1 - 7 「ラッキースケベは恐怖でしかない件」

 湯船が風に煽られ、ちゃぷちゃぷと音を奏でているのが聞こえる。


 目の前には、水に濡れて肌に張り付いた薄手の質素な布を身に付けた女性が、驚いた表情でこちらを見上げている。


 左手には衣類の入った篭を持ち、右手は風呂場の扉を開けようとしていたのか、前方に突き出された状態で止まっていた。


 一方で、ハルトは全裸である。


 ここは、露天風呂。


 となれば、日本ではスッポンポンが常識…… この世界も勝手に同じだと、ハルトは勘違いしていた。


 実際は、日本でも江戸時代前までは、湯浴み着の着用が普通だったのだが、混浴の歴史などに興味のないハルトが知るはずもなく――


 そして残念なことに、この世界での混浴風呂は、湯浴み着の着用が必須であり、常識だった。


 まだまだハルトの不幸は続く――


 脱衣所と風呂場の出入り口の扉が、開き戸だったことでそれは起きた。


 脱衣所側から出る場合は、扉を押して出る必要がある。


 そして、その扉は木製だった。


 水気の多い場所に、木材で出来た扉。


 この扉が軽い力で動く訳もなく、結果、肩を扉につけ、身体全体で押し開けることになる。


 これにより身体に勢いが出てしまっていたのだ。


 勢いよく開けて出たハルトは、慣性によりすぐ止まれない状態にあり――


 ネイトは右手を下に突き出したまま硬直していたため――



 二人は触れ合った。



 ハルトの心臓がドクンと高鳴り、全身を痺れるようなむず痒い衝動が駆け巡る。


 ネイトは眼球が飛び出さんばかりに眼を見開きながら、まるで親の仇を見るかの様に、右手に触れたものを凝視していた。


 脳が拒絶反応を起こし、事態を把握しようとしない。


 だが、身体は数時間前のトラウマをしっかりと覚えていた。


 触れた指先から、その柔らかい感触が電気信号となり脳へと届くよりも早く、まるで大地震にあったかの様に、ネイトの身体は上下に激しく振動した。


 口からは大量の細かい泡を吹き出しながら――



 その表情を見たハルトは、全身を再度突き抜ける快楽に、ネイトと同じように白目をむきそうになった。


 だが、そこは2度目である。


 突然やってくる快楽に耐性がつき始めたのか、はたまた心が順応し始めたのか、今回は意志を強く持つことで堪えることができた。


 理性の勝利である。



「ひ、ひぐぅぅ……」



 悲鳴にならない声をあげ、頭部を勢いよく後ろに倒し、そのまま白目をむいて卒倒するネイト。


 床は岩でできている。


 打ち所が悪ければ重傷にもなりかねない。



「あ、危ない!」



 咄嗟にネイトの腕を掴み、地面に頭をぶつけないように引っ張る。


 だが、床が濡れていたせいで、足が滑った。



「う、うおっ!? 危なっ!?」



 手やら膝を先について勢いを殺すことには成功したが、ネイトの体重を支えることができず、もつれるように倒れてしまう。


 ネイトを押し倒すような形で倒れた姿勢になったハルト。


 この状況に、この展開に、心の底から恐怖した。


 恐怖心により集中力が高まり、思考がクリアになっていく。



(まずいまずいまずいまずい…… な、なんだよこのラッキースケベな展開は!? 現実に起きたら恐怖でしかないだろ! ただの強姦罪だよ!? な、なにこれ!? ど、どうすればいい!? わ、訳わからん…… どうしてこうなった…… と、取り敢えず早くここから逃げなきゃ……)



 ハルトがネイトから退こうとすると、意識に反して身体が言うことを拒んだ。



(……えっ?)



 腕や足、身体全体が、突然鉛のように重くなった。


 少しでも動かせば、ギシギシと音がなるくらいに、各関節が急に固まり始めたのである。



(く、くそったれがぁあああ!! 身体か!? 前の持ち主か!? もしやハイデルトっていう変態野郎の身体が邪魔してんのか!? ふ、ふっざけんな! お前の性癖のせいで俺の第二の人生無茶苦茶にされてたまるかっ! き、消えろ! この! 変態野郎がぁああ! これはもう、俺の身体だっつーのぉおお!!)



 理性と意志の力をフル動員し、嫌がる身体を従えようと格闘する。


 だが、今回は相手も手強かった。


 意志と身体の均衡を崩すことができず、その場から動くことが出来ない。


 目の前には濡れた薄着で気を失っているネイト。


 肌に張り付いた布越しに、ネイトのスラリとした身体の曲線が視界に入る。


 着痩せするタイプなのか、小ぶりながらも出るとこはしっかりと出ており、倒れたことでその健康的な太ももは露わになっていた。


 それを見て再び巻き起こる快楽の嵐。



(ま、まさか…… こ、こいつ露出癖だけじゃなくて、夜這いとか寝込み悪戯とか、そ、そっち系もあんの…… か? あ、くそっ!? か、勝手に動くなっ!?)



 ついに意志の力を押し退け、身体が勝手に動き始めた。


 意志の力が負けた原因は、ハルトの過去、言わばハルトの性癖にあった。


 そう、ハルトが好んで見ていたアダルトジャンルも、そっち系だったのだ。



(ま、まずいまずいまずいって! 合法的に見るのと、実際にやるのは意味が違うだろ! いや…… 中には違法な動画もあったけど…… って、そうじゃなくて! この子に手を出したら犯罪! 犯罪だろ!? や、やめろぉおおお!)



 依然として言うことの聞かない身体。


 手をネイトの身体へと勝手に動かさそうとさえしている。



(くそぉおおお! 変態野郎がぁああ! 言うことを聞きやがれぇえええ!!)



 意志の力を再びフル動員し、全ての力を頭部に集中する。



 そして――



 勢いよく地面へと頭を打ち付けた。



 ゴッという鈍い音が低く響く。


 暫し間を経て、ゆっくりと頭をあげる。


 そのおでこからは血が流れ、ポタポタと地面へ垂れていた。



「どうだ…… 変態野郎め…… はは、見たか、この野郎…… はぁ…… はぁ……」



 その場からほとんど動いていないのに、ハルトには400mを全力疾走したような疲労感と消耗を感じていた。


 独り言のように、言うことを聞かない身体へ話しかけていたとしても仕方のないことだろう。


 だがそれは、ハルトの全てを知っている者が抱くであろう見解の予測であり、心の内の見えない者にとっては、見え方は全く異なる――



「き、貴様…… ネイトに…… 何を、した」



 その言葉に、ハルトは全身の血が一気に引くのを感じた。


 快楽とはまた別の、チリチリとした痛みが首筋に走る。



(終わった…… 完全に人生終わった……)



 四つん這いになっていた身体を起こし、恐る恐る背後を振り返る。



「ひっ……!?」



 その姿に、その光景に、さすがのグレイスも短い悲鳴を上げずにはいられなかった。


 ネイトが先に入っているはずだった露天風呂には、ネイトとは別に男が一人。


 そしてその男は何故か全裸で、四つん這いになっていた。


 その男の汚い尻の穴を見ただけであれば、グレイスは動揺しなかっただろう。


 だが、その男の下に女性と思わしき足が見えたとき、グレイスの心臓は焦りで破裂しそうになった。


 ネイトが襲われている!? そう、最初に頭を過ぎった。


 そして怒りが沸き起こった。


 だが、その怒りも一瞬で吹き飛ばされるくらいの光景が飛び込んできた。


 その男は、顔と下半身を血で染め、不敵に笑いながらこちらをゆっくりと睥睨したのだ。


 その迫力に、グレイスが恐怖を感じたとしても誰も咎めることはできないだろう。


 理解できないものを目にしたとき、人は本能から恐怖を感じるものだ。


 一方で、ハルトはこの世の終わりのような不幸の連続に、乾いた笑いを額に貼り付けていた。



(終わった…… この状況…… 弁明などできない…… 終わった…… ん?)



 絶望しつつも、声のした方へ向き直る。


 すると、グレイスが一歩後ろに後ずさりした。



(もしや…… 精神的に有利なのは…… 俺の方か……?)



 森の中での初邂逅時のことを思い出す。


 その時は相手の隙をついて逃げることに成功した。


 であれば、今回も同じ方法で切り抜けることができるかもしれない。



(や、やるか? 前回はここで気を失っているネイトだったけど、今回は相手が違う…… だが、何故か知らないけど相手は怯んでる。精神的有利は間違いない。これなら、いけるかもしれない…… ティアの保護がなくなるのは心細いけど…… ここで捕まって人生潰すくらいなら…… そうだ…… そうだな…… よ、よし! 逃げよう!)



 そう決意した瞬間、身体が嘘のように軽くなり始めた。


 そのまま宙に浮いてしまいそうなくらいに軽い。


 実際には少し浮いていたかもしれないが、ハルトは気付いていない。



(そうか…… お前はこういうのが好きなのか…… 理解したくはないけど、何となくお前のことが分かってきた気がするよ……)



 心の中で、もう一人の自分である身体に語りかけた。


 そして目の前のグレイスを脅すため、一策を講じる。



 両手を上に上げ、荒ぶる狼のポーズ――


 顎をしゃくりあげ、眉間に皺を寄せ、顔面に飛び込んでくるのは鋭い握り拳ーー



「……えっ?」



 骨と骨が打つかる鈍い音が響き、鮮血がその場に巻き散る。


 顔面に助走付きの全力ストレートを打ち込まれたハルトは、まるで振り子が弾かれる様に頭部を大きく後ろに仰け反らせ、その衝撃に引っ張られるように身体を宙に浮かせながら、湯船のある後方へ吹っ飛んで行った。


 再びゴッという鈍い音が浴場に響き、同時に水飛沫があがる。


 湯船には、無数の泡と共ともに、沈んでいくハルトがいた。



「はぁ、はぁ、どうだ、変態め!」



 グレイスが睨むその先の湯船には、気を失ったハルトの尻が、ぷっくりと顔を出していた。




 ◇◇◇




 ゴトゴトという何かが打つかる音とともに、身体に衝撃が伝わる。



(い、痛たた…… あ、あれ、目が見えない? 目隠し? 身体も動かせない…… 口が痛い…… 猿轡? マジか…… そうか…… 俺…… とうとう捕まったのか…… はは…… まぁ…… そうだよな……)



 魔眼封じの目隠し、魔封じの猿轡、魔縛りの縄。


 それら全てを一人の人間に使用するという異例の待遇を受けながら、ハルトはとある場所へと護送されていた。


 だが、耳については何も拘束されておらず、ハルトは身動きの取れない状態でいながらも、少しでも周囲の情報を集めようと聞き耳を立てた。


 すると、護衛と思わしき男達の話し声が聞こえてきた。



「なぁ、本当にこいつは報告にあるほど危険人物なのか?」


「さぁな。だが、魔縛りの縄を爆発させたのは本当みたいだぞ。魔眼や魔舌を持っているかどうかは怪しいがな」


「そこが引っかかるんだよなぁ。だってそうだろ? そんな奴が顔面殴られただけで風呂場でのびるか? どう見ても小物だろ、そんな間抜け」


「俺に言うな。まぁその意見には俺も同意だがな」


「その方が俺らも安全でいいけどよ。しっかし、幼気な子供を拉致して監禁してた糞野郎って最初は聞いてたのに、そいつとは別人だったんだろ? 最近変な奴が増えてきたよなぁ」


「確かにそうだな。こいつにも仲間がいたらしいが、どうやらまだ捕まっていないらしい。宿から逃げ出したとか。女二人組とのことだ」


「なんだそりゃ。変態野郎の連れが女って、そいつらは痴女かなんかか?」


「世の中には色んな奴がいるからな。その可能性もゼロではないだろうな」


「へぇ〜。そんなもんか。おっ、ようやく着いたか。いや〜長旅だった」


「残りの眠薬使わずに済んだな。そろそろ薬も切れる頃だろう。念のため警戒しておけ」


「了解」



 暫くして身体に浮遊感を感じ、また暫く運ばれる。


 何時間か経ち、その時がようやく訪れる。


 いつぞや振りに外される拘束具。



「おい、着いたぞ。とっとと歩け」



 背中を強く押され、よろよろと二、三歩歩く。


 ゆっくりと眼を開けると、そこは巨大な黒鉄の壁に囲まれた――



 牢獄だった。



「ようこそ糞野郎共。ここは牢獄要塞フォートプリズンだ。たっぷり可愛がってやるから楽しみにしておけ。ガァッハッハ」



 ハルトの苦難はまだ続く――


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