第18話

 陽菜の部屋はまるで空き巣にでも入られたかのような有様だった。引き出しはすべて開けられていて中のものが散乱しており、ベッドのシーツとカーテンはカッターナイフのようなもので切り裂かれていた。

 陽菜の叫び声に、駆けつけた長谷川が警察を呼んで、彼女は青い顔のまま警察署で事情聴取を受けることとなった。

 事態が事態だけに、陽菜の部屋は警察の人が犯人特定のために調べてくれている。銀行の通帳が無くなっていたので警察は物取りの犯行だと睨んでいるようだった。

「今日は俺の部屋に泊まりますか?」

 警察署で事情聴取やその他細々とした書類を書き終わった後、長谷川は陽菜の肩を支えながら優しくそう聞いてきた。陽菜はその声に少し顔を上げただけでなんの反応も示さない。

「ビジネスホテルでも構いませんが、そうなったらホテルまで送らせてくださいね。心配ですので……」

「……はい」

 よほどショックだったのか、陽菜の声は掻き消えそうなほどに小さく弱々しかった。

「とりあえず荷物は取りに行かないとですね。一度マンションに帰りますが、大丈夫ですか?」

 その言葉に陽菜は小さく頷く。

 時刻は深夜の二時を回っていた。

 

◆◇◆


 警察が去った後の陽菜の部屋はやはり乱雑としていた。開け放たれた引き出しも、床に投げ出された衣服や小物の類いもそのままだ。部屋に置き忘れた携帯電話を見れば、連絡を受けた大家さんからの着信で埋め尽くされていている。

 今日はもう遅いので電話は明日しようと決めて陽菜はボストンバックに服や化粧品など、必要なものを詰め込んでいく。ある程度必要なものを詰め込んで、陽菜は鞄を肩にかけた。

 立ち上がり部屋を見渡すと、じわりと涙腺が緩んでくる。背中に這い上がってくる悪寒に身体を震わせれば、耳から落ちた髪の毛の束でさえも恐ろしく感じられた。

 こんな状態の部屋に一秒でも居たくなくて、陽菜は急いで踵を返した。部屋の外では長谷川が待っていてくれているはずである。

 そんな時、ポケットの中からけたたましい電子音が鳴り響いた。その音が携帯電話から出ているものだと理解する前に、陽菜は小さく叫び声を上げ、尻餅をついた。思わず自らを守るように両手で身体を抱きしめると、慌てたような長谷川が玄関から飛び込んできた。

「大丈夫ですかっ! って、……携帯?」

「あ、はい。ちょっと驚いてしまって……ごめんなさい……」

 その場に座ったまま謝る陽菜の頭を撫でて、長谷川は安心したように一息ついた。陽菜はポケットの中の携帯電話を取り出すと、名前を見て目を瞬かせた。

「……ヒデ君……?」

 着信画面には確かに彼の名前があった。別れてから連絡が来るのは初めてのことである。

 陽菜は先日のコンビニでの別れを思い出しながら恐る恐る通話ボタンを押す。すると、耳朶に響いたのは付き合っていた頃と変わらない、いつもの彼の明るい声だった。

『お、つながった。番号は変えられてないみたいでよかったー! やっほー! 陽菜、元気にしてるか? 夜遅くにごめんな。一人で飲んでたらちょっと声聞きたくなっちゃってさ。あと、この前のこと謝りたかったし……』

 その声に陽菜は一つ「うん」と返事をする。すると、電話口の彼は伺うような声を出した。

『ん、なんか元気ないな? 大丈夫か?』

「いや、なんかちょっといろいろあって……」

『いろいろって……なんかあったのか? 俺が手伝えることってあるか?』

 電話口の必死そうな声に陽菜は困ったように頬を掻く。

「大丈夫、ちょっと取り込んでるだけだから。心配してくれてありがと。……もう今日は切るね」

『俺っ、今からそっち行く! 丁度近くで飲んでたんだ!』

 食い下がってくる元彼に陽菜は一つだけため息をついた。正直、今は彼に会いたいと思えない。

「本当に大丈夫だから。じゃ、切るね」

『あっ! まって、まって!』

「……なに?」

 少しだけ苛ついた口調でそう言えば、手のひらからすっと携帯電話が消えた。抜き取られた携帯を目で追えば、長谷川が通話終了ボタンを押したところだった。

「こんな時間に電話してくるんなんて非常識な男ですね」

 どこか苛ついているような口調に陽菜は首を折る。長谷川はそんな陽菜を立たせて、彼女の肩から荷物を奪った。

「先ほど確認したんですが、駅前のビジネスホテルが一部屋だけ空いているそうですよ? 電話で予約も出来るみたいですがどうしますか?」

「……お願いします」

 そう言うと、長谷川は手早く予約を取ってくれる。そして、そのまま二人でタクシーに乗り込みホテルを目指すのだった。


◆◇◆


 着いたホテルはビジネスホテルにしてはとても広くて落ち着いた内装だった。最近建てられたばかりだからだろうか、部屋の隅々にまで掃除が行き届いていて、とても清潔で綺麗な印象を受ける。

 長谷川は陽菜をホテルの部屋まで送り届けると、備え付けのダブルベッドに彼女の荷物を置いた。

「まぁ、今後のことは追々考えていきましょう。片付けや手続きなどは俺も手伝いますから一人で抱え込まないようにしてくださいね」

 長谷川の大きな手が陽菜の頭を撫でる。その手の温かさがじんわりと胸に迫ってきて、陽菜は少しだけ泣きそうになった。

 あの荒れ果てた部屋から離れて、やっと緊張が解れたのだろう。鉛のような疲れがどっと肩にのし掛かってくるようだった。

「とりあえず、今日はゆっくり休んでください。明日、迎えに来ます」

 そう言って、長谷川はゆっくりドアの方へ向かう。そして、扉を開けると陽菜に向き合った。

「何かあれば携帯に。すぐ駆けつけますから……。では、俺はこれで……」

「はい、ありがとうございます」

 そう言って、陽菜は頭を下げた。しかし、目の前の長谷川は去る気配を見せない。むしろ困ったように眉を下げている。

「やはり心細いんですか?」

「え?」

「そのままでは、帰れないんですが……」

 長谷川が視線を降ろした先には陽菜の手があった。その手は長谷川のシャツをぐっと掴んでいる。

 その無意識の行為に陽菜は赤くなりながら飛び上がった。そして、慌てて手を離す。

「ごめんなさいっ!」

「いえ、構いませんよ」

 そう言いながら、長谷川はもう一度部屋の中に入り、後ろ手でドアを閉めた。

「今日は眠るまで一緒に居ますよ。こんな状態の君を残して帰ろうとして、すみませんでした」

 長谷川は陽菜の頬を手の背で撫でる。節の張った大きな手のごつごつとした感触に何故か少しだけ安心した。

「……いいんですか?」

「別に俺はこのまま一緒に泊まっても良いぐらいですよ?」

「えっ……」

「……でも、それでは君が落ち着かないでしょう? こんなことがあった日ぐらい、甘えてください。俺は君が寝るのを見守ってから帰りますから」

 陽菜はそんな彼の優しさに赤らんだ顔のまま一つ頷いた。


 陽菜がシャワーから出てくれば、長谷川はベッドに腰掛けて壁に寄りかかりながら瞳を閉じていた。陽菜はそっと長谷川に近づくと、その顔をのぞき見る。

 その顔は相変わらず端正な作りだったが、少しだけ疲れているように見えた。

「……あぁ、出てきてたんですね。すいません、少しうとうとしていました」

 目を覚ました長谷川は首を鳴らしながら、壁から背を離す。やはりその顔はどこか疲弊してるように見える。

「いえ、私は大丈夫です。それより長谷川さんの方が大丈夫ですか? 今日だって仕事で疲れてるのに、私がこんなことに巻き込んじゃったから……」

「君が気にする必要は何も無いですよ。それでは、寝ましょうか?」

 長谷川は陽菜をベッドに横たわらせると、その縁に腰掛けた。前髪を透かれて、額を撫でる。

 まるで子供の頃に戻ったような感覚に眠気が足下から這い上がってくる。その眠気に陽菜が身を任せると、視界の隅で長谷川があくびをかみ殺してるのが一瞬見て取れた。時刻はもう三時をとっくに回っている。眠くない方がおかしいのだ。

「今日、一緒に寝ませんか?」

 長谷川の手を握り、陽菜はそう口走っていた。






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