(2)
聖月学園の、芸術科声楽コースの授業は大きく分けて四つある。
歌唱や合唱、発声の実習授業。英語やイタリア語、ドイツ語等を学ぶ、外国語の授業。発声について学ぶ、音声学の授業。高校で学ばなければならない、必修科目の授業の四つだ。
どちらかと言えば、私は文系の授業が得意なので、今のところは外国語の授業で英語を学ぶのは楽しいけれど、これからイタリア語やドイツ語も学ぶとなると、少し不安だ。
実習の授業は楽しい。発声の仕方について詳しく学べるし、合唱で皆と一緒に歌うのは気持ちがいい。でも、これからは一人で、人前で歌うこともあるようで、緊張してちゃんと歌えるか心配だ。
歌唱の実習授業を終えて、第一音楽室を後にしようと席を立つ。
席を立ち、教室へ向かおうと廊下へ出ると、
「お疲れ様、天野さん!」
「お、お疲れ様です」
突然、クラスメイトに声を掛けられて、身体がびくっと跳ねた。
「天野さん、声可愛くて綺麗だね。あ、くるみちゃんって呼んでいい?」
「ありがとうございます……。えーと、藤原さん……?」
「そうそう、藤原夏希。気楽に夏希って呼んで!」
「夏希……さん」
無理だった。さすがにいきなり呼び捨てなんてハードルが高い。
「えへへー、くるみちゃん可愛いなあ」
可愛いって言われると、思わず顔が熱くなる。可愛くなんかないのに、恥ずかしい。
「くるみちゃんは、どうして声楽コースに? 進学とかどうするの? やっぱり音楽系の?」
「ううん、歌うのが好きだから、少しでも上手になれたらいいなって、それだけです」
私の答えに、夏希さんは、
「おお、仲間がいてよかった……。一緒に教室に戻ろう、くるみちゃん!」
目を輝かせながら、そう言った。
夏希さんは気さくで、とても話しやすい人だった。
茶髪のショートカットがよく似合っていて、元気いっぱいな女の子だ。
クラスの中心的人物で、夏希さんの周りにはいつも人が絶えない。
実は、進級して間もない頃、私にお弁当を一緒に食べようと声を掛けてくれたクラスメイトの一人だ。
「いやー、本当、皆レベル高いよね」
「そうですね……、でも、夏希さんも上手でした」
違和感なく、しっかりと話せているだろうか。
少しの不安はあるものも、気さくな夏希さんのお陰か、進級当初よりは自然に会話が出来ているような気がした。
「あの……、この前は、お昼誘ってくれたのにごめんなさい」
「ほえ?」
夏希さんは、少しの間考えると、
「あー仕方ないよ。先客がいたんだし!」
笑顔でそう言ってくれた。
「そうだ、くるみちゃんに訊きたいことがあったんだ」
「訊きたいこと……?」
「そうそう、くるみちゃんは、どうやって白鳥さんと仲良くなったの?」
「えっと」
「ほら、白鳥さんっていつも一人でいるでしょ? だから、たまに声をかけるんだけど、毎回無視されちゃうんだ。でも、最近くるみちゃんと白鳥さんが仲良くしているのをみて、なんだか私、嫌われてるのかなーなんて思っちゃって」
困ったように微笑みながらも、夏希さんの表情は、どこか悲し気だった。
そう言われて考えてみると、確かに不思議だった。
どうして、私は白鳥さんと仲良くなることが出来たのだろう。どうして、白鳥さんは私以外の人と、仲良くなろうとしないのだろうか。
考えても、何も分からなかった。でも、一つだけ言えることはあった。
「私には何も分からないです……。でも、白鳥さんは優しい人なんです。だから、きっと夏希さんのことが嫌いとか、そんなことはないと思います……」
何を根拠にこんなことを言っているのだろうか。でも、とても私には、白鳥さんが理由も無く夏希さんを嫌うことは無いと思った。
だって、白鳥さんは、あんなにも優しいのだ。
「そっか……ありがとうくるみちゃん。今度お昼休みに三人でお弁当を食べたいなあ」
「いいですね! 私も皆と一緒に食べたいです」
「あ、そうだ。くるみちゃん、あとで連絡先教えて!」
「はい! 喜んで!」
いつか本当に、白鳥さんと夏希さんと、一緒にお弁当食べたり昼休みを過ごせたらいいなと、心の底から思いながらも――、それは、二人の言いなりになってしまう今のままでは、きっと叶わないことだと、自分を責める私がいた。
四時限目の授業が終わり、昼休みが訪れた。
いつものように、混雑している購買で加奈と理穂の昼食を購入して、二人の教室へ向かう。
「お待たせ」
加奈と理穂の周りには、恐らく同じクラスであろう、私の知らない人が二人いて、四人で楽しそうに雑談をしていた。
「ありがとう、くるみ。それでさーこの前ね――」
床に座って、膝の上にお弁当を広げた。
四人の話し声を流し聞きしながら、黙々とお弁当を食べ始める。
私は、何をしているのだろう。
今頃、白鳥さんはどうしているだろうか。
一人でお弁当を食べる白鳥さんの姿を想像すると、胸が痛んだ。
机の上にうつ伏せになって、顔を埋める。
なんだか酷く疲れた一日だった。
どうすれば、二人の言いなりにならずに済むのだろう。
幾ら考えても、いじめにあったあの日のことを思い出して、どうしようもなく怖くなる。
ふと、クラスメイト達の話し声が耳に入った。
他愛もない会話、楽しそうな話し声。
自分が酷く、惨めに感じた。
(こんなはずじゃなかったのに)
思わず涙が零れそうになって堪えると、誰かが私の肩を優しくつついた。
「……白鳥さん」
顔を上げると、白鳥さんが心配そうな表情で私を見つめていた。
白鳥さんが、メモ帳に言葉を書き込んだ。
「今日も課題やっていくの?」
「……ううん、今日は大丈夫みたいです」
私の言葉に、白鳥さんが嬉しそうに頷いた。
不意の表情に、思わず胸がきゅっとなる。
白鳥さんはやっぱり優しい。
その優しさが、私には眩しかった。
「あ、あの」
白鳥さんが不思議そうに首を傾げた。
「よかったら……一緒に帰りませんか」
白鳥さんが頷いた。そして、どこか申し訳なさそうにメモ帳に言葉を書き込んだ。
「少し音楽室で、ピアノの練習をしていってもいい?」
それから、私は白鳥さんと一緒に、第二音楽室へ向かった。
ここ数日、白鳥さんは放課後になると、第二音楽室でピアノの練習をしているみたいだ。
白鳥さんの自宅にはピアノがあって、普段は自宅で練習をしているのだが、ここ数日自宅でピアノの練習が出来ない理由があり、先生に許可を得て、第二音楽室を借りていると教えてくれた。
第二音楽室には、黒いグランドピアノが一台あって、教室の隅には、沢山の椅子と机、譜面台とキーボードが並んでいた。
白鳥さんが教室の隅に並んでいる、椅子と譜面台を持ってきてくれて、グランドピアノのすぐ傍に並べてくれた。そして、バックから楽譜を二つ取り出して、一つはグランドピアノの譜面台に、もう一つは私の目の前にある譜面台に置いた。
雪の雫――。
白鳥さんに届けた、あの曲だ。
「聴いているだけだと退屈だと思って。あんまり見ちゃだめだよ」
恥ずかしそうにメモ帳を見せてくれる白鳥さんが、無性に可愛らしくて――、
笑顔で頷いて、白鳥さんに答えた。
白鳥さんが小さく息を吐いた。
そして、雪の雫を奏でた。
綺麗でしっとりとした曲。
どこか寂し気なその演奏は、とても儚げで――、
まるで言葉を口にするように自然で滑らかだった。
あの日、放課後の教室で聴き入った曲。
あの曲が、今、目の前で奏でられている。
白鳥さんの奏でるピアノの演奏が、校内に静かに響き渡る。
演奏に聴き入りながら、楽譜を捲り、歌詞を追いかける。
静かに、演奏が終わった。
終わってほしくなかった。このままずっと聴いていたかった。
「どうだった?」
白鳥さんが、控えめにメモ帳を見せてくれた。
「素敵でした。ずっと……聴いていたいくらいです」
私の言葉に、白鳥さんが笑みを零した。
「あの」
白鳥さんが嬉しそうに首を傾げて、私を見た。
「私、歌いたいです。雪の雫……、白鳥さんの演奏で、一緒に」
驚いたように、白鳥さんが私を見た。
白鳥さんがメモ帳に言葉を書き込んだ。
「私も、天野さんに歌ってほしい」
胸が高鳴るのを感じた。
白鳥さんの真剣な眼差しに、応えないといけないと思った。
白鳥さんが、ピアノでボーカルのメロディーラインを、ゆっくりと丁寧に教えててくれた。
私は、その音をなぞり、声で紡いでいく。
何回か繰り返して、ある程度メロディーラインを覚えることが出来た頃、
「一回通してみる?」
「はい、お願いします」
お互いに目を合わせて、頷く。
白鳥さんが演奏を始めた。
大きく息を吸い込み、声で紡ぐ。
曲に出てくる少女のように、夕闇に染まる空の下ではないけれど、夕焼けに包まれた、音楽室で。
少女の感情が流れ込んでくる。そんな感覚に包まれる。
まるで、自分のものでは無いみたいに、気持ちが、心が軽くなる。
歌い終えると、私は解放感に浸っていた。
気持ちがいい。こんなに満たされることがあるのだろうか。
「歌ってくれてありがとう。天野さんが歌ってくれて本当に良かった」
それから、私と白鳥さんは他愛ない話をして、音楽室を片付けて、校舎を後にした。
白鳥さんと一緒に、住宅街を抜け、街中にあるバスターミナルへ向かう。
二人で音を奏でた、あの時の余韻が、今もまだ私の中に残っていた。
「……白鳥さん」
白鳥さんが不思議そうな表情で振り向いた。
オレンジ色の夕焼けを背に、私は思い切って、白鳥さんに言う。
「明日、一緒にお弁当を食べませんか」
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