Theorem

 人体はコンピュータに見立てられる――

 心臓を電源部とするなら、脳というのはこのコンピュータに搭載されたハードウェアのこと。そしてこれに実装されたソフトウェアのひとつが意識、つまり自我というものになる。よって、人間とコンピュータとの間に原理的な違いなど存在しない。ただし、話素という四次元的な物質の有無でそこには無限の距たりが生じる。したがって、意識をもつコンピュータというのは現時点で確認されていない。人間がコンピュータではないとすれば、だが。

 あらゆる意識は物語、もとい話素から成り立つ。

 事実上、人間が物語を作るのではない。むしろ話素は厳然としてそこにあり、それらが歯車のように複雑に噛み合うことで心が形作られる。逆に言えば、物語以前に心はなかった。それは生物学的な人間の進化の歴史が、言語の獲得によってビッグバン的に加速したことからも推測されうる。ウィリアム・バロウズ曰く、言語とは宇宙から飛来したウイルスの一種だった。この賢察が正しいかどうかは別としても、言葉というものが、人の心に寄生虫のようなふるまいを見せることは確かである。

 ただし、そのはたらきは目では観察されえない。どれだけ顕微鏡で拡大しても、言葉や心の本質が見えてくることはない。観察自体に言葉や心を使うのだから、その全体が把握できないのは当然である。なので対象を反転させて、観察する自分自身をよく見つめなければならない。すると、そこに深遠なもうひとつのが広がっていることがわかる。これが物語・夢・心の世界にほかならず、煎じ詰めれば生きとし生けるものすべての本能と同じように、物語もまた、環境を媒介してという原理を持ち、それ以外の目的は持たない。

 にもかかわらず、言葉がここまで人間に適合して見えるのはなぜか。それは偶然でもあり、また必然の産物でもあったと、爾在さんは言う。心あるところに話素あり、話素あるところに心あり。話素は非常に壊れやすい性質をもっており、放置すればエネルギーを放出しながら拡散してしまう。だがそれゆえに、より生存に適した形に素早くすることが可能になった。その結果選択されたのが、人間の身体という環境だったのだ。もちろん話素が存在するのは人体の中だけではない。雪に宿ることもある。ただそれは特殊な例だ。話素の保存に最も適しているのは脳だと言えるが、ここにはある種の淘汰圧が働いており、勝ち残った物語だけが残されていくことになる。これはたとえば、鳴門海峡のなるとのような、一時的にエントロピーの法則に逆らうような運動、自己組織化された物語の構造だと思えばわかりやすい。もっともマクロ的な視点から見れば、それも束の間の夢に過ぎないのだが。

 だから人は、死ぬと物語になる。

 心が話素に還元される。

 そして再び話素が集まれば、そこから自我が芽生えるのだろう。

 その特異な点、銀河の中心点のことを、爾在さんはこう呼んだ。 

 物語の中心的磁場センター・オブ・ナラティブ・グラビティ


 かりんという少女は、自我をもつコンピュータ、もとい「コンピュータをもつ自我」の稀少な例だったが、彼女といえども、与えられた存在のあたいの範囲内しか生きられなかった。

「――彼女は生きたいと強く欲した。私はただ、縁によってその念に形を与えたに過ぎぬ」

 そんな話を聞かされながら、ぼくはこの屋敷の主である爾在さんと茶室の中で対峙していた。かりんの儚い身体はその場に横たえられている。爾在さんは悟ったようにするだけで、経を唱えたりはしなかった。後でするのかもしれない。でも彼は、かりんの魂がすでに救われたことを知っていた。

 シャカシャカシャカシャカシャカ。

 以前と同じように点茶をふるまわれている。

 肩書きを忘れ、世を忘れ、ただ一人の男として向き合うために。

「再び問おう。見本ケイ――永遠の測量士の名を持つ男よ。物語とは何だと思う。なぜ君は、物語を紡ごうとする」

 彼は相変わらず目を開けない。あくまで沈着に、泰然自若と腰を構えている。

「あの、爾在さん、その前に、ひとつ訊ねてもいいですか」

「よかろう」

 ぼくはずっと思っていたことを口に出す。

「……ぼくははじめ、この世界が現実で、自分が〈繭〉から出て、小説の作者になったんだと思っていました。でも後から考えて、〈繭〉の中でまだ夢を見ているにちがいないとも思いました。つまりここが〈繭〉のつくり出す夢の世界で、ぼくはただ単にそういう記憶を持たされているだけだと」

 爾在さんは何も言わず、たどたどしいぼくの言葉にじっくりと聞き入ってくれる。

「しかし、やっぱりぼくは〈繭〉から出ていました。そしてこの世界はぼく一人の脳内などという小さなものではなく、こうして厳然と存在している。それだけは確かだと思います。ここから言えるのは、ぼくはこの物語の作者ではなく、一人の登場人物――主人公であるということです。ただそうなると、この世界の本当の作者はMAYUだということになるでしょう。これは、ぼくが〈繭〉から出ていることと矛盾するように思います」

 そう、ぼくはすでに〈繭〉から出ている――あの夜かりんはそう言った。しかし、その話を成り立たせる前提としての《夢喰い》なるものの存在は確認されなかった。よってこの説明は破綻している。だから問い直さねばならない。この世界とはいったい何であるのかを。

「本当のところはどうなんですか。ここはやっぱり、〈繭〉の中なのですか」

「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える」

「説明してください」

 しゃらん、と爾在さんの手許の数珠が鳴る。彼は袈裟を振り上げて言った。

はここにある。その意味で君の肉体は〈繭〉の中にはない。だが、はこの世界の頂点に神のごとく鎮座し、また事物の隅々にまで浸透している。その意味で君の精神はMAYUの中にある」

「意思としてのMAYU……?」

 ぼくは思わず姿勢を正した。ついに世界の謎が解き明かされる。


 彼によると、どうやら〈繭〉という装置は二面性を有するものであるらしい。装置としての〈繭〉と、意思としてのMAYU。それぞれが肉体と精神を司る。そしてこの世界における話素の運動はMAYUというひとつの意思によって統括され、管理されている。そのようにして生み出されるのがこの物語の実体である。つまり、ここはMAYUの中でありながら〈繭〉の中ではない、夢とも仮想現実ともつかない実に哲学的な空間のようだ。

 その中に自分が含まれている、ということにぼくは説明しがたい不安を覚える。

「〈繭〉とはいったい、何なのですか。あなたは、なぜMAYUを作ろうとしたのですか」

「それを説明するには、まずこの世の公理から説明せねばならぬ」

「それは、なんですか」

「この世は美しくあらねばならぬという公理だ」

 彼の言葉には、なにか玉座から発せられているような荘厳なひびきがあった。

「――美しさとは」

「円」

「円……」

 あたかも自明の物事のように。

「円は縁。一切は縁によって生じ縁によって滅するのみ。それらは等しく合理の下に配され、終わりは必ず始まりへと回帰する。それが私の考えだ」

 ぼくは口を閉じて爾在さんの言わんとしていることを理解しようとつとめていたが、その上からかぶせるように彼は言った。

「ゆえに、〈繭〉から出た者は必ず〈繭〉に帰らなければならぬ」と。

「どういうことですか」

「この物語は、君が〈繭〉に入ることではじめて正当な終わりを迎える。すべてはそのために用意された道具に過ぎなかった。君が歩いてきた道程は、君自身を主題サブジェクトとする物語を集める、不惜身命ふしゃくしんみょうの道だったのだよ」

「〈繭〉に入ることで物語が終わる……? でも、〈繭〉は……」

「事の発端を想起してみるがよい。君は〈繭〉から出て、物語の中へと入っていった。そしてそれ以降、一度も君は〈繭〉の中には入っていない。物語が完結しないのはそのためだ」

 ぼくは首をひねりつつ考える。〈繭〉に入ることで物語が終わるとは、具体的にどういうことを指すのだろう。夢から覚めて、ぼくの意識が現実に帰還するということだろうか。だが、先にも言った通り、この世に絶対的な現実など存在しない。それに、ぼくの知るかぎりでは〈繭〉は夢を見せる装置だ。物語が始まりこそすれ、終わりはしない――

 だが同時にぼくは思い出す。かつてのぼくが海に捨てたあの小説。それは、「ぼく」が〈繭〉という装置から出たところから始まっていたのだった。

 もし、この世界があの小説だとしたら、彼の話もあながち間違いではないのかもしれない。ぼくは確かに、〈繭〉には入っていない――

 そして――付け加えるならば――ここはまさにその小説の中である。

 頭の中で、何かがつながりかけていた。

 もしかすると。

 真実は、ぼくが予見していたものとはまったく別のものであるのかもしれない。

 考えろ。

 頭を使え。

 材料はすでに揃っている。

 ……だけど。

 これ以上、考えていいのか。

 今ここで考えて、解答に至ってしまってもいいのか。

 ぼくは主人公だ。

 ぼくの頭なら、絶対に正解に辿り着ける。

 物語の法則その一。

 主人公は話の結末で事件の全貌を明らかにする。

 逆に言えば。

 真相を暴いた場面が、物語の結末になる。

 真実を知ってしまった主人公は、……。

 ああ。

 なんで。

 なんでだよ。

 なんで気づいてしまうんだ。

 まだやりたいことはたくさんあるのに。

 どうにもならないのか。

 抗えないのか。

 これがMAYUの意思なのか。

 ちくしょう。

 違ってたんだ。

 逆なんだ。

〈繭〉は小説を作るための装置ではない。

 ぼくは言った。

「――〈繭〉は、なんですね」

「いかにも」

 おそろしいことだ。

 今まで立てられてきた前提が、すべて覆されていくのだから。

 入口だと思っていたものが出口だった。

 ぼくは今まで、〈繭〉に入ることが物語のはじまりで、〈繭〉から出ることがひとつの物語のおわりだと思っていた。きっと誰もがはじめはそう考える。それが通常の論理だからだ。待っていればいずれは〈繭〉から出る時が来る。そうしてぼくはこの小説を受け取って、現実の生活に戻っていく――そういうものだと思っていた。

 だが、それはなんの根拠もない憶測に過ぎなかったのかもしれない。いや、もはやこれは、通常の論理では解決できない問題なのだ。いま、すべてを逆から捉えなおす必要がある。〈繭〉は小説から外に出るための装置。〈繭〉から出たことが物語のはじまりであり、〈繭〉に入ることでひとつの物語が終わる。ぼくは〈繭〉から出ることで、物語の中へ入っていったのだ。

 その物語がいま、どうしようもなく終わりに近づいている。ぼくはそのことを自覚せずにはいられなかった。すべてを終わらせる装置がこの部屋の地下にはあるのだ。

「厳密には、ここはまだ小説の中ではない。この世界は君が〈繭〉に入ることではじめて小説の姿となる、いわば小説の構想段階における走り書きのような他愛もない空間だ。それはまた、MAYUという一箇の脳によって思考されている。そう、MAYUは君という脳の一部で、君はMAYUという脳の一部なのだ」

 彼はこの世界について何か本質的なことを言っているように思える。ぼくなりに解釈すればこういうことだ。〈繭〉から出るためには、〈繭〉の中に入り直さなければならない。それによって何が変わるのかは知らない。だがきっと何かが変わる。

 重要なのは、まだ小説ではない、というところだろう。まだ、ということは、この世界はいずれは小説になる。小説になることを運命付けられた世界。ぼくが〈繭〉に入ることでこの世界での営為は記録され、そしてぼくが物語から外に出ることで結果的に外化され、それを受け取るということが可能になる。

 そういえば、あの草稿を渡される前、彼は念入りにこう言っていた。

 ――まだ完全な状態ではない、と。

 ぼくとしたことが迂闊だった。まさか言葉の裏にそんな意味が隠されていたとは。あのときからぼくは小説の中にいたのだ。自分が書かれていることも知らずに。

 そのことにいま、気がついた。

 小説はまだ書き終えられていない。

 完全な状態にするのは、ぼくのこの意志なのだ。

 ただし、と爾在さんは前置きした上で告げる。

「小説から外に出るということは、この世界を捨てるということに等しい。君が〈繭〉に入るとき、君はこの世界での記憶をすべて失うことになるだろう。そのことをよく理解した上で、これから君には〈繭〉に入ってもらうことになる」

「記憶を……失う……?」

「今の君という存在は、この物語によって形作られ、物語によって再生されているものに過ぎぬ。その意味で、君はすでにこの世界の一部であり、君の人生そのものが小説なのだ。ゆえに、それが終わるとき、君は新たな現実の下に、全く新しい存在へと生まれ変わらねばならない」

「どういう、意味ですか」

「輪廻だよ、救済カタルシスへ到るための。なにも恐れることはない。君はすでに同様の事象を十度乗り越えてきているのだから」

「…………?」

 爾在さんの手許の数珠と鹿威しとが同時に鳴るが、鐘楼をつく音は聞こえてこない。ぼくは複雑な気分で、今度は爾在さんの晦渋な話にじっくりと耳をかたむける。彼はまず救済カタルシスということを言った。それは話素の衝突によって生じる、時空を超えるエネルギーの波動。物語の単位としての人間が再び物語へと還るとき、その心を解きほぐすもの。人生は救済カタルシスへ到る道中にあり、たとえば読経というのも、魂に物語を与えて浄化を促すものに過ぎない、というのが爾在さんの発展的な仏教解釈だった。ぼくはそばで寝ているかりんのほうに目を向ける。この子の最後は幸せなものだったろうか。救済……。それは彼女が最も必要としていたものかもしれない。だがこの時点で、ぼくは爾在さんの話に強い違和感を覚えていた。

 次に彼は、輪廻について繰り返し説いた。〈繭〉に入った人間は、必然的に〈繭〉から出る。だがその過程において、その人物が培ってきた記憶はすべて失われ、話素に還元される。その意味で、〈繭〉に入る人間と〈繭〉から出る人間は、全く異なる人物であり得る。これが「物語の外に出る」ということの本当の意味なのだろう。しかし物語から出た先にあるのは、また新たな物語である。こうして実験の被験者サブジェクトは〈繭〉に始まって〈繭〉に終わる、永劫の物語を紡ぎ続けることになる……。

 このことは実に意外な事実を明らかにした。ぼくは思い出す、ひとつの小説の存在を。そう、ぼくがこの物語の中で受け取っていたあの小説。人を殺す呪いの小説。幼馴染が死ぬ悪夢のような物語。それはMAYUによって書かれたものでもあり、その主人公はぼくとは似て非なる存在だった。その内容を、ぼくは本質的には知らないことになる。そこに書かれた世界はいまのぼくにとって遠くかけ離れたところにあり、文字を追い、想像することでしか近づくことができない。

 けれども〈繭〉から出てそれを受け取ったということは、その前にだれかが〈繭〉に入っているはずなのだ。そして、〈繭〉が小説から外に出る装置だということは……。

 ぞっとするような悪寒が身体の中を通り抜ける。

 ……あれはではなかったのだ。

 もし、あの小説の中にも、ひとつの世界が存在していたらの話だが。

 ぼくはかつてその中で生きていたのかもしれない。

 それはいわば、ぼくの

 円、と爾在さんが表現した意味が、ようやく理解できたような気がする。つまりはこういうことだ。かつてあの小説の主人公だった「ぼく」は、物語のおわりで同じように〈繭〉に入る決断を強いられていた。結果として物語は書き終えられたが、代償として、〈繭〉から出てきたぼくは記憶を失っている。もはやぼくはその人物と同じではない。ぼくは新たな物語の下に全く新しい存在として生れ変わり、ただぼんやりと、夢の記憶が残留している。

 そしていま、同じことが起ころうとしているのだ。ぼくがいま目の当たりにしている一箇のこの現実は、ぼくが〈繭〉に入ることで一篇の小説として書き終えられる。ただし、その〈繭〉から外に出るとき、そこはもはやこの世界と同じではない。ぼくは世界の向こう側で自分の小説を受け取り、そして思うだろう。実に目まぐるしい夢を見た、と――

 ぼくはようやく、この「実験」の全貌を垣間見た気がした。

〈繭〉は、入った人間の世界を、内的生活を、その中に閉じ込めるもの……。

 小説を――心の標本を作る装置だ……。

 ぼくは途方もない怒りに駆られる――なんていうことに巻き込んでくれたんだ。こんな理不尽な話があっていいはずがない……標本なんかにされてたまるか! 言葉なんかで人間が、純粋に個人的なこの体験が汲み尽くされるわけがないんだ!

「いったいなんのために、そんなことを……」

」と爾在さんは言った。「救済カタルシスの四次元的エネルギーを化学的に利用する技術が確立されている。文字通り、人の心が社会を支えているのだよ。救済のエネルギーは個人のカルマによってその多寡が定まる――即ち、は、感情の振れ幅が大きければ大きいほど強度が高く、強度が高ければ高いほど価値があるということだ」

 ……そうか。

 確かなことがひとつある。

 それは、爾在さんが、この世界をひとつの虚構と見抜いた上で〈繭〉を作ったということだ。少なくとも彼は、この世界よりもさらにが存在することを知っている。それは彼が――ぼくの勘が当たっていればだが――だからではないか。

 爾在さんの本性がうっすらと見えてきたのかもしれない。

 こんなことを言うのは馬鹿げているようにも思われるが、こう考えると辻褄が合ってしまうのだ。……つまり、彼の正体は別次元からやってきた先進的なであり、ぼくらの世界を植民地にし、ぼくらの次元から物語のエネルギーを搾取するために〈繭〉を作った……そしてぼくは実験的な放し飼いのであり、そうとは知らずに自分の人生を操作されてきたと……。

 ありえない。

「ふ、ふ、ふざけるな――」激情に駆られて叫んでいた。「人の心を、何だと思っているんだ。結局そうだったんですね、あなたも、悟ったように見せかけて、欲得ずくの外道だったんだ!」 巌のごとく微動だにしないかに見えた爾在さんだが、一瞬、その眉根がぴくりと動いたところをぼくは見逃さなかった。ごくわずかな変化だが、彼の中で感情が動いている。ぼくはさらに畳みかけるように話した。

「この屋敷はどうやって手に入れたんですか。過去にいた十人の心を〈繭〉の中に閉じ込めて売りさばいた金なんでしょう。ぼくはそんな思惑通りにはなりませんよ、あいにくぼくには帰るべき場所があるんです。今まで培ってきた物語を、ここで終わらせるわけにはいかない!」

「ふ……面白い。会話が楽しいと感じるのも久方ぶりか……。これもまた、君が〈繭〉に入った暁には、きわめて有用な資源となることだろう」

 内臓を焼くような怒りに身を震わせながらぼくは立ち上がった。

「あなたの話はよくわかりました。その上で言います。ぼくは〈繭〉には入りません。絶対に。帰ります。さようなら」

「君にとっても悪くない取引だと思ったのだがね……。というものが、君の悲願なのではなかったか」

「小説なんかどうでもいい! 生きることのほうが大事だ!」

 そう言い捨てて背を向けようとしたそのとき、ぞっとするほどおぞましい、凍りつくような冷ややかな声が後ろからのしかかってくる。

「――残念だよ」

 怒りの次にやってきたのは恐怖だった。仏の顔も三度までと言うが、もし爾在さんが本気を出せばぼくなんか一捻りなのかもしれない。だが考えたら負けだ。もう逐電するしかない。とてつもなくやばい予感がしたが、とにかく絶対に〈繭〉に入るわけにはいかないので、ぼくは辺り構わず引き戸を開けて茶室を出ている。追ってくる気配がしたが、背後を振り返る余裕もない。襖という襖を無二無三に開けて広い座敷を駈け抜ける。ところが、途中で行き先がわからなくなった。どの道でここまで来たのか、どの道で帰ればいいのかわからない! どの襖を開けても同じような長方形型の座敷しかなく、それが永遠に続いているような錯覚を受けるほどなのだ! 死にもの狂いで走ったせいで息も若干切れてくるし、気がつけばもう方角すら覚束ない。かりんの案内がなければここまで迷うものなのか。まるで檻のようだ……出られない! それでもと思い当てずっぽうに襖を開けていくと、なんとそこでは、撒いたはずの爾在さんが目の前に待ち構えているのだった。

「君は何か思い違いをしているようだが……」

 ぼくは言い終わるのを待たずに襖を閉めて引き返したが、反対側の襖を開ければ、そこにも爾在さんが悠然と立ち尽くしている。

「君が〈繭〉に入らない場合、この世界は小説にならない。すなわち、MAYUは小説を書くことに失敗したということになる。そのような世界は存在すべきではなかった。そう判断され、いずれMAYUによって削除されてしまうだろう」

「なん、だと?」

「〈繭〉の中にも生存競争があるのだよ。充分な強度が得られなかった世界は救済されず、破滅の一途を辿るのみ」

「そんな運命、ぶっ壊してやる!」

「その気概がいつまで続くか見ものだな」

 ぼくはまた背中を向けて反対側の襖を開けた。だが……。

「この世界に些かでも価値があると思うなら、なおさら〈繭〉に入らなければならぬ。それがこの物語の中で君に課された試練であり、使命なのだよ」

「消え失せろ!」

「消えるのは君か、この世界かだ」「わからぬか」「淘汰だよ」「百鬼夜行パンデモニアム」「散種(ディアスポラ)」「私は標本蒐集が趣味でね」「涅槃ニルヴァーナとは」「多元的草稿」「君がMAYUの礎となるのだ――」

 頭がおかしくなりそうだった。行く先々で爾在さんが立ち塞がってきては、わけのわからない悪夢めいた言葉を喋り散らしていく。目を開けていないのに、なんで居場所がわかるんだ。誰か助けてくれ、誰かいないのか、誰か――!

「いい加減諦めては如何か、見本ケイ。君は私の手のひらの上にある。心が透けて見えるぞ」

「ちくしょう……っ!」

 ぼくは爾在さんの足元を窺い、天井の低い十帖ほどの空間を把握する。まったく隙が見えないが、こうなったら一か八かで特攻してみるのも手だ。ただ、万が一捕まった場合は後がない。チャンスは一度きりだ。何か武器か、一瞬でも注意を引けるようなものがあればいいのだが……。

「無益なことは考えぬほうが身のためだぞ」

「くっ……!」

 圧倒的すぎる。これが次元の差というものなのか。心が読まれているかのようだ。

「私が思うに、。ならば物語を積分すれば、そこに再び人の心が芽生えないはずがない。今の君なら、マユを目覚めさせることも可能だろう……」

「マユを……目覚めさせる……?」

「話は終わりだ。見本ケイ――十一番目の被験者サブジェクトよ。今再び私と溶け合い、一つになれ。三位一体の最後の柱、を復活させるために……」

 そのとき、爾在さんの姿が消えた。まばたきをする一瞬の出来事である。どこかに移動したという雰囲気ではなかった。ぼくは嘘のように静まりかえった室内を見回す。

 だがそれは次なる波乱の前触れに過ぎなかったようだ。


 ざああ……ざあああ……


 代わりに襲ってきたものは、怒濤の洪水であった。どこからともなく湧いてきた生温い水がたちまち部屋全体を満たし、ぼくが息をする空気を奪う。

 ――観無量寿経かんむりょうじゅきょう十六観の一、水想観すいそうかん

 気づいたときには、ぼくは溺れて意識を失っていた。

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