2 - 12 「消えた要塞」

――コロシアム観客席。



「あ、あ、あの、光は…… 」



 ほぼ全ての観客が総立ちで歓声をあげる中、ティアは身体を小刻みに震わせながら、言葉にならない声を漏らしていた。


 ティアの隣で試合を観戦していたギヌもまた、目を見開いて、先程の光景に口を震わせている。


 ジョーカーがサーランド兵士に拘束されたハルトだという情報は、事前に掴んでいた。


 だから、彼がコロシアムで戦うという情報を掴んだときは、とても焦った。


 宿屋で身勝手にも痴漢行為を働き、共に居た自分達も追われる立場となってしまったときはとても憤りを感じたものだが……


 ギヌは「奴がハイデルトならコロシアムで死ぬはずがない」と言って聞かなかったし、ティアもハルトのことが気になっていた。


 結局、ティアとしても彼の最後を看取れば、彼に対する不確かなしこりも消えるかもしれないと、ギヌと共にコロシアムまで行くことにしたのだ。


 危険を犯してまで観客としてコロシアムに潜入した結果、予想を超えた収穫がそこにはあった。


 ハルトがミーニャに行使した魔法は、ティアとギヌにとっては忘れもしないあの日――法国マアトが滅んだ運命の日に現れた悪魔――ハイデルトが使った転移魔法そのものだったからだ。


 ティアは両手を口に当てながら、泣き叫びたくなる衝動を震えながら必死に抑えつけ、ギヌは歯が割れんばかりに食いしばりながら、全身から溢れ出る殺意を必死に抑えつけていた。


 二人にとって――友の、家族の、母国の敵となる決定的な証拠が…… 人物が…… 目の前に……


 だが、二人には何も出来ない。


 目の前の戦いを見守ることしかできないのだ。


 あの人物を殺すべくフィールドへ乱入することも、この試合を止めさせることもできない。


 マアトが無くなってから、何度も経験したその無力感が再び襲ってくる。


 その無力感に、ティアは顔を歪めながら涙を流し、ギヌは血が滲むほどの力で拳を握り、静かに目の前の行く末を見守るのだった。




 そんな二人からフィールドを挟んだ対面側の観客席には、同じくハルトと縁のある三人――ミル、グレイス、ネイトが、呆気に取られた表情で目の前の試合に釘付けになっていた。



「な、なんだか凄い人だったんだね。あの変態さんって」



 顔の前に垂れてきた桃色の髪をすくい上げながら、少し頬を赤く染めたミルが、興奮気味に話し始めた。


 その言葉に、口をあわあわさせていたネイトが眉を吊り上げて反論する。



「ぜ、全然凄くなんかないわよ! あの程度…… あの…… 」


「ネイト、無理に強がるな。あの実力は誰が見ても本物だ。むしろ、奴があれ程の力を持っていながらも、なぜ私達にその力を向けなかったのか。私達の前でなぜ使わなかったのか。そっちの方が気になるな」


「そうだねぇ。死の巨人デストロールなんて伝説上の魔物も初めて見たけど、それを一人で倒しちゃうなんて聞いたことないよぉ? そんなに強い人がお風呂場なんて覗くかなぁ? それだけ強かったら、お金だって荒稼ぎできると思うし…… 女の人だってお金があればいくらでも買えると思うんだけどなぁ……」



 おっとりとした口調ながら、物事を直球で表現するミルの言葉に苦笑いを浮かべるグレイス。


 ネイトは「うっ…… 」と言葉を詰まらせている。



「そ、それだけ、わ、私の裸が魅力的過ぎたんじゃない!?」



 顔を真赤にさせながら、右手を胸に当てて自慢気に話すネイト。


 だが、グレイスとミルの眼は冷めていた。



「な、何よその反応はぁ!」


「ううんー、なんでもないよぉ」


「いや、ネイトでもそういう冗談言うんだなと思ってな」


「し、失礼ね! そ、そりゃミルに比べたら胸も大きくないし、グレイスみたいにスタイルも良く無いわよ!」



 「まぁまぁ」とミルが宥めるも、ネイトはバカにされているようにしか思えず、キーと癇癪を起こす。



「だが、本当に奴は何者なんだろうな。厄介事の種にならなければいいが」


「だ、大丈夫よ! あいつが牢獄要塞フォートプリズンから出れることなんてないわ!」


「それもそうか。ザウ家のお嬢様が強姦されかけたなど、侯爵様としては今すぐにでも極刑にして、闇に葬りたいところだと思うが。表向きにもできないから仕方ないだろうしな」



 グレイスの発言に、ネイトが慌てて口を塞ぎにかかるが、みなまで言った後だった。



「ちょ、ちょちょちょっと! グレイス!? 誰かに聞かれでもしたらどうするつもり!?」


「そう思うならコロシアムまで来て、奴の試合を見たい何て言うな!」



 ギロリと目尻を釣り上げてネイトを睨むグレイス。


 グレイスとしては、ネイトの我儘で任務を中断してまでコロシアムに来させられたことを少しばかり根に持っていた。


 「うっ」とネイトが怯み、ミルが「まぁまぁ」と仲介に入りながら「でも…… 」と言葉を続けた。



「あんなに凄い力を持っていたら、ここを脱獄するのも簡単なんじゃないかなぁ?」



 ミルの言葉に、ネイトの顔が少し青くなる。


 ハルトがここまでの力を持った強者だと思っていなかったからだ。


 ミルの疑問にはグレイスが答えた。



「私もそう思う。となると、なぜ奴が大人しくここに捕まっているか、だが…… そもそも何の目的でここまで無抵抗で来たのかと言うのも気になるな」


「もしかして、あの牛さん――炎の雄牛ファラリスをここから逃したかったとかかなぁ?」


炎の雄牛ファラリスか…… 奴の身体に取り込まれた様に見えたが…… やはりあれは精霊契約の類いか?」


「詳しくは分からないけど、多分そうだと思うよぉ。だってあの変態さんに角生えちゃったし」



 ミルが両手の人差し指を立てながら、おでこへ付けて角の真似をする。


 それを見たグレイスは、もしミルの推理が本当ならと額に汗を垂らした。



「もしそれが理由なら…… いや、その可能性は低いと思うが…… もし仮にミルの見立てが合ってたとして、奴はこの後どうすると思う?」



 グレイスに問われたミルが腕を組み、左手の人差し指をほっぺに当てながら、「うーん」と考える。



「あの牛さんがお友達か何かだったら、そのお友達を苦しめていた人達に復讐かなぁ?」


「そういうことも考えられるか」


「復讐って…… ふ、二人とも、そんなことありえな…… 」



 ネイトが言い切る前に、ミルが何か思いついたのか「あ!」と声を上げ、ネイトをビクッと硬直させた。



「彼に酷い態度を取った私達も、復讐の対象に入ってなければいいねぇ」



 呑気にそんなことを言うミルに、グレイスはその可能性もゼロじゃないなと不安を覚え、ネイトは再び芽生えた恐怖心により顔を青白くさせたのだった。




 ◇◇◇




 観客の大半は今回の試合内容に大満足していた。


 中には呆気ない幕引きに不満を漏らす者もいたが、今まで体験したことのない演出のオンパレードに、会場の興奮はミーニャが消えてからも最高潮を維持していた。


 その興奮冷めやらぬ中、完全武装した兵士達がフィールド内へ押し寄せ、ジョーカーを囲み、弓やら杖を差し向けた状態で止まった。


 遅れて副館長メイリンと看守長カーンが登場する。


 突然の乱入者に、会場はまだ何か始まるのかと期待に胸を膨らませた。



「カーン、魔力奪取マナドレイン装置は正常に稼働しているんだろうな?」


「はっ、副館長殿。先ほど確認しましたが、問題なく稼働しておりました」


「ではなぜあいつは平気にしていられるんだ……」



 魔力奪取マナドレイン装置はフィールドの地下に設置されている。


 地上にいる対象者の魔力マナを奪うべく最大出力で稼働された装置は、その振動で対象範囲の砂を螺旋状に動かしているほどだ。


 その渦の中央には、ジョーカーが何食わぬ顔で――といっても仮面で表情までは分からないが――平然と立っていた。



「総員、あの渦の中には決して入るなッ! 差し入れた部位が干からびて落ちると思えッ!」


「はっ!」



 前列の兵士が盾を並べて構え、その後ろに弓隊、魔法隊と三列で布陣している。


 ジョーカーが魔力奪取マナドレイン範囲から逃れようものなら、彼らの矢や魔法がジョーカーを蜂の巣にするだろう。


 だが、果たしてその程度でどうにかできる相手なのだろうか。


 ジョーカーを囲む兵士達の中には、目の前にいる人の形をした化物に恐怖心を抱き、武器を持つ手が震えている者も少なくなかった。


 炎の雄牛ファラリスを自らの身体に取り込んだだけでなく、死の巨人デストロールを一瞬で消し炭にした化物相手に、この人数で何が出来るのか。


 誰が勝てると言うのか。


 そこから数分、ジョーカーと兵士達との睨み合いが続いた。


 ジョーカーには一向に変化が見られない。


 不気味な仮面は絶えずこちらを見据えており、その頭部から生えた二本の大角は火花を散らしている。


 立ったまま気絶しているような様子は一切なく、時より周囲を睥睨するかのように顔を動かしていた。


 一方で、兵士達の精神は既に限界に来ていた。


 目の前の化物からは放たれる圧力プレッシャーやら殺気が徐々に大きくなり始めたのだ。


 制御できなくなった手足の震えが武器や防具に伝わり、ガチャガチャと音を立てる。


 その音は次第に大きくなり、ついには腰を抜かして地面に尻餅をつく者も現れた。



「貴様ッ! 何座っているッ! さっさと立てッ! 陣形を崩すなッ!!」


「ひ、ひぃ!?」



 メイリンが発破をかけるも、恐慌状態になりかけた兵士には効果がなかった。


 それどころか、一人が脱落したのをきっかけに、ポロポロと脱落する者が続いた。


 中には武器を捨てて出口へ走る者まで出てしまう。


 メイリンとカーンが慌てて陣形を立て直そうと指揮を執るが、恐慌状態が他の兵士に伝播する方が早かった。



「き、貴様等ッ! 敵前逃亡は死刑だぞッ! 分かって……」



 ふと、観客席からも歓声と悲鳴の混ざった声が響いてきたのが耳に入った。


 何かが起きている。


 メイリンは全身に嫌な汗が流れるのを感じた。


 問題となる人物を視界に入れたくない。


 そう、本能から強い危機感を感じている。



「副館長…… 殿…… あ、あれを……」



 カーンの呼ぶ声が聞こえる。


 見たくない…… 見たくない…… と全力で拒否しても抗えなかった。


 視線が引っ張られるようにジョーカーの方へと向く。


 逃げる兵士の先に、ジョーカーが先ほどと変わらない位置に立っている。


 その場から動いてはいない。


 だが、奴の見た目が大きく変わっていた。


 背中からドス黒い触手を無数に生やしている。


 その黒い触手は時間とともに長くなり、急激にその数を増やしていた。


 触手が触れた地面は灰色に変色し、まるで大地から生命の源である魔力マナを吸い上げているかの様にも見える。


 触手の先端は――大きな歯が並んだ口にしか見えない。


 それは異形の魔物の様であり、見た者の心に恐怖を植え付けるには十分な迫力でもあった。



「な、何だあれは…… いや…… あの姿…… どこかで……」



 その容貌は、大昔に英雄達が封印したとされる “魔王” の特徴に似ていた。


 この世界の住人であれば、幼少期より絵本で読み聞かされた昔話の一つであり、親が子供への躾として言い聞かせる脅し文句にも登場する有名な話だ。


 その話に登場する魔王は、背中に無数の黒い顔を生やし、全てを喰らい尽くす食欲の塊として描かれている。


 昔話を思い出すことで現実逃避しようとする思考を振り払い、目の前のことへ意識を引き戻す。



「こ、このままでは…… まずい!」



 このままでは危険だと判断したメイリンは、ジョーカーへの攻撃を実行にうつす。



「総員攻撃ッ! 奴の奇怪な行動を止めさせろッ!!」


「弓隊、か、構えぇー! 放てぇーっ!!」



 逃亡せずに残った弓隊が矢を放つ。


 魔力奪取マナドレインが働いている場への魔法攻撃は意味がないため、魔法隊は攻撃せずにそのまま待機だ。


 弓はジョーカーへと飛び、ジョーカーへ近づく前に灰となって消えた。



「や、矢が効きません!」


「何だ…… と……」



 メイリンが言葉を失う。


 気が付けば、矢が消滅したジョーカーの周囲は、陽炎のように揺らめき、時より火花を纏っているようにも見える。


 指揮官の動揺はすぐに部下へも伝わった。


 今まで黙って上官の命令を聞いていた者達も、各々が弱音を吐き始める。



「で、デタラメだ! 何で魔力奪取マナドレインの中で魔力マナを展開出来るんだ!? あれは魔力マナではないのか!?」


「あの黒い触手は一体なんだよ! どんどん増えてるぞ!?」


「地面を食ってる…… あの触手…… 地面を食ってやがる!」



 矢が全く意味をなさなかった事実は、残った兵士達の心を砕くのには十分だった。


 軍の規律を忘れ、個々が勝手に動き始める。


 普段は厳しく律するメイリンも、目の前の恐怖に気を取られて声を出せずにいた。


 魔力奪取マナドレイン装置を止めない限りは、ジョーカーに近付くことも魔法で集中砲火を浴びせることもできない。


 そもそも魔力奪取マナドレインを受けている人族が、その影響を微塵も感じさせず、平然と魔力錬成マナクリエイト出来ていること事態が異常なのだ。



「ど、どうする…… 私はどうすればいいのだ……」



 背後からは、フィールドの出口へ逃げた兵士の「開けてくれ!」と叫ぶ声が聞こえる。


 出口は内側からしか開けることはできない。


 敵前逃亡の罪を犯した兵士達のために、出口を解放などしてくれないだろう。



 ――ドドドドッ!!



「な、何だ!?」



 地面が揺れる。


 地震かと思ったがそうではないとすぐに気が付いた。


 フィールドには亀裂が入り、その亀裂からは火花を纏った灰色の煙が立ち昇っていたのだ。


 地下にあるのはただ一つ、魔力奪取マナドレイン装置だけだ。



「まさか…… 地下にある魔力奪取マナドレイン装置を食い壊したのか……?」



 魔力奪取マナドレイン装置によって発生していた砂の螺旋がピタリと止まる。


 それは、対峙するジョーカーへの対抗手段が一つ減ったことを意味していた。


 そして次の瞬間、ジョーカーの背中から大量に生えている大きな口のついた黒い触手が、周囲の兵士達へと一斉に喰らい付いた。



「ヒィィッ!?」


「ギャァアッ!?」


「た、助けてくれぇ!?」



 高速で次々に迫る触手に、兵士はなす術なく蹂躙されていく。


 ある者は押し潰され、ある者はその口に噛み付かれ、そのまま肉体を引きちぎられた。


 兵士だった者の肉片や防具だったものが宙を舞い、フィールドは一瞬で地獄絵図と化す。



「ば、化物……」



 メイリンはその場から動けなかった。


 ジョーカーの放つ異常な殺気や死の気配から目を離せないでいたのだ。


 蛇に睨まれた蛙の如く身体は硬直し、高速で脈打つ心臓の鼓動だけが彼女の耳に聞こえる。


 観客席の悲鳴も、これもショーの演出だと楽しむ観客の歓声も、一切聞こえていない。


 隣でメイリンに指示を仰いでいたカーンも、メイリンが指揮を継続できる状況にないことを悟り、戦える気概が残っている者を集めてジョーカーへと突撃をかける。


 その光景を、メイリンはまるで夢を見ているかのように、ただただ見つめていた。




 ◇◇◇




 頭が割れる様に痛い。


 ガンガンガンガンと頭の中を鈍器で殴られたような痛みが響く。


 そのせいで、外の音という音を認識できないでいた。


 痛みで目も開けていられない程に顔が歪んでいるのが自分でも分かる。



(ぃいッてぇぇえ…… 頭…… いてぇッ!?)



 ミーニャを転移させたあたりから、炎の雄牛ファラリスとは別の声が聞こえるようになった。


 それは声というより呻きや悲鳴に近かったかもしれない。



『憎い憎い憎い苦しい苦しい苦しい怨めしい怨めしい怨めしい……』



(こ、こぇえよ! 炎の雄牛ファラリス? 違うのか!? てか本当に誰だよ! 俺の頭の中で叫んでる奴!? マジでやめて!?)



 微かに目を開けた先、仮面越しに見た先には、何やら黒いうねうねした何かと戦う兵士達の姿が――



(あ、あれ? 何がどうなってる? あれ? 俺ミーニャを転移させて、その後…… 何してた?)



 転移魔法を行使した後の記憶がない。


 貧血の様に目の前が真っ暗になっていったのだけは微かに覚えている。


 黒いうねうねを辿って顔を上げれば、それは頭上を通り越しており…… 更にそれを辿って振り向いて見れば、なんと自分の背中から生えているではないか。



(な、なにこれ…… )



 背中から生えた無数のうねうねは、武器を持って向かってくる兵士達へ噛み付き、その身体を噛み砕きながら、周囲へと撒き散らしている。



(ぐ、ぐろい……)



 その間にも、黒いうねうねは数を増やし続け、その一部が外壁の壁やら観客席を守っている青い結界へとぶつかり始めた。


 いや、正しくはそれらにも喰らい付き始めたという表現の方が合っていたかもしれない。


 黒いうねうねが結界を破り、観客席へと雪崩れ込んだのと同時に頭痛が去り、ハルトの世界に音が戻った。


 観客は逃げ惑い、至る所から怒号や悲鳴が聞こえる。



(あ、や、やばい…… これ…… 俺のせいで大量殺戮が起きてる!? つーか、本当にこの黒いの何なんだよっ!?)



 身体の自由が戻ってきたハルトは、背中のうねうねをどうにかしようと試行錯誤するが、一向に上手くいかない。



(くそくそくそ! 止まれ止まれ止まれ!!)



 黒いうねうねを掴もうとするも、まるで実態のない幻影を掴むかのように手がするりと通過した。



(どうする!? どうする!? このまま全員殺すまで見守るか!? いや、無理無理、どうにかして止めなくちゃ!?)



 人を殺してしまった罪悪感やら、転生の資格が無くなってしまったであろう絶望感が、焦りとなってハルトを襲う。



(く、くそ! くそ! 逃げてくれ! 皆んな逃げてくれぇええ!!)



 ハルトの願い虚しく―― 黒いうねうねが一人、また一人と周囲の人間を捕食していく。


 その光景を絶望の表情で見つめるハルト。


 ふと、ハルトと同じ様に絶望の表情を浮かべながら立ち尽くしていた――薄紫色の長髪が美しい女性と目が合った。


 ハルトの視界には、まるでハルトの意思と反する様にその美女へと大口を開けて向かう複数のうねうねが見える。



「あ……」



 自身に迫る触手を前に、メイリンが呆けた声を上げる。


 心の中で止めろと叫ぶハルト。


 自分を拷問した相手への怨みなど、今のハルトにはこれっぽっちも残っていなかった。


 あるのは「これ以上、人を殺したくない」という気持ちだけだ。



(くそくそくそくそくそぉおおお! もう止めろぉおおお!?)



 ハルトが手を伸ばした先で、停止する黒いうねうね。



(止まった……?)



 願いが届いたと喜ぶも、直ぐ様そうでないことに気付く。



(いや、スローモーションか!?)



 まるで時が止まったかのように進みの遅くなった世界で、ハルトは必死に思考を巡らせた。


 異世界に転生してきてからというもの、このスローモーションが発生したときは、いつも自身に危機的な何かが起きた時だ。


 であれば、今回も自身に何か起きようとしているはず。


 すぐ様視線を上下左右に動かす。


 スローモーション中は、何故か首から上だけは比較的自由に動かせた。


 すると、自身の右側すぐ近くに、上体を低くしながら、所謂居合い斬りの形で剣を振り抜こうとしている全身白尽くめの剣士を見つける。


 その剣士は白い仮面を被っており、表情は見えない。


 だが、その剣士の持つ剣線の軌道は、間違いなく自分の脇腹目掛けて進んでいた。


 このまま時が進めば、上半身と下半身がおさらばしそうな予感すら感じさせる勢いがある。



(な、なななにこいつ!? いつの間に!? 何者ですか!? もしかしなくてもこいつ俺を殺そうとしてるよね!?)



 時が止まっているかのように見えるその世界で、その白い剣士の持つ剣だけがゆっくりと動く。


 剣線が光の帯を引いている光景からも、その白い剣士が放つ居合いが、超高速で振り抜かれている事が分かる。


 それが分かるからこそ、ハルトの焦りは酷くなった。



(まずいまずいまずい斬られる斬られる斬られる!?)



 剣の軌道から逃げようにも、剣が振り抜かれる速度が速すぎてそれもできそうにない。


 黒いうねうねはハルトの意思とは無関係に動くから助けにはならない。


 炎の雄牛ファラリスに教わった火魔法で反撃しても、良くて相打ちだろう。


 間に合えばの話だが……



(あ、あれしかない!)



 ハルトはミーニャに使った転移魔法を、この白い剣士にも使おうと決意。



(ま、間に合うのか? いやいや、間に合せるしかない! 全力でやるしか! イメージイメージ…… この剣士を…… いやもうここにいる全員を転送させてしまうくらいの力でぇえ!!)



 この世の常識を少しでも知っていれば、それがどれだけ無謀なことか、考えなくとも誰でも分かる程度のことであったが、幸いなことにハルトはその常識を知らない。


 常識や先入観は、時にイメージの最大の障害となる。


 その先入観のないハルトが、ましてや己の限界すらも知らない者が、できるはずと完全に信じて魔力マナを全力で構築するのだ。


 常人であれば、その時点で脳が魔力欠乏の危険を察知して意識を刈り取っただろう。


 だが、ハルトの魂と身体は普通ではなかった。


 異世界の理で作られた魂と、その魂と同化した規格外の身体である。



(やばいやばいやばいぃい!!)



 白い剣士が放つ、白光身に纏う剣線がハルトの脇腹に迫る。


 早く早くと焦りながら、全力で巨大転移魔法をイメージするハルト。


 地面には青白い光の巨大な魔法陣が発生し、その極太の光の柱が、瞬く間に上空へと突き抜けた。


 視界が徐々に光に包まれるのと、白い剣線がハルトの脇腹に届いたのは、ほぼ同時だった。



(イィィいいっ!? イッケェエええ!!)



 ハルトを中心に発生した眩い光の柱は、一瞬でコロシアム全体を包み込み――



 ――光とともに全てを消失させた。



 牢獄要塞フォートプリズンの外で、肉串を売っていた屋台の親父が肉串を落とす。


 先ほどまで視界の先に見えていた牢獄要塞フォートプリズンがあった場所には、巨大な大穴だけが残っていた。


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