第5話 七夕前哨戦

 屈辱の日曜日が明けて、いつも通り空いた七間通りをのらくらと自転車で走っていると、不意に嫌なことを思い出した。

 今週の金曜日から七夕祭りじゃないか。何でか知らないが今年は開催が例年より遅くなっていたせいで忘れていた。ああ、我門の顔が見たくない。

 家に引き返したい気持ちをやっとのことで堪える。試合で負けたばかりだというのに、なんという泣き面に蜂……いや、待てよ。まだ誰とも一緒に行けないと決まったわけじゃない。今から誘っても遅くはないではないか。

 久しぶりに自転車を思い切りこいで学校に向かった。

 正門を通過するとチャイムが鳴った。どうやら三時間目の終業ベルらしい。休み時間中なら面倒な入室許可証を書かなくて済む。運も向いてきたかもしれない。

 階段を一段飛ばしに上がって二階の渡り廊下に出ると、ちょうど教室へ向かう二年五組の面々が歩いている。すぐに廊下の突き当たりを右に曲がろうとしている三人組の一人に堀川さんがいるのを見つけた。やや残念なことにポニーテールじゃないが、とにかく小走りで近づく。

「おはよ」

 声をかけると三人同時に振り向いた。堀川さんと原さんと城崎さんだ。

「あ、おはよー」

 と堀川さん。

「早くないけど」

 と原さん。

「坂上くんにしては早いかも」

 と城崎さん。

「堀川さん、今日は何で髪結んでないの?似合ってたのに」

「あっ、坂上くんもそう思う?私もさっき言ったんだよ」

 原さんが同調してくれる。

「だって、今日は体育無いから……」

 困ったように視線を泳がせている堀川さんの可愛らしさで、危うく鼻血が出そうになる。

「なるほど。ところで、よかったら金曜か土曜か日曜、一緒に七夕行かない?」

 我ながらバウンドする前に相手のサーブをリターンするような唐突さだと思ったが、止むを得ない。

「え……あ、ごめん。私七夕はもう毎日約束があって」

 堀川さんはすまなそうに頭を下げる。

「そっか。いや、無理なら仕方ない。気にしないで」

 落胆で早くも昨日の敗戦を忘れられそうだ。しかし、どう考えても不幸中の幸いというよりも不幸の上塗りである。

「残念だったなぁ。坂上くん」

 原さんがぽんぽんと肩を叩く。何だかとても嬉しそうだ。

「ごめんね。その約束の内の一つは、私たちとなの」

 すまなそうに言っている城崎さんも、口元が笑いを堪えているのは俺の気のせいだろうか。

「どう、私たちを誘ってみる?」

 原さんはガバっと城崎さんの肩に腕をまわした。

「もちろん。どうかな?一緒に七夕」

「ごめーん。私も全部予定入っちゃってるの」

 原さんは非常にわざとらしい謝り方で断ってくれた。

「ぷ、ふふ、実は私も。ふふふ、ごめんね」

 城崎さんはすでに笑いが我慢できてない。

「非常に残念だ。来年こそは一緒に行こう。それにしても、どこで何の授業だったの?」

「生物。実験だったの」

「坂上くん、結構休んでるけど、大丈夫?」

「いざとなったら、君たちに教えてもらうよ」

 原さんと城崎さんはけらけらと笑った。

 教室に入り、自分の席にカバンをかけてから隣の席で話している渡見さんと西野さんの会話に入ろうとしたら、呼んでもいないのに我門が来た。

「よう、相変わらずだな。自由人」

「なんだよ。来んな、来んな」

「そう、冷たいこというなよ。親友のお前に相談があるんだから」

「どうした、いきなり」

「いやね。七日の日曜はどうやって彼女と七夕を回ったらいいかなぁと」

「お前ね、本当にサーブ頭にぶつけるぞ」

 我門はへらへら笑っている。

「すまん、すまん。まあ、今のお前サーブじゃ、怖くも何ともないが」

「くそったれが」

 チャイムが鳴り、他の生徒が席に戻っていくのと同時に我門は席へ戻っていった。国語の栗田先生が入って来て名簿を眺めている。背の低い女の先生で、少しでも身を屈めると一番後ろの俺の席からは見えなくなるくらいだが、それで欠席扱いされてはたまらない。心持背筋を伸ばす。

「坂上さん、坂上さんはまだ来ていませんか?」

「います。先生、いますよ」

「あら、いついらっしゃったの?」

「朝からいましたけど……」

「おかしいわね。チェックがついてるわ。中田先生に確認してみましょう」

「あっ、勘違いでした。さっきの休み時間に来ました」

 中田先生に言われてはかなわない。

「あら、そうですか」

 クラスが笑いでざわつく。まったく笑いを提供する気など微塵もないのに、どうしてこうももの笑いの種にされるのか。栗田先生は出席簿の確認を済ませるとすぐに『山月記』を朗読し出したので、身を屈めて渡見さんに小声で話しかける。

「渡見さん」

「何?」

 渡見さんが小声で返事をしてこっちを向く。

「良かったら、一緒に七夕行かない?金曜でも土曜でも日曜でも」

「無理。そんなことしたら彼氏に怒られちゃう」

 あ、そういえば渡見さんは彼氏がいたんだっけ。

「だよねぇ」

 ダブルフォルトでサービスゲームを落としたような喪失感に囚われた。



 次なるは四元さんだ。放課後になった瞬間に教室を飛び出し、傍らでぶつぶつと話している我門の言葉に三回に一回くらいの割合で適当な返事をしつつ、部室へと速足に向かう。

「四元さん、一緒に七夕行こうぜ」

 部室の戸を開けざまに大声で言ってみたものの、部室にいたのは木戸と大場と日野の三人だけだった。

「四元さんはバイトあるから帰るって。そうだろ、日野?」

「うん」

「残念やなぁ。四元さんで何人目なん?」

 木戸がニタニタしながら訊く。

「うるさい」

「五人目だ」

 我門が余計なことを言った。

「お前は黙っとけ」

 オムニコートとハードコートを分けるフェンスと防球ネットは高い。それはもう、俺にとっては実際に見えている高さの十倍はあろうかというくらいだ。この隔たりのせいで、同じテニス部なのに男子と女子の交流は極めて限られてしまうのだから。だが所詮はネットとフェンス。こっちの声は届くのだ。

 女子の練習を窺いながら、機を見てフェンスのすぐ向こうにいる鈴谷さんに声をかける。

「鈴谷さん」

 鈴谷さんはびくっとしてこっちを見た。

「一緒に七夕行かない?どの日でも構ないよ」

「えっ?」

 鈴谷さんがおろおろしている間に反対サイドの人がサーブを打ち、ボールは鈴谷さんの横を抜けていった。

「ちょっと、どうしたの?」

 サーバーを見て胃が縮む。まずい、河内さんだ。

 三年生の河内さんは女子テニス部の部長であり、その男勝りは勇名を馳せている。コート使用の交渉に際して、我々男子テニス部が常に不利になるのもこの河内さんの存在のためだ、と言って過言でない。というか過言でないどころか、それは寸分違わぬ真実である。

 河内さんがわざわざ鈴谷さんの方へやって来たので、慌ててフェンスに背を向ける。

「調子でも悪いの?」

「いや、その……」

 すまん鈴谷さん、と思ったのも束の間、すぐに河内さんは俺に気がついた。

「ああ、また坂上ね。ちょっと、あんた」

「はい、何でしょう?」

「邪魔しないで、って言ってるでしょ」

「すいません。七夕が近いもので、つい」

「はあ?」

 三、四回謝ってようやく解放される。やはり河内さんはフェンスや防球ネットと並んで男女テニス部の相互干渉を挫く双璧だ。その壁の厚さを再認識した。

「何やってんねん、お前」

「六人目も失敗か」

「坂上、県大会までに実力戻す気ある?」

「それじゃあ、陣特別メニューでもやるかい?」

「ええな。やろ、やろ」

 俺特別のメニューと言っても、その実態は単なる球出し練である。ストローク、ローボレー、ハイボレー、スマッシュ、決め球などなどを全て丸々ボール一籠分ずつ俺が駆けずり回って打つのを他の面子が口で横やり入れながら見るという、見せもの色が甚だ濃い練習だ。逃げたと思われるのも癪なので受けて立つが、そのせいでいつも阿呆どもに娯楽を提供している現状も腹に据えかねる。

「おーし、いくでー」

 やけに嬉しそうな木戸の顔が鬱陶しい。

 まずはベースラインの真ん中に立ってフォア側へ出された球を打ち、戻って今度はバック側に出された球を打つ。この反復を何十球と繰り返す。フォアは何とか八割くらいコートに入るが、バックはてんで駄目だ。

「どうした。全然入ってないぞ」

「足動かせ」

「何や、そのへなちょこ玉は」

「ボールよく見ろ」

 言いたい放題言いやがって、テニスの腕が戻ったら覚えてやがれ。

 ようやく一籠分終わると次はボレーである。籠が二つあるせいでここは休む暇がない。サービスラインの真ん中に移動する。

「ええか、フォアのローボレー、バックのローボレー、フォアのハイボレー。少しずつ前に詰めるんやで。最後ハイボレー打ったら戻って逆や」

「分かってんよ」

 ボレーは益々もって良くない。本当にこんな打ち方を最初にやり出した奴はコスい。何で正々堂々とストロークで勝負しようとしないのか、と言えるほど今の俺はストロークができるわけではないのだが。

 ボレーの次はスマッシュだ。フォアボレー、バックボレー、スマッシュ、バックボレー、フォアボレー、スマッシュの無限ループ。肩が外れそうなのはきっと気のせいじゃない。

 スマッシュが済むと、決め球の練習だ。ベースラインの右端に立って、まずは来たボールをフォアのストロークで打つ、次に左端に出された球を追いかけてバックのストロークで打つ、三球目は浅く浮いた球が出るのでそれを決めて終了のはずだが、木戸は俺が最初の位置に戻る前にロブで次の球を出してくる。そのせいで走りっぱなしだ。さらに、それが終わっても開始位置を左端して最後もう一セットある。

 最後のセットでついに足がもつれて転んだ。

「どないしてん、立てや」

「コーチ、わたしもう限界です」

「そないなはずあるかいな。陣子、お前ならできる。根性や」

「無理です」

「ほう、お前にはお仕置きが必要みたいやな」

「お、お仕置きって何ですか?」

「ちと、こっち来いや」

「は、はい……って、何するんですか、コーチ」

「根性見せんとどうなるか、体に覚えさせたるわ」

「や、だめ、コーチ。そんなとこ触っちゃ……」

「そないなこと言うたかて、陣子、お前気持ちええんやろ……すまん、俺の方ももう限界や。吐き気がしてしゃーないわ。ううぅぇ……」

 木戸は口を押さえて四つん這いになっている。

 俺は俺で言葉のやり取りだけでこうも気持ち悪くなれることに驚きつつ、やはりそのやり取りで立ち上がる心を自ら折ってしまったので転んだまま動けなかった。

「お前らバカだろ」

「何ゴッコだよ」

「『陣子の放課後秘密特訓(R18指定)』ゴッコやな……ん、うえぇ」

 タイトルをつけたことで更に気分が悪くなったのか、木戸は完全に蹲ってしまった。いい気味だったが、どう見ても痛み分けだった。

 練習が終わっても、喉の奥がイガイガするような感覚が治まらない。着替える気力が湧いてこないので、俺は部室のイスに座ったままぼんやりとしていた。

「しっかし陣、このままで戻りそうか?」

「まあ、俺が戻んなくても、我門をシングル1で登録すればいい」

「何でだよ?」

 我門が嫌そうな顔をする。

「登録で日野をシングル1にすると、俺の実力が戻ってシングル1に出たら日野はシングル2に出られないからな。俺が戻らなくてもシングル2とダブルス1で勝てばいい」

「えらく真面目なこと言うやないか。ちと卑怯くさいけど」

「でも、日野はいいのか?シングル1に出なくて」

「出てはみたいけど、坂上の提案が一番堅実だと思う。卑怯だけれども」

「日野より下手な俺がシングル1をやんのかよ、卑怯じゃねぇか」

「いいんじゃない。卑怯だけど」

「うるせぇな。人の案を卑怯、卑怯言いやがって」

「だって実際卑怯だし」

 賛成しておきながら、四人はまるで俺一人が卑怯だと言わんばかりに頷く。

「それにしても、そうすると俺は試合に出なくちゃらんのか」

 我門が慨嘆する。

「いいじゃん。別に勝たなくてもいいんだし」

「それになぁ我門、協力しねぇんなら確実に七日はお前を見つけ出してデートをぶち壊してやるからな」

 俺は一言一言に力を込めて言った。

「ま、そうじゃなくても探すつもりではあるけどな」

 大場が補足する。

「な、止めろ、お前ら」

「止めへんな。自分だけのうのうといい思いさせとかんで」

「くそ野郎どもが」

 我門が吐き捨てる。

「まあ、落ち着け。俺がちょうど七日に一緒に行く相手を見つけたら、そんなことはしないからよ」

 立ち上がって部室のドアを開ける。

「どこ行くんだ?」

「まだ鈴谷さんから、さっきの返事をもらってない」

「止めとけよ。黒星確定じゃねぇか」

 俺は無視して部室を出た。

 男子テニス部の部室はグラウンド側にあるが、女子の部室は正門側である。テニスコートの前を通って正門側の部室が並ぶ面に出ると、鈴谷さんはすでに外にいた。誰かを待っているようだ。もしかしたら俺かもしれない。

「お疲れ」

 軽快に声をかける。

「あ、お疲れ」

「さっきは間の悪い時に声をかけちゃって、ごめん」

「私は大丈夫だよ。それよりその時の誘い、悪いんだけど無理なの」

 ライジングショットという打ち方がある。飛んできたボールが弾み、最高点に達してから落ちてきた所を打つ普通のストロークに対し、最高点に達する前に打つライジングショットはタイミングの取り方こそ難しいが、完璧に使えればラリーで主導権を奪われることはまずない。そしていま、俺は鈴谷さんのまさにライジング並みの返答に、完全に会話の主導権を失ってしまった。

「そっか……まあ無理なら仕方ないね」

 いきなりここまで歩いてきた意味を失い、戸惑う。無言で鈴谷さんの体を眺め回しているわけにもいくまい、と思ったら女子テニス部の部室から橋本さんが出てきた。

「お待たせー、あれっ、坂上くんじゃん」

「お疲れ。橋本さん、もし」

「ごめん、七夕なら無理だけど」

 何という読みの良さ。自信たっぷりに意表を突いたつもりのサーブが読まれて逆襲を食らったような観がある。

「おお、そっか。残念だ」一挙にどうしようもない空気になってしまった。「そ、そんじゃ、お疲れー」

 俺は試合で負けた選手がコートを去るようにそそくさと部室に戻った。

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