しに来たんだ。お前は関係ない!」

 「だけど」

 「いいから!言うことを聞け!」

 段蔵が分からず屋の虎千代に怒号を浴びせていると、虚無僧の一人が投げた棒手裏剣が段蔵の左目に突き刺さった。

 「段蔵さん!」

 虎千代は悲壮な声を上げ、涙を浮かべながら段蔵に縋りついた。段蔵は何こともなかったように目に刺さった手裏剣を顔面から抜き捨てた。棒手裏剣の先には段蔵の眼球が突き刺さっていた。大きく跳躍した虚無僧の一人が硫黄の煙を背に上空から段蔵に襲いかかった。

 虎千代の頬を伝う涙が赤く染まった。「よくも段蔵さんを」虎千代の目がつり上がり、突風が虎千代の小袖と直綴裳を吹き上げた。赤く濁った眼で空を舞う虚無僧を虎千代が睨みつけると、虚無僧の腹が裂け臓腑が宙に弾けた。虎千代が他の虚無僧たちに視線を移す。


ギリリ、ギシ、ギシ、バギ、バギ、バギ


虚無僧たちの骨が鳴り、肋骨や鎖骨が皮を突き破って飛び出す。

 「ぎゃーー」

虚無僧たちの絶叫が延々と続く稜線を這った。

 「やめろ!虎千代!駄目だ!」

 段蔵は叫びながら虎千代の頭を抱きかかえた。昂ぶる気を押さえられない虎千代が、段蔵の腕の中で手をほどこうともがく。

「うあああああ」

虎千代は段蔵の腕をとり、怪力で捻り上げた。


― 完全に我を忘れてやがる。それにしても、この華奢な体のどこにそんな力  

  が


 段蔵が奥歯をかみ締める。みしみしと音を立てて、段蔵の骨が悲鳴を上げる。

 「クソ!」

 段蔵は宙返り、腕のひねりを戻して虎千代のみぞおちを思いっきり蹴り上げた。

虎千代はふっと意識を失ってその場に倒れ込んだ。

 骨が突出し満身創痍の虚無僧たちは足を引きずるようにして、段蔵と虎千代から離れていった。

 段蔵は虎千代を肩に担いで白山を目指した。その途中、岩肌を細く伝う小さな滝があった。滝の裏側に洞窟がポカリと口を開けていた。段蔵は冷やりとした空気で満たされた洞窟の中に入ると、担いでいた虎千代をそっと地面に降ろした。敵から逃れ安堵したのか、段蔵はそのままどさりと倒れ意識を失った。

 虎千代が目を覚ますと、段蔵が色の無い顔をして傍らで倒れていた。

 「段蔵さん?」

 虎千代は慌てて体を起こし、段蔵の体を揺さぶった。紫に変色した段蔵の唇が微かに動いたような気がした。虎千代が段蔵の口元に耳を押し付けると、カチカチと小刻みに奥歯の鳴る音が聞こえた。よく見ると段蔵は全身を小さく震わせていた。

 段蔵は手裏剣の先に塗られたトリカブトの毒が全身に回り、生死を彷徨っていた。

 「段蔵さん!寒いの?」

 虎千代は辺りを見渡したが暖が取れるようなものは見当たらない。

 「どうしよう」

虎千代は泣き顔で焦りを募らせた。

 「段蔵さん、死んじゃうよ」

 虎千代は咄嗟に段蔵の血塗られた着衣を脱がし始めた。段蔵を全裸にさせると刃物傷が全身に刻まれ、血が滴っている。

 虎千代も己の雲水装束を脱ぎ捨て全裸になった。「温めなきゃ」虎千代は段蔵を抱きしめ、雲水装束を布団代わりにして二人の身を包んだ。

 氷のように冷たくなっていく段蔵を虎千代は祈るように抱きしめ「段蔵さん、死んじゃ駄目だ。死なないで」必死に念じる虎千代の全身が、碧く仄かに発光し始めた。光は段蔵と虎千代の体を覆い、薄暗い洞窟を満たしていった。

 

 冷たい水が喉を通過する。気持ちいい。そう思った瞬間、段蔵は、覚えの無い感触を唇に受けていることに気づき、目を開いた。虎千代の顔が面前に現れた。驚いた段蔵は反射的に虎千代から身を避けた。

 「貴様、何をした」

 凄む段蔵に虎千代は平然とした調子で

 「水を飲ませてたんだよ」

 「どうやって!」

 段蔵は顔を赤らめて虎千代を問い詰めた。

 「どうやってって、口移しでだよ。だって段蔵さん竹筒口に付けても飲まないんだもん」

「だけど、お前……」

「段蔵さん、目を覚ましたんだね。よかった~」

 狼狽する段蔵を無視して、はじけるような笑顔を虎千代が浮かべる。

「……初接吻だったのに」

 段蔵が小声でひとりごちていると、虎千代が段蔵の顔を覗き込んだ。

 「段蔵さん。危なかったんだから、感謝してよね。僕が裸で段蔵さんの体暖めなかったら、段蔵さん確実に死んでたね」

 虎千代は腕を組んでコクリコクリと首を縦に振りながら言った。

 「……裸で」

 段蔵の鼻腔から一筋の血が滴り、段蔵は片膝を地面に打ち付けた。

 「どうしたの段蔵さん?大丈夫!」

 虎千代が心配声を上げて近づこうとすると、段蔵は片方の拳を鼻にあてがったまま、もう片方の手を突き出して虎千代を制止させた。

 「大丈夫だ。ちょっと、くらっとしただけだ」

 段蔵は低い声で虎千代に言って、立ち上がった。

 「おかしいなぁ。血は全部止まってたのに」

 虎千代は眉根を寄せて首を捻った。

 「これは、違う血だから大丈夫だ。ずっ」

 鼻血を啜りながら段蔵は虎千代に背を向けた。

 「違う血?」

 虎千代は目玉を上向かせて頭上に?を浮かべた。


― 血が全部止まってた?―


 段蔵が小袖の中を見やると、全身に受けたはずの傷が綺麗に癒えていた。

「俺は何日寝ていたんだ?」

 段蔵は急ぎ口調で虎千代に尋ねると虎千代は首を傾げて

「そうだな~。二刻ほどかなぁ」

「二刻?」

 段蔵は走って洞窟を出ると空を仰ぎ見た。日はまだ高く、戦闘を終えてから幾時も経っていないことが理解できた。


― では何故?傷が消えているのだ ―


滝壺に目を落として自問自答した。水面に映る己が顔を見て左目が無いことに気づいた。段蔵が左目にそっと触れていると後方から虎千代の声が聞こえた。

「目は駄目だったみたい。無くなっちゃったものは元に戻らないみたいだね」

 虎千代は少し暗い顔を浮かべて段蔵に言った。

 「だが他の傷は治っている。何をしたのだ?」

 「分からない」虎千代は首を振った。

「段蔵さんが震えていて、温めなきゃって。そしたら、段蔵さんの傷が癒えてたんだ」

 虎千代が口を尖らせて言うと

「面妖なこともあるものだ」

段蔵が顔をひそめる。

二人は直ぐに目的の祠を目指し洞穴を後にした。



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