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「設定リセットをタップしてください」 巧のスマホの取扱説明書より。




 播但連絡道路ばんたんれんらくどうろはまだマシだった。朝来南あさくみなみで国道に入った途端、道幅は片側一車線。それも片側は山の側面で雪が多量に積もった木々の枝がちゃんと伐採されていない所為せいなのか道に著しく覆いかぶさっている、もう片側は急峻な崖で下は、相当高さがあり大きな岩がゴロゴロしている沢だ。ガードレールだけがギリギリ救いとなっている。

 国道はまたの名、"酷道こくどう"ともいう。

 なにより雪がひどくなった。もう猛吹雪と言ってもいい。ワイパーは辛うじて正面の視界を少し変わった"扇形"に確保していて、フロントガラスの両側にものすごく大きな雪だまりを機械と自然環境のコラボで製作している。ドアミラーにも多量の雪が付着しただの突起物となっているが、車を止めてドアーを開け、ミラーを拭く気になど到底なれない。

 デフロスターが効かないのか、サイドのドアガラスは、車内温度と車外との温度差による曇りと走行中の外部に付着した雪でもうほとんど白い壁である。

 時刻はまだ午後三時過ぎのはずである。あたりは、山中ということもありもう夕方のそれである。

「今日中に着けなきゃ、遭難だな」

 巧は眠気を飛ばす目的も込めて、独りちて声に出してみるが、半分ぐらい本気である。

 なにより、たくみを不安にさせるのは、対向車が全く走って来ない事実だった。「こういうのをホワイトアウト、って言うんだな」

 もう一度、声に出す。そして、この不安がない混ぜになったドキドキ感も含めてスキーの楽しみなんだと自身を元気づける。

 カーラジオはどこに合わせても、もう雑音ばかりになったので、ついさっき切った。

 助手席には、この辺り一体の自動車道路のページを無理やり開いた道路地図が開きっぱなしになっている。

 もうこの辺の筈なのである。中古のCRVにはカー・ナビなどという上等なものはついていない。 

 確か、廃校になった小学校が目印なのだが、、。    

 目の前は、ハイビームで照らし出されたくっついた楕円形がふらふら。

「車止めて、一回地図ちゃんと見てみるか」

 そうまた、独りちた瞬間だった。

 ハイビームに照らされた目の前の雪の色が突然変化した。

 どす黒く。

 どす黒いなにかが居る。

 巧は、そう思うと慌てて思いっきりブレーキを踏み込んだ。中古のCRVは軋む音は雪にかき消され若干お尻を振りながら、完全にスリップしたまま、何十メートルも空走した。人生において車でスリップしたのは始めてだった。自分がコントロールし得る操作装置を握りながらコントロールできない乗り物に慣性だけで乗っているのはこれほどの恐怖とは思わなかった。車はまだ進んでいた。巧は、車を真っ直ぐに走らせるため、ハンドル操作をしていたが、何の助けにもならなかった。車は意思を持っているかのごとく、どす黒い物体に向けて走っていた。道路は直線だ。新雪が積もっているのでどうにか失速しつつある。そう思い、フロントグラスの先を見て、巧は驚愕した、みちがない、そうではなかった。国道はあったが、右へ大きくカーブしていた。カーブの外側、国道の左手は、崖になっていて深い沢である。そしてなにより、巧を焦らせたのはカーブの外側にガードレールがなかったことだ。それも切り取ったように、カーブの頂点だけガードレールがなかった。巧はギアを下げ、エンジン・ブレーキをかけるべきか、サイド・ブレーキを引くべきか、頭のなかでグルグル手順が回った。結局、サイド・ブレーキはひかなかった。カー・スタントでスピンさせるときにサイドブレーキを使うと知っていたからだ。そして車は新雪を侵しながらノロノロと徐行しながら走った、どす黒いなにかはもうCRVで轢いていた。そしてどんどん迫ってくるガードレールのない道路の切れ目が崖とともに迫ってくる。

「とまれ」思わず巧は叫んだ。

 巧は車はノロノロの徐行だ、一瞬、ドアを開け、車から飛び降りることも考えた。

 あと5メートル、あと2メートル。

 巧みはハンドルを右へいっぱいに切った。

 タイヤは右を向いていたが、車はノロノロと直進していた。

 ダメだ。

 そう思い、目をつぶりハンドルにつっぷした。瞬間、がくんと車が左側に傾き、とまった。

 左の前輪だけ、脱輪して、そのせいでとまったのだ。

 巧みは、ガンガンにヒーターを入れているのにもかかわらず背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 ほんのもう少し速度を出していたら、積もったばかりの新雪がなくアイスバーンだったら、誰も通らぬ山奥で崖の下の岩だらけの沢に落下し大事故になっていたかもしれない。

 低いエンジン音とワイパーが稼働する音だけがは静かにいつもと同じように車内に響いていた。

 どうにか自損事故で済んだのだ。

 

 どす黒く変わった雪の色の正体は、夕方になり長く伸びた廃校になった小学校の鈍いかげだった。

 巧は、唾を飲もうとしたが、喉がカラカラだった。しかし、どうにかのどを落ち着かせ息を整えると、エンジンを掛けたまま、ハザードを付けゆっくりと息を吸い大きく息を吐いた。

 巧は落ち着きたかった。家族に連絡しなければと思った。妻、美咲みさきの機嫌が悪くなると思い、連絡は若市やましたスキー場にある宿泊所に落ち着いてからでいいと思っていた。しかし、今は、脱輪してカーブで落ちついてしまった。家族に連絡するため、本心をいえば、妻の声を聴くため、ポケットからスマホを出すといつもの慣れた手つきで電話を掛けた。

 つながらない。

 確かめるのに1秒とかからなかった。

 圏外だった。もちろん、Wifiもアウト。

 信じられない。

 播但連絡道路からほんのすこし山の方へ入っただけだぞ。ここより奥にあるスキー場ではスマホが使えないのか!。 

 巧は、スマホを助手席に投げ出した。

 そしてダウンジャケットのファスナーをゆっくり上まであげ、車のドアを開けた。

 車外は別世界だった。

 風雪は舞っておらず、たけり狂っていた。

 異世界だった。

 寒さが、寒さでなく、痛みとして直に外気にさらしている顔と素手に襲い掛かってきた。

 巧はあまりの寒さに、震え上がり、突然尿意を覚えた。ちょうどいい、このカーブにはガードレールがないのだ、思いっきり放尿してやれ、

 そして、ジーパンのチャックを下ろし急いで用を足そうとしたとき、一台の車が、崖の下に存在することに気付いた。

 正確には、車の形をした雪の吹き溜まりだが。雪の積もり具合から、何シーズンもの冬を越えた車の残骸に見えた。

 巧は、その哀れな吹き溜まりを避けて用を足した。

 それと同時に、自分が崖の下の別の四角い巨大なものに尿をかけたことに気付いた。

 巧が今尿をかけたものは、古くどこもかしこもが錆びついた看板だった。看板にはこう書いてある。

 "若市やましたスキー場"

 夕方が迫り、あたりは、急激に暗さをましていた。

 しかし、間違いない。"若市やましたスキー場"と書いてある。

 巧は、振り返ると山肌には、木造の廃校がそそり建っていた。

 恐ろしく寒い。これからどんどん気温は下がっていくはずだ。そうスキーが出来るぐらいに。雪はどんどん酷くなるようだ。そうスキーが出来るぐらいに。

 巧は急いで車内に戻った。しかし、車はもう走れない。

 気がついたら、もう外は真っ暗だった。助手席に投げ出したスマホで時間を確認する。

 まだ、夕方の五時前だ。 

 巧は、エンジンを掛けたまま、一晩過ごすか、この吹雪の中、スキー場を探しに行くか、思案しているときに右のサイトグラスに何か発見した。

 そこには、尿をかけた看板より小さくてもっと酷く痛んだ看板が杉の木にくくりつけてあった。

 その看板には、"場ーキスたしまや市若"と汚いがしっかりと読めれる文字で手描きで書かれていた。

 書かれている文字の向きは、なぜか右から左へ。

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