第4話

「……おじゃまします」

「どうぞ」

 結局、陽菜が選んだのは長谷川の部屋だった。この財布の残金で泊まれるホテルは無いし、友人に助けを頼もうにも携帯電話は無くしてしまっている。公衆電話ならどこかに連絡は取れるだろうが、陽菜が現在覚えている番号は田舎の実家と公的機関に通じる三桁ぐらいだ。正直、何の助けにもならない。

 野宿よりはましだろうと、陽菜はそんな思いで部屋の敷居を跨いだ。

 そして、目の前の光景に息を飲む。

「うっわ……何この部屋……」

「どうかしましたか?」

 扉の鍵を閉めながら長谷川は澄ました顔でそう言う。陽菜は玄関で自分の部屋と同じ間取りを眺めながら目を瞬かせた。

 黒と白で統一された部屋には最低限の家具しか置いていない。低めのセンターテーブルに二人掛けのソファ。その向かいの壁には薄型テレビが掛かっている。そして、奥にはベッド。目に見えるものはたったそれだけだ。今日引っ越してきたにもかかわらず、段ボールなんてものは見当たらない。

 その辺のモデルルームの方がよほど生活感があるかもしれないその部屋に、陽菜は思わず自分の部屋を思い浮かべた。

(月とすっぽん、いいや、月とミジンコぐらいの差があるわね……)

「ソファにでも掛けててください。何か飲み物でも用意しましょう」

「あ、はい……」

 そのまま言われるがままに部屋に入り、陽菜はソファに座った。その瞬間、シトラス系のコロンの香りがふわりと鼻孔を掠める。次いで、ほんのりと甘い香りがした。

「突然だったのでこんな物しか出せませんが……」

 そう言って長谷川は机の上にほっとミルクを置く。甘い香りの正体はそのミルクに入っている蜂蜜だろう。陽菜はそのマグカップと長谷川を見比べて「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。

「部屋の鍵の件は明日の朝、管理人に連絡しましょう。携帯電話の方は俺の携帯電話を貸しますから、今すぐキャリアの方に連絡を取って対策をしてもらってください。それと、他になくなった物がないかどうかのチェックも忘れずに」

「……優しい……」

「は?」

「長谷川さんが優しいなんて天変地異の前触れですか!? 絶対に嫌みかお小言食らうと思ってたのに!」

 そう言ってしまってからはっとした。これは助けて貰った恩人に対して、あんまりな物言いではないだろうか。陽菜はあわててフォローを入れようとするが、その前に長谷川が言葉を発した。

「『お小言』ご希望ですか? それならご希望に添えるようにがんばりますが……」

「いやいやいや! 頑張らなくても良いです! ただ、びっくりしてただけですから! 何というか……本当にありがとうございます!」

 陽菜は深々と頭を下げる。正直、本当に助かった。あのまま長谷川に会わなかったら、陽菜はきっと玄関の前で夜を明かしていただろう。まだ比較的暖かい日もあるが、暦の上ではもう冬だ。玄関の前で夜を明かすのは厳しい気温だろう。

「お礼は良いですから、早く連絡と確認を済ませてください」

「はい」

 陽菜は短く返事をして指示されたことをこなす。そして全てが終わった頃、ちょうど良く長谷川が声をかけてきた。

「シャワーどうぞ。着替えは俺の物ですが、洗濯機の上に置いてあるので、それを使ってください。下着は流石に換えがないのでそのままになりますが」

「シャワー……」

 陽菜はその場でピタリと固まった。確かにありがたいお申し出なのだが、……なんというか、とても恥ずかしい。

 すごく今更なのだが、付き合ってもいない男の部屋でシャワーを浴びるという行為に尻込みをしている自分がいる。

 陽菜が黙ったまま固まっていると、その様子を見かねた長谷川が片眉を上げて伺うような声を出した。

「入らないんですか?」

「いや、そう言うわけでは……」

 陽菜は気まずそうにそう言葉を濁す。そんな彼女を見て長谷川はしばらく難しい顔をした後、何かに思い至ったように声を上げた。

「あぁ、大丈夫ですよ。俺は現在君に全く欲情しませんから。安心してシャワーを浴びてきてください」

「なっ!」

「前も言ったでしょう。俺の理想はもう少しバストが大きくて、ウエストが……」

「最っ低――!!」

 そう怒鳴ると、陽菜はまるで逃げ込むように脱衣所に入り、勢いよく扉を閉めたのだった。


◆◇◆


「シャワーありがとうございました」

 数十分後、陽菜はぶすっとした顔で脱衣所から出てきた。男物のパジャマの上下を着て、袖と裾は三回程度折っている。その陽菜の様子を見て、長谷川は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

「君は、思ったよりも小さいんですね」

「いや、長谷川さんが大きいんでしょう? 結構ノッポですよね? 何センチあるんですか?」

「大した事ありませんよ。一八二センチぐらいです。それにしても、もう少し大きなイメージがありましたが……」

 長谷川はそう言いながら陽菜の姿を上から下まで一通り眺める。その視線に陽菜は居心地が悪そうにそっぽを向いた。

「普段はヒールを履いてるんで大きく見えるのかもしれないですね。またアレですか? 君は俺の理想とはかけ離れて――……ですか? 別に良いですよ。長谷川さんの理想になりたいとは思わないん……」

「いいえ」

「?」

「確かに今までは少し高めの身長が理想でしたが、これはこれで良いですね。とても可愛いですよ」

「は!?」

 思わず声が裏返る。長谷川は少しだけ口の端を引き上げると淡く微笑んだ。

「俺のパジャマを着てる姿も良いですね。今までは自分のシャツを着ている女性を良いという男性の感覚がよくわかりませんでしたが、これは見識を改めないといけません。とても庇護欲をそそられます」

「…………」

「では、俺もシャワーを浴びてきますので、君はそこでゆっくりしていてください。テレビのリモコンはテーブルの上にありますので……」

 思いも寄らず鉄仮面の笑顔をみた陽菜は、シャワー室から水音が聞こえるまで、その場に固まって動けなくなったのだった。

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