悪魔の二択

さじみやモテツ(昼月)(鮫恋海豚)

第1話 悪夢の始まり




 二十一時前、谷村良平は中規模スーパーマーケットの二階にある更衣室で帰り支度をしていた。制服からラフな普段着に着替え、最後に長方形のビジネスバッグを取り上げてから、ロッカーのドアを閉めた。無精ひげすら生えていないすっきりとした顔立ちと真っ直ぐに延びる背筋が、四十を越えた年齢よりも若さを見せつける。

 くの字に曲がる短い階段を下りて一階へ向かう。事務所で商品の在庫調整に四苦八苦している若手社員や、店内で閉店作業を始めているアルバイトに声を掛けて店を出た。駅に向かいながら携帯電話を確認する。何の通知も届いておらず、ポケットに閉まった。

 五分ほど歩き、帰宅ラッシュの真っ只中にある地下鉄に乗り込む。肩を狭めて携帯のニュースアプリを開き、世の中で起こった出来事を眺めながら電車内を過ごした。

 

 東京市内にある目的の駅に着き、電車を降りる。人で溢れる改札を通ってから、再び携帯電話を取り出して耳に当てた。何度かコール音が鳴り、通話が繋がる。

「もしもし、ママ、今駅に着いたんだけど」

「あっ、お疲れさまです、谷村さん」陽気な口調の男が電話に出た。その声と抑揚は十分な若さを持っている。

 電話の相手に、良平は怪訝な表情を浮かべた。駅の敷地を出た辺りで足を止め、会話を続ける。

「お疲れ、さまです」

「お仕事終わりましたか?」笑みさえ浮かべていそうな口調で、電話口の男は訊いた。

「えぇ、終わりましたけど……すみません、声だけではどなたか分からなくて」笑みの無い苦笑いを浮かべた。

「そうですよね、僕はね、あぁ、どうしようか、名前考えていませんでしたね。こんなに準備したのに初歩的なミスです」男はそういって笑った。

 良平の喉が波を打った。表情は険しくなっていく。

「あの、妻は? すみません、とりあえず代わって頂けませんか?」丁寧に訊いた。

「ちょっと待って下さいよ。あのね、僕の名前ね、ゴウダタケシ、どうですか?」ハハハ、と男は自身の言葉に笑ったようだった。

「妻に、代わって下さい」声を押さえ込んだ口調で伝える。表情には強い不安が浮かんだ。

「じゃあこんなのはどうですか、キテ、エイイチ。キテレツって呼んで下さい。僕ね、昔から藤子・F先生の作品が好きでね――」

「妻に代わって下さいっ」良平は怒鳴った。携帯を持つ手が震える。周囲を歩くたくさんの足並みが一瞬だけ止まり、すぐに動き出す。誰もが迷惑そうな顔を浮かべていた。

「落ち着いて下さい。奥さんも子供たちも無事ですから。でね、僕は昔から藤子先生の作品が好きで、良く読んでたんですよ。だからそれから名前を取ろうと思って。どうですかね?」

「お願いです……妻に代わって下さい」懇願するような口調と表情になっている。

「あまりお気に召しませんかね? じゃあもう少し考えます。とりあえず今どこですか?」

「お願いします……妻と子供に――」

「今はどこだってっ」男は急に怒鳴った。

 良平の息が荒くなる。口元を震わせながら、ゆっくりと答える。

「今は……駅前です」

「いや、怒鳴ってすみません。あの、僕もね、まだあんまり自分を制御出来なくて困ってるんですよ」男の口調は陽気に戻る。「僕がこうなっちゃったのは最近でね、いや、楽しい事は楽しいんだけど、ちょっとまだ感情のコントロールが上手くいかないというか、谷村さんと電話で話すのあんなに楽しみしてたのにね、怒鳴っちゃうし、ほんとすみません」

 良平は黙ったまま携帯を耳に当てている。混乱した呼吸だけが、音を立てていた。

「それで、駅前でしたよね。マンションから最寄りのですか? スーパーの最寄りですか? あぁ、そう言えば駅に着いたって言ってましたね。じゃあとりあえず家に帰ってもう一回電話して下さい。ほら、駅前で長話してもあれじゃないですか。僕も谷村さんと色々話したいし、谷村さんも僕と話したいと思うし。聞いてます?」

「妻と、子供達の声を……聞かせてくれませんか?」震える口調で絞り出した。

 男は電話口で笑う。

「じゃあそうですね、谷村さん、最初の二択です。このまま会話を続けて綺麗な奥さんと可愛いらしい双子のお子さんを僕に殺されるか、すぐに家に帰るか、どっちにしますか?」

 良平の視線が宙を惑う。口を開いたが、言葉は出てこなかった。電話口の男は返事を待っている。良平は唾を飲み込んで、どうにか言葉を発した。

「か、帰ります」 

「じゃあ、お電話お待ちしています。あっ、それと、こんな事言うのはなんかあんまりなんですけど、一応というか、そんなもん分かってるよ、って谷村さんに怒られちゃうかもしれませんけど、警察とか他の人に言わないで下さいね。家族を誘拐されたって。じゃあ、家に着いてから電話して下さい」

 良平の身体は固まっていた。まるで凍り付いた様に、視線すら一点を見つめたまま動かない。

「もしもし?」男が問いかける。

 その声に、良平の目線が揺れた。

「あ、あの――」

「あぁ、そうかそうか、いやね、前の僕は結構気を使う方だったんで、自分から電話とか切れるタイプじゃなかったんですよ。まぁそうですよね、この状況で谷村さんから切れるわけ無いですよね。じゃあ、また電話して下さい。僕から切りますね、じゃあ、それでは、はい」

 硬直している良平を置き去りにして、携帯からは通話の遮断音が流れた。その音をしばらく聞いてから、携帯をゆっくりと耳から離して、目の前に持ってくる。通話履歴の一番上には、ママ、と表示されていた。

 震える指を画面に近づけて、その間際で動きを止めた。急に忙しなく周囲を見渡す。表情が泣き出しそうに険しく歪んだ。携帯をポケットに閉まって、歩き出した。その歩みは沸き上がる混乱を表すかのように早くなっていき、信号を渡って走り出した。 


  

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