第2話 姉さん

 事故の発生が土曜日であり、俺はその日、病院へ入院した。それでも様々な検査を経て、翌日の日曜日には退院することができた。女の子が一人も見舞いに来ないうちに退院するのは少々残念だが、たとえば一カ月も入院して誰一人来なかったらそれこそ残念である。俺は気持ちを切り替えて意気揚々と退院した。

 それにしても、一体どのような事故だったのか。

 テニスをしていた時のことは何一つ覚えていないので、頭にテニスボールが当たった時のことは思い出せなかった。そもそも頭にテニスボールが当たったせいで、病院に運ばれたのだということも後から四人に聞いたくらいだ。

 ことの顛末はこうだったらしい。俺たちは土曜の午後、学校にて五人でコート三面という不必要に良い条件のもと、ハードコートの二面を使って練習していたそうだ。俺と日野がシングルスの試合をしている横で、木戸、大場、我門の三人が2ポイント交代でシングルスゲーム形式の練習をしており、大場のサーブ、我門のレシーブの時にことは起こった。

 いまひとつ覚えていないが、大場はその長身を活かしたかなりのビックサーバーらしい。片や我門は軟式テニス上がりだ。軟式テニスは硬式よりもボールが飛ばないため、ストロークは自然と硬式よりも厚い当たり、つまり回転をかけないフラットな打ち方になる。スピードの出る打ち方ではあるが、硬式ではコートに入る確率が落ちるため、回転をかける打ち方が一般的である。しかし、一体真面目にやる気があるのだろうか、すでに一年は部活を続けているはずの我門はいまだに軟式の打ち方の改めないままらしい。コートに入る確率など度外視したその打ち方は、スピードだけは確かに一級品だと他の面子も口を揃える。

 大場はその時そこでバカ当たりのフラットサーブを炸裂させた。本人も、もしコートがクレーだったらボールが地面にめり込んでいたと思う、などと嘯いていたが、そんなアンディ・ロディックの如きサーブを大場が打てるのかということはさておき、音からして尋常じゃない気配を感じた我門は少しラケットを早く振り過ぎた。

 そしてこっちもバカ当たりだった。

 ボールは大幅に横へ逸れ、隣のコートの審判台を狙うかのようなコースを一直線に飛んでいき、日野が浅めに浮かしたチャンスボールを決めんとしていた俺の後頭部に直撃したのだという。

 誰の責任か、当然議論になった。

 直接ボールを打ったのはたしかに我門である。しかし彼は言う。「大場のサーブが速かったからなぁ」と。たしかに大場のサーブは速かった。しかし彼は言う。「打つ前に木戸が、一発かましたれ、って煽ったからなぁ」と。たしかに木戸は大いに煽った。しかし彼は言う。「そもそも、日野が浅いボール上げるから、陣があの位置にいたんちゃう?」と。たしかに日野は浅いボールを上げた。しかし彼は言う。「その前に坂上がきついコースに打つから」と。

 こうして責任は巡り巡って、最後は俺の自業自得ということになった。さすがの俺も返す言葉が無いほどのチームワークであった。

 しかし、何はともあれ晴れて退院した俺は、重要なことを思い出した。

「今夜は、ウィンブルドンの決勝じゃないか」


 〇


 月曜日、もろもろの準備を終えた俺は学校へ行くために自転車に跨った。

 十二時十分である。まあ、四時間目が終了する頃には着くだろう。明け方までウィンブルドンを観戦していた割には早く起きたんじゃなかろうか。

 大原高校は平津加市を東西に走る線路の北側にある。線路の南側にある俺の自宅からは、近からず遠からずの場所だ。近過ぎて油断することもなければ、遠過ぎて時間がかかることもないのにこうして遅刻してしまうのは何とも不思議なことである。

 家々の建ち並ぶ狭い道路を走り、浜竹地下道を通り抜けて七間通りに出た。珍しく晴れた梅雨の昼は蒸し暑く、着ているTシャツをパタパタと扇いで服の中に風を入れる。当たり前のことながら七間通りの歩道にはすでに高校生など一人もいない。

「うむ。実に清々しい」

 一年生の頃、初めて遅刻した日を思い出す。いつも同じ高校生で混雑を極めている道は見違えるように空いていて、遅刻した俺を懐深く受け入れるように伸びていた。俺は心打たれ、以来遅刻した時は強いて急ぐことをせず、ゆっくりと落ち着いて登校する心のゆとりを身につけてきた。決して急ぐことが面倒なわけではない。

 しかし高校側は生徒のそうした精神的成長を一切認めず、多くの先生方は遅刻日数四十日を記録した俺を冷遇した。プロテニスの試合ではよく客席の中にファミリーボックスなるものが用意されているのを見るが、所属高校の教師から目の敵にされる様は自分のファミリーボックスにまで対戦相手の関係者が座っているような四面楚歌だといつも思う。

 それでも俺は急がない。そう易々と周りに流されてはテニスでも決していいプレーはできないのだ。大事なことなのでもう一度言うが、決して急ぐことが面倒なわけではない。

 高校生など一人もいるまいと思われた七間通りを北へ向かって悠々と自転車を走らせていると、国道一号線との交差点でのんびり信号待ちをしている一人の女子高生が見えてきた。こんな時間にあれほど余裕に信号を待つ女子高生はそうはいない。姉さんだ。

 近くの建物の窓ガラスで、通りしなに髪型をチェックするという紳士らしい行為を忘れずに挟んでから近づく。

「おっはよー、姉さん」

「おお、陣ちゃん。おはよ」姉さんが振り返る。その拍子にさっと広がった彼女のつややかな栗色の髪から桃のような香りがするのは俺の妄想か。「いい加減、その呼び方やめてよ」

「だって姉さんが呼べと言ったんじゃないか」

「いくつの時の話してんの」

 姉さんの本名は宮野夏海である。一つ年上の幼馴染で別に血縁関係はない。近親相姦という茨の道を行かずとも堂々と彼女にアプローチできるのだから、これを幸運と言わずに何と言おう。姉さんとは家が近いこともあって、幼いころによく遊んだ記憶がある。そういうふうに無邪気に遊んでいたある時、彼女は突然「お姉さんとお呼び」と言った。来し方十年、その言いつけを忠実に守りとおした俺を姉さんは何故か嫌がった。

 もとから宝石の原石のようにその可能性を内に秘めていることには気がついていたが、自然に遊ぶことがなくなっていった中学に入るか入らないかの時期から、姉さんは凄まじい速度で美女へと成長した。浜竹中学校在学中の一時期は、後から後からまるで試合終了後にサインを求めてコートサイドに殺到するファンのごとく、定評付きから単なる自称まで、学校中の「イケメン」が次々と交際を申し込んでは晩春の桜のように散っていった。その浜竹中学校史上稀にみる桜吹雪ならぬ失恋吹雪は危うく学校崩壊を起こすところであったと専らの噂である。

 その中でただ一人、彼女を映画に誘って断れなかった男がいる。

 えぇ、マジで? うっそぉ、誰だろ? と、一人で盛り上がっても空しくなってくるだけなので、早々に答えを言うが、そう、俺である。

 交際を申し込んだわけじゃないだろとか、単なる幼馴染のよしみだとか、恋愛対象として見られてないとか、もろもろの負け犬の遠吠えにはいっさい耳を貸すつもりはない。映画に誘って断られなかったのは純然たる事実だ、と声高に叫びたくもあったが、怖そうな先輩の方々にコンクリ詰めにされて相模湾に沈められそうな気配もあったので紳士らしく堪えた。

 それをきっかけにして再びちょくちょく接近するようになった姉さんもまた大原高校生である。機会あるたびにアプローチをかけるようになった俺だが、成功率はアマチュアがプロに勝つよりも低いと言わざるを得ない。また、アプローチをかける一方で、二百キロを超えるサーブのインかフォルトかを見分ける線審のように、姉さんの周りをうろつく男どもの行動に目を光らせている俺だが、本人はどこ吹く風でいまだに男と付き合うそぶりは見せていない。

「そんな冷たいこと言わないでくれよ。一緒にお風呂まで入った仲じゃないか」

「だから、いくつの時の話よ、それも」

 姉さんは呆れるそぶりもめんどくさいというように前を向いた。その隙に視線を下に向ける。短いスカートから伸びた脚は相も変わらず見事であり、この脚線を分析してラケットフレームに応用すれば、大変見目美しいラケットができることは間違いない。

「ときに姉さん、今日はどんな下着を召していらっしゃるの?」

 姉さんは今度こそ呆れてため息をついた。

「陣ちゃん、そんなことばっか言ってると、そのうち通報されて逮捕された挙句、晒し者にされて社会的に抹殺、二度とお天道様を拝めなくなるよ」

「怖いこと言うね。ていうか、そんなことばっかり言っているわけじゃない。俺と姉さんの仲だからさ」

「嘘ばっかり。唯奈ちゃん言ってたぞ。陣ちゃんがしょーもないことばかり言うって」

「四元さんは仕方ない。何せウチの部のマネージャーだから……って、姉さんは四元さんと知り合いだったっけ?」

「今度のバイト先で知り合ったの。可愛くていい子じゃん」

「それは、俺もまったくもってその通りだと思う。それよか最初の質問の答えは?」

「なんでそれを答えなきゃいけないの」

 信号が青になり、姉さんは自転車をこぎ出したので、慌てて追いかける。

「何故ってそりゃあ、姉さん、俺が入院してるのに見舞いに来てくれなかったじゃないか」

「それ、今朝お母さんから聞いた。どうしたの?」

 親同士の仲がいいせいか、やけに情報の伝達が早い。俺は手短に説明した。

「へえ、テニスのことだけ、ねぇ。今朝は病院でも行ってたの?」

「いや、ウィンブルドンの決勝見てから寝たら、予想通り寝坊した」

「それでこんなに遅刻か。たるんどるぞ」

「いやいや、いま傍らを自転車で並走している人に言われても」

「あはは。それもそうね」

 実は姉さんも学校生活は結構ルーズである。遅刻どころか、突然二、三週間休んだりもする。しかし遅刻の方は寝坊であろうが欠席の方は海外旅行だったりするから、ちょっと普通じゃない。旅好きな姉さんは、普段はバイトに打ちこんでお金を貯め、長期休暇や気が向いた時に一人でふらりと出かける。そのあまりの奔放さで先生からの叱責も回避する。

 俺はというと、あんな美女が海外を一人でうろつくとは自殺行為もいいとこだ、と心配で夜も眠れず、その結果朝も起きれず、遅刻日数が嵩むばかりなのだ。

 俺以上に欠課しがちな姉さんだが、頭は良く、先生にも可愛がられるタイプなので、扱いの差は月とスッポンの観がある。ほとんど出席しないのだが臨時特派員と自称して新聞部に所属しており、旅行から帰るたびに校内新聞に旅行記を載せていたりもする。そしてこれがまたすこぶる面白く、職員室にも多くの愛読者がいるというから敵わない。

「まあ、そういうわけで先程の質問に答えてくれてもいいんじゃないかと……」

「まだ言うかっ」

「俺の燃えさかる闘志を見くびらないでいただきたい」

「その無益な闘志を早急に冷却しないと、次々と女子が離れていくよ」

「女の子にももう少し理解が欲しいね。男が相手の女の子の下着を気にするということは好意の表れだよ。それもただならぬ好意だ」

「女子はそういう好意は敬遠するの」

「迂遠だなぁ」

「急がば回れ、ね」

 のらりくらりと自転車をこぎながら時折姉さんの横顔を見ていたが、やはり油断すると目が離せなくなりそのまま電柱に激突しそうになる。しかしそんなことになっては甚だカッコ悪いので、適宜前を向きつつ姉さんを見つつ、交差点を右に曲がって総合公園に沿って自転車を走らせた。

 ここ平津加市の七夕祭りは全国的に有名である。その七夕祭りでは毎年三人のミス七夕、つまり織り姫が選出される。本人はそういうイベントを歯牙にもかけていないが、もし姉さんがそのコンテストに参加すれば、他の応募者を差し置いて満場一致の即決、おまけに三人選ばれるはずの制度が例外的に無視されて、一人で優に三人分の光輝を放つ織り姫として選ばれることは想像に難くない。きっと琴座のベガよりも輝いていることだろう。また、そんなに美しい織り姫が現れたとなると、彦星の方は七月七日を待たずして猛然とバタフライで天の川を泳ぎ切り、毎日が七夕になってしまうことも十二分に考えられる。

 そんな姉さんと一緒に登校できただけでも幸運だ。テニスではネットの上端に当たったボールをコードボールと言うが、この先一カ月はコードボールが全部自分のコートに落ちるくらい運を使い果たしたかもしれない。あまり下着の柄に拘らずにこの幸運を活かして、ここはひとつランチにでも誘うとしよう。

「姉さん、この際もう学校に行くのはよして、一緒にランチでもどうでしょう?」

「おお、いいこと言うね。それだよ、それ。でも、お金ないんだよねぇ」

「気にすることはございません。ここは是非、わたくしめに御馳走させていただけませんか、マドモワゼル」

「まあ、ムッシュー、いいのですか?」

「喜んで」

「やったぁ。どこにしようか?」

 二人して目前に迫った大原高校をかわし、総合公園の中へ入る。

 何たる幸運だろうか。喜びで顔がにやけないように精一杯引きしめつつも、俺はこの先卒業するまで相手の打ったボールがイレギュラーバウンドし続けることを覚悟した。

 しかし、銀杏並木を走りながらふと気が付くと、姉さんの自転車は数メートル後ろで止まっている。

「どうしたの?」

「ごめん。今日昼休みまでに出さなきゃいけない提出物があるんだった」

 我々は、すぐさまUターンして大原高校の方へ引き返し始めた。

 変に期待したせいで失望もひとしおである。テニスラケットのガットの張力、つまりテンションはポンド単位で表すが、今の俺のテンションは低すぎてどんな単位でも表せそうにない。

「ごめんってば。ちょっとそんな暗い顔しないでよ」

「うん……」

 何たる仕打ち。この先一生ファーストサーブが入り続けても割に合わん。

「もう昼休み始まってるよ」

「うん……」

「陣ちゃんの最初の質問に答えようか?」

「えっ」

 今日はもうこのまま帰ろうかと考えていた俺は、驚いて姉さんの方を見た。

「ほら、元気出た」

 姉さんは笑っている。

「なんだ、冗談か。余計にへこんだよ」

「本当に答えれば、それで元気が出るわけ?」

「もちろん。そしたらこの先三週間はへこまない自信はあるね」

「そう。じゃあ答えよっかな。大声じゃ言わないし、一回しか言わないよ」

「お、おお……」

 自転車の速度を調整して姉さんに近寄る。

 何だか妙に恥ずかしくなってきた。質問している時は答えてくれない前提があるから大丈夫なのだろうが、実際に答えを聞くとなるといよいよ自分がただの変態に思えてくる。いや、いずれ質問している時点でただの変態だからね、というのが大方の見解であることはもちろん承知している。大原高校の正門が目前右手に迫っていた。

「今日の下着、み・ず・た・ま」

「うわっ」

 ガッシャーン。

 足を突っ張る暇もなく自転車が横転し、地面に叩きつけられた。

 下敷きになった右足と右肘に痛みが走る。肘の方はかなり擦り剥いたみたいだ。どうやら右に曲がって校内に入る時に門のレールの溝にタイヤを取られ、滑ったらしい。姉さんのパンツの柄に神経を集中させるあまり、完全に受け身を取り損なった。

「ちょっと、大丈夫?」

 少し前で自転車を止めて姉さんが振り返る。

「ふ、不覚……」

「ぷっ、ふふ。陣ちゃん、ほんと面白い。ははは」

 姉さんは自転車に乗ったまま笑い出した。スカートとサドルの間から伸びている腿は今のこの位置からだと裏側がよく見える。適度に白くて健康的な色だ。あと少し下に入りこめばさっき聞いたことが確認できそうなのに、と思っていると姉さんが俺の視線に気づいた。

「あ、どこ見てるんだ、こいつ。もう知らない」

 そう言って姉さんはすぐそばの駐輪場に入り、自転車を置くと、すたすたと校舎に入ってしまった。

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