硝子に凍る花になる(2/2)

「朝霧小夜子ぉ? だぁれ、それ?」


 真夜中過ぎに帰宅した母親は、酔って前後不覚という有様だった。新しい職場に勤め始めてからは、毎晩のことだった。そのたびに同僚だという若い女性が送ってくれるのだが、花音はその人が苦手だった。あの目の笑っていない微笑み。彼女も聖葵の卒業生なのだろう。


「毎日毎日、体に悪いよ。少しは断ったら?」

「なあに? あたしが呑んじゃいけないっていうの?」

「そうじゃないけど……」

「じゃあほっといてよ。ずうっとあんたの世話で、ろくろく遊べなかったんだからさぁ、大目に見てよ、これくらい」


 着替えもせず、ベッドに潜り込む。これが以前は優しかった母だろうか、花音はぎゅっと唇を噛み締める。そして踵を返すと、おやすみなさいも言わずに部屋を出ようとした。


「朝霧、小夜子、ねえ……」


 そのとき、半分眠りに落ちかけた母親がつぶやくように言った。知ってるの? 聞き返そうとした花音は、その次の言葉に戦慄した。


「お義姉さんは、自殺したって……ちょうど、あんたと同じ年の頃よ……」


 お義姉さんって、死んだお父さんのお姉さん? それがあたしと同じ年頃に自殺した? でも自殺って……?


 と、そのとき、花音は雷に打たれたように体を硬直させた。神庭桜。あの記憶のどこかに引っかかっていたあの名前。あれは――。


『――で葬儀が行われました。亡くなったのは神庭桜さん、十七歳で、当局は自殺とみて捜査を――』

『わ、カノン見た、いまの子? めっちゃ美人なのに、自殺なんてもったいない……』


 あれは転校が決まって、最後に絵理奈の家に泊まったときのことだ。雑誌をめくっていた花音は声に急いでテレビを振り向いたが、そのときにはニュースは終わっていた。


『神庭桜なんて、名前も美少女だよね』


 妙なところに絵理奈は感心して、二人は笑い合ったのだ。


 〈花〉のうち、二人が自殺している。これはどういうことなのだろう。まさか、絵理奈の言っていた『悪い噂』とは、このことなのだろうか。熟睡してしまった母親に毛布も掛けずに、花音はふらふらと部屋を出た。


      


「どうかなさったの、花音さん」


 授業が終わり、ふと気がつくと、桐子の切れ長の目に覗き込まれていた。寝不足と考えすぎで、ぼうっとしていたのを見抜かれたようで、花音はついごめんなさい、と謝った。なにせ、ここの生徒たちは授業中に居眠りなどするどころか、真っ直ぐな姿勢を崩しもしないのだ。


「あら、私に謝る必要なんてないわ」


 しかし、桐子は微笑んだ。


「ただ、しっかりなさってね。きっとおばあさまも、二人目の〈花〉を願っているはずよ」

「そのことだけど……」


 桐子からの言葉を手がかりとばかりに、花音は勢い込んだ。


「〈花〉ってどういう人がなるものなの?」

「〈花〉はものじゃなく、ものよ。あなたもご覧になったでしょう、あの写真の方々を。美しく、完璧な花だけが、永遠を得る権利があるの」

「権利?」

「そう、完璧な美しい姿のまま、この世に留まり続けることを」


 この世に留まる? 神庭桜は死んだんじゃないの? 花音が戸惑いは、すぐに桐子に知れた。彼女はすっと目を細めた。


「どうかなさった?」

「……いいえ」


 違和感を感じて教室を見回すと、クラスメイトたちが真っ直ぐにこちらを見つめていた。その視線に絡め取られたように、花音は息苦しくなった。


「あたし、朝霧小夜子のことを聞いたの」


 言わずにおこうと思っていた言葉が飛び出した。


「彼女はあたしのお父さんのお姉さんだったの。でも、若い頃に自殺したって……」

「それで?」


 まるで、その先があることを見通したかのように、桐子が促す。


「それで……」


 操られるように、口が開いた。言ってはいけない、そんな直感が働くが、なぜそんなふうに思うのかはわからなかった。


「神庭桜さん。その人も、自殺したんでしょう? 〈花〉の人よ。十数人中の二人が自殺してる。これって偶然なの?」

「偶然、そう答えたら、あなたは納得するのかしら」

「……しないかも」


 ごくり、喉が上下した。何かがおかしい。絵理奈の言う『悪い噂』以上のものが、ここにはびこっている。桐子は困ったように首をかしげた。


「なら、教えてあげるわ。〈花〉に選ばれた方々は、皆、亡くなった方よ……でね」


 計算式を解くように答えた桐子に、花音は却ってぞっとした。本当、質問にもならない声が口から漏れる。くすり、クラスメイトの誰かが笑う声がした。


「自殺しなくちゃ、選ばれないってこと?」

「それは少し違うわ」


 今度は桐子が微笑んだ。


「けど、安心して。あなたは朝霧小夜子のように選ばれることはないわ。第一、あなた、彼女にちっとも似ていない」

「朝霧小夜子を知っているの?」

「言ったでしょう。彼女は永遠にこの聖葵に留まっている。私たちは、彼女と共に毎日を過ごしているの」

「どういう意味?」


 わからずに、花音は聞いた。


「あの写真があるっていうこと? あんなものがあったって――」

「あんなもの?」


 桐子の口元から笑みが消えた。そうすると、真っ白な能面のような顔が現れた。これが本当の桐子の姿なのかも知れない、花音は思った。桐子はクラスメイトを指揮するように、片手を上げた。


「な、なに?」


 すると、何人かの生徒が花音に寄り添うようにしてどこかへ歩き出した。ぴたりと優しく、しかし有無を言わせないその様子に、花音は流されるように廊下を進んだ。どこにいるのか、桐子の声が聞こえた。


「私たちの美しさは、ここを出れば失われてしまう。陸の孤島とも呼ばれる聖葵は、そのまま聖域なのよ。十八までの、私たちが少女でいられる聖域」


 人波は廊下を曲がる。階段を上がる。窓の光がまぶしく目を刺す。


「ここが、聖域?」

「外の世界で生きてきたあなたにはわからないかもしれないわ。幼稚舎からこの閉じられた世界で生きてきた私たちの気持ちは」


 声は少し悲しげで、美しかった。花音はクラスメイトたちを見た。髪の長さまで揃えた彼女たちは〈少女〉の姿をしていたのだと、いま初めて気付いた。それは聖葵を出れば失われる、それも本当だと思った。


 桐子の声は続けた。


「だけど、私たちは失いたくないのよ。私たちが私たちであることを。私たちは閉じ込めてしまいたいの。この瞬間の美しい少女の姿を、それが完璧な方たちなら、なおさらね」


 突然、ドアが現れ、それが開くとあの硝子の額に収まった少女たちが目に入った。生徒会室だ。花音に寄り添っていたクラスメイトが離れ、そこに桐子が現れた。憐れむような視線で、花音を見つめた。


「……あなたたちが、殺したの?」


 花音は声を押し殺すように聞いた。


「完璧な少女を閉じ込めるために、朝霧小夜子を……神庭桜も、あなたたちが自殺に見せかけて殺したの?」

「美しく死ぬにはどうしたらいいか、知っている?」


 問いには答えず、桐子が言った。


「一酸化中毒による死よ。ほら、ときどきニュースでも聞くでしょう? 車を目張りして、練炭を焚いて……」


 滑らかな車輪の音がして振り向くと、部屋の奥の扉が開き、硝子張りの立方体が運び込まれた。大きな水槽のようなその中には、あれが練炭なのだろうか、黒いものが入っている。


「そうやって、私たちは〈花〉となるの」


 いつのまにか、傍らにいた桐子がささやいた。


「硝子の中に閉じ込められて、永遠に咲く花になるのよ」

「あたしも……殺す気?」


 花音は思わず後ずさった。がくがくと足が震える。祖母も二人目の〈花〉を欲しがっている、そんな桐子の言葉が蘇る。


「いま、朝霧家は大分苦しいらしいわね。あなたのお父様が、この土地から逃げ出し、お母様と結婚なさったからよ」


 じり、桐子が一歩近づく。それに合わせるように、花音ももう一歩後ずさった。


「だから、あたしを〈花〉にするの? そうしたら全部うまくいくから?」


 祖母が家のために孫の死を願っている? それは本当だろうか。けれど、あんな硝子の箱まで用意して、人殺しを続けてきたなんて、ここの人たちは気が狂ってるとしか思えない。


「……神庭桜さん」


 ふと、花音はつぶやいた。それから桐子の目を見つめる。らしくもなく、彼女の目の色がほんの少し揺らぐ。


「神庭さん。彼女はあなたの友達だったんでしょう?」


 神庭桜。その写真の名前を口にしたとき、桐子は涙をにじませていた。そこには、〈少女〉を閉じ込めたいという思いを上回るものがあったのだろう。読み通り、桐子は足を止めた。助かった、花音はそう思った。手には窓枠が触れている。これ以上近づかれたら、あの硝子の箱に入れられてしまっただろう。


 しかし、安心するのは早すぎたようだった。


「答えていない質問が三つあったわね」


 桐子は微笑んだ。そして、次の瞬間、驚くような早さで花音の腕を掴み上げた。


「一つは、私が桜を殺したのかという問い。――これは、いいえ、よ。桜は皆に見守られて、立派に〈花〉になったわ」


 強い力に、ぎりぎりと体が押される。さあっと強い風が窓から吹き抜ける。


「もう一つは、あなたを〈花〉にするのか、という問い。――これも残念ながら、いいえ、よ。あなたはそれにふさわしくない」

「や、やめて! これ以上――!」


 桐子の力が花音を押しやる。ふわり、体が宙に浮く――と思った瞬間、花音の体はまるで人形のようにコンクリートに向かって落下していった。刹那の後、ビタン、醜い音が響き、赤黒い染みが広がっていく。


「最後は、桜が私の友達だったか、という問いだけれど……」


 長い髪を風になびかせ、桐子はつぶやいた。それから小さく首を振ると、踵を返した。


「答えても意味がないわね。あなたにはもう聞こえないんだから」


 まるで何事も起こらなかったかのように、少女たちは流れるように部屋を出て行く。桐子が最後にドアを閉じる。冷たい青い硝子の中で、少女たちは花のように微笑み続けていた。


【硝子に凍る花になる――完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る