しろいもん(3/4)

「しろいもんって、海から来るって言ったでしょう……」


 トンネルに入った途端、辺りは夜のように真っ暗になった。幅が車一台分しかない、細いトンネルだ。緩くカーブしているため、出口は見えない。電灯は一つおきにぼんやりとしかついておらず、入った途端になぜかここから出られないのではないかという焦燥に駆られ、尻がむずむずする。若海は努めて規則正しい呼吸を繰り返した。そうでもしないと、闇に溺れてしまいそうだった。


「私、若海くんの話を聞いて考えたの。ひいおじいさんが話してたっていう生け贄の話よ。龍神様に捧げるっていう」


 ああ、上の空で頷くと、沙耶は勢い込んで話し始めた。


「海ってすごく豊かな感じがするじゃない? 一年中お魚が獲れて、食べ物に困らなくって……それも北なら別でしょうけど、高知って南国のイメージだし、何となくのんびり暮らせるんじゃないかって感じがして。でも調べてみたら、実際はそうじゃなかったらしいの。夏枯れ、って聞いたことない?」


 問われ、被りを振る。そう、と少し不満げに沙耶が口を尖らせる。


「ここらへんの海って、夏サバが終わると、秋に下りガツオが来るまで、魚が獲れなくなるんだって。それを海が枯れるって言うらしいんだけど……夏枯れが始まると魚は獲れないし、その上、夏は台風も来るでしょう? だから本当に貧しくなって、あんまり貧しいものだから、娘がいる家はその娘を料亭に売ることもあったんだって」


 憤慨したように沙耶が言う。


「だから、龍神様への生け贄っていうのも、本当にあった話なんだろうなって思って。それで……」


 言い淀む。


「……しろいもんは、その生け贄の人の幽霊だってこと?」

「私は幽霊なんて信じないって言ったでしょ」


 なぜか胸を張って沙耶は言った。


「幽霊っていうものは、人間の心が生み出すものなのよ。人間の――生け贄に対するうしろめたさとか、恐ろしいような気持ちとかがね。だから……しろいもんっていうのも、そういう気持ちが生み出したものだと思うの。海に捧げた生け贄が、自分たちを恨んでるんじゃないかって気持ちが」


 一人の犠牲で集落が助かる――そう信じてはいても、生け贄への罪悪感は消えない。その罪悪感がしろいもんという形となって、いまも語り継がれているのではないか。だから、しろいもんは生きている人間を恨み、連れて行くという構造が成り立ったのではないか――理論立った沙耶の説明を聞いているうちに、若海はふとあることを思い出した。


「そういえば、昔、しろい団子っていうのがあったって聞いたことが……」

「白い団子?」

「いや、『白い』じゃなくて、でも、まあ確かに色は白かったような……」


 トンネルの暗闇がふっと途切れる。出口だ、そう思ってほっとしたとき、沙耶がサイドミラーを見てつぶやいた。


「あら、後ろ……」


 その声にバックミラーを見ると、白いライトがぼうっと映っていて――


「敏子さんかな?」


 集落へ婚約者を案内したい、という若海に、それなら用意をしておくから本家に泊まりなさいと勧めてくれたのは叔母だ。もしかしたら、何か必要なものを思い出して持ってきてくれたのかもしれない。


 健二――そのときまたどこからか彼を呼ぶような声が聞こえた、ような気がした。どことなく儚く、寂しげな声……。嫌だな――その声に気を取られ、若海はトンネルの先に視線を戻すのが遅れた。あっと思ったときには、突然目の前が白く開け、その先には海が――


「危ないっ!」


 急ブレーキを踏み込む。無我夢中でハンドルを切ると、がくがくと車体が揺れ、リアタイヤが悲鳴を上げて半円を描く。落ちる――頭の中が真っ白になり、一瞬気を失ったかのように時間が途切れる。


 しばらくして気がつくと、静かになった車内に心臓の音がどっどと響いていた。閉じたつもりのないまぶたを開けると、いつのまにか沙耶の手が若海と同じハンドルを握っている。


「……大丈夫?」

「……うん」


 沙耶が止めていた息を小刻みに吐き出す。


「怖かった……」

「ごめん」


 謝りながら、いまさらながらにがくがくと足が震えた。ちらと助手席の窓を見ると、崖側にガードレールはなく、そのまま飛び出していたら、確実に命はなかったことがわかる。


「ごめん、私が変なこと言ったから」

「沙耶のせいじゃないよ」


 若海はドアを開け、外に出た。山の湿気と、突き刺すような冷気、それから懐かしい匂いが体を包み込む。


「海だ」


 思わず若海はつぶやいた。真夏の日差しを受けて、海がきらきらと輝いていた。波打ち際には明るい青が、沖にはその明度をなくした昏い青――黒潮だ。


「あそこが若海集落?」


 隣に立ち、崖下を覗き込んだ沙耶が評した。


「イワツバメの巣みたいな家ね」

「確かに」


 湾の緩いカーブに沿った切り立った崖に、家々が張りつくように並んでいる。若海は深呼吸をして振り返り、不気味な口を開けたトンネルを、改めて見つめた。


 危険きわまりないことに、トンネルの出口は急カーブを描いていた。これでは、道を知らない者は事故を起こすに違いない。


「ったく、危ないなあ……」


 文句を言って、車に戻ろうとした若海ははっと息を呑んだ。トンネルの脇に、通行禁止のロープの張られた道がある。旧道だ。つまり、ここは旧道と新道の交わった場所。まさか――嫌な予感に振り返り、もう一度崖側を覗き込む。


「こんなこと言いたくないんだけど……」


 蒼白な顔で崖下を見下ろす若海に、沙耶がおずおずと言った。「車、全然来ないわよね? さっきバックミラーに映ったのに……」


「俺も、こんなこと言いたくないんだけどさ」


 若海はごくりと喉を鳴らし、困ったような表情でつぶやいた。


「ここ、親父の車が落ちた場所なんだ」


      *


 真夏の海といえば、海の水は温く、海水浴やマリンスポーツに最適であり、ましてや大学生が恋人と行く海ならば、ロマンチックな雰囲気が漂わないほうがおかしいくらいのものである。けれど、浜へ続く石段の上から海を眺める若海の心は、浮つくどころか、底なし沼にずぶずぶと沈んでいくようであった。


 両親の事故現場でスピンしたという恐怖は、すぐに抜けるものではなかった。それに、トンネルを出る瞬間に聞こえた若海を呼ぶ声、バックミラーに映った正体不明の光……。


 ひゅうう、風が集落を吹き抜けた。健二――そんな中にも呼び声を聞いたような気がして、若海はぶるぶると首を振る。しろいもんの正体は、生け贄という忌まわしい習慣への罪悪感の産物だ――沙耶の理屈はなるほど納得のいくものだった。納得がいくだけではなく、きっとそれが正しいのだろう。


 幽霊など存在しない――ビルの建ち並ぶ東京では、若海もそう言い切ることができただろう。しかし、人工物と言えば無人の家々しかない大自然の前に立つと、頭で考えた理屈などひどくちっぽけなものにしか思えないのだった。


「用意、できたよ」


 墓に供える花と手みやげの菓子を持った沙耶が玄関から出てくる。


「何見てるの?」

「いや……懐かしいなと思って」

「すごい景色よね。こんないいところなのに、誰も住んでないなんてもったいないわ。リゾート地として売れるわよ。全戸オーシャンビュー! って謳い文句で」


 若海は曖昧に笑い、墓へ向かって歩き出す。その後ろから沙耶も楽しそうに歩き出し――あれ、とつぶやいた。


「いま、あそこに誰かいたような……」

「どこ?」


 立ち止まった沙耶が、岩場の脇に立つ粗末な小屋を指した。


「あの小屋のところで何か動いたような……。あそこは何なの?」

「あれは漁師道具を仕舞っておく漁師小屋だよ。いまは空っぽで、龍神様のお守りなんかが祀ってあるけど」


 若海も目を凝らしたが、浜に打ちつける波のほかは、動くものは見て取れない。


「残念。お化けじゃなかったみたい」


 それにまだ夕暮れじゃないしね、と沙耶はいたずらっぽく笑う。どうやら先ほどの出来事も、彼女には堪えていないらしい。


「都会の人には負けるよ」


 あっさり白旗を上げて、若海は再び歩き出した。彼には生々しく感じられる恐ろしいものを、ドライに受け流す彼女の存在は、男として情けないながらも心強かった。姉がいなくなり、両親がいなくなり、心にぽっかりと空いた穴を、沙耶の明るさが埋めてくれるような気がしていた。


 墓地は集落の外れの高台にある。石段を登り切ると、そこからは獣道のような細い道がついていて周囲の草は短く刈られている。ここも敏子が管理をしているのだろう。頭が下がる思いで先へ行くと、


「あ、あそこね」


 ひんやりとした空気が二人を迎えた。太い杉に囲まれた墓地には、角の欠けた柱のような石が何本も並び、死者の名を刻んでいる。


「すごい、みんな若海って苗字なのね」


 石柱に彫られた名を見て、沙耶が声を上げる。


「あ、でもこっちの大きなお墓は違うのね」

「そっちは本家の墓だよ。うちのはこっち」


 若海はまだ新しく見える石柱の前に立った。


「これが姉貴で、こっちが父親。それからこれが母親。……こちらが江本沙耶さん。大学卒業したら、結婚しようと思ってる」


 物言わぬ石たちと沙耶を引き合わせる。沙耶が手を合わせ、ゆっくりとお辞儀をした。


「初めまして。江本沙耶です」


 小さくつぶやき、その後は目を閉じてじっとしている。会ったことのない若海の家族に祈りを捧げているのだろう。


 姉ちゃん、親父、母さん――若海も手を合わせ、黙祷した。俺、この人と結婚します。きっと彼女を幸せにします。見守っていてください。


 墓に結婚の報告なんて必要ない――そう思っていた若海だったが、報告を終えるとなぜかほっとした。亡くなった家族に、沙耶との関係が認められた、そんな気がしたのだ。


 と、そのとき、ざざざと杉が揺れた。太陽が一瞬、雲隠れしたように辺りは暗くなり、空気が一段と冷ややかになる。海を背景に立ち並んだ木々が真っ黒く映え――健二――小さく小さくそう呼ぶ声が聞こえた。いままでのように気のせいではなく、確かに耳に聞こえたのだ。寂しそうな、辛そうな声だった。


「何か寒くなってきたね」


 若海がぎょっと固まっていると、いつのまにか祈りを終えたらしい沙耶が、鳥肌の立った腕を彼に巻き付けてきた。


「カーディガン、持ってくればよかった」

「早く帰ろう」


 若海がそう言って踵を返したときだった。目の端に、一輪の花が映った。来たときには気がつかなかったが、元から咲いていたのだろうか。しかし、その花は――


「……しろい花だ」


 記憶から、言葉がぽろりとこぼれ落ちる。若海の言葉に、沙耶が「白い?」と訝しげに言った。


「あ、あれ、彼岸花じゃない」


 そして驚いたような声を上げる。「まだ八月なのにどうして……」


 しろい花の……しろい団子……子供の頃の記憶が、封印を破くようにがたがたと持ち上がる。しかし、それを思い出す前に、墓のほうを振り返った若海は、叫びたい衝動を押し殺して、彼女の手をぎゅっと掴んだ。どうしたの、振り向いた彼女もこればかりはぎょっとした顔をして後ずさる。


 墓の周囲は、いつのまにか無数の彼岸花で埋め尽くされていた。まるで、朱い絨毯を敷き詰めたような、墓の下に埋まった死者たちに歓迎されているかのような、凄烈な朱。


 さすがに自失呆然と立ち尽くした沙耶のすぐ足元で、濡れたような朱色がぱっと開いた。


「いやっ……どうして……」


 びくりと沙耶が後ずさる。そして、息を詰めて墓地の入り口まで戻ると、泣き笑いのような顔をして若海を振り向いた。


「ねえ……これ……」


 若海は黙って指された集落の方向を見下ろした。見渡す限りの花の――そこは夕焼けのような朱に染まっていた。


「こんなの……初めて見たわ」

「俺もだよ」


 美しくも恐ろしいその光景を、二人は固唾を呑んで見つめた。海風に混じり、健二――再びたしかな呼び声がした。

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