第36話 帰天

「ありがとうございます」

 宮子は桃の神に向かって頭を下げた。起き直り、寛斎に合図をする。


 寛斎が、鈴子に桃果を背負わせる。鈴子がしっかりと足を持ったところで、宮子は二人が離れないよう、法被はっぴの紐でくくりつけた。


「桃果」

 泰代が、鈴子の背にもたれて眠る桃果の頬をなでる。泣いてしまったら娘の顔が見えなくなると、必死で涙をこらえ、最後の姿を目に焼き付けている。


 その間に、寛斎が真言を唱え、印を結ぶ。

 向こう側に摂社せっしゃが見えていたはずの鳥居の間に、紗がかかり始める。境界をふさぐ千引石ちびきのいわを動かしているのだ。


「お姉ちゃん……」

 鈴子が不安そうに宮子を見る。

「大丈夫よ。桃果ちゃんをお願いね」

「うん。お姉ちゃんたちも、早く帰ってきてよ」


 鳥居の中が暗くなり、向こう側が見えなくなる。

「よし、通じた!」

 寛斎が印を結んだまま言う。額から滝のように汗を流している。


「桃果、元気でね」

 泣きながら言う泰代に、桃果の肩に座った桃の神が言った。

 ――よい名をつけたな。この娘は健やかに育つだろう。


「鈴子ちゃん、早く!」

 寛斎が叫ぶ。鈴子は、宮子と泰代に無言であいさつをした。

「行きます!」


 桃果を背負ったまま、鈴子が鳥居へ向かって突進する。土を蹴る音と息づかいが響く。鳥居の手前に来ると、鈴子はかけ声とともに、足を踏みきって勢いよく中へと飛び込んだ。


 鳥居の向こう側に出るはずの二人の体は、暗闇の中へと吸い込まれた。最後に桃果の背中があちらへ入り、見えなくなる。


「桃果!」

 後ろで、泰代の涙混じりの声が聞こえる。


 二人の姿が鳥居の中へ消えたのを確認すると、寛斎が印を解いた。とたんに、トンネルは消え、鳥居の間にやしろが見えた。


 寛斎が膝をつき、倒れ込むように地面に腰を下ろす。息づかいが荒く、汗がとめどなく流れている。

「大丈夫? すごい汗」

 宮子が駆け寄り、ポケットからハンカチを取り出す。

「千人の力で動かす岩ってだけあるな。さすがにきつかった。……すまない、少し休ませてくれ」

 ハンカチを受け取り、寛斎が目を閉じて呼吸を整えようとしている。かなりつらそうだ。


 鳥居の向こうを見つめたまま、泰代が涙を流している。

「泰代さん、ありがとうございました。つらい決断をさせてしまって、すみません」


 宮子は、ゆっくりと近づいた。

「神道では、人が亡くなることを、帰幽きゆうと言います。幽世かくりよ、神様の世界へ、行くのではなく帰るのです。……人はみんな死にます。そして、幽世かくりよへ帰るのです」


 泰代が指先で涙をぬぐう。

「じゃあ、あの子が帰ってくるまで何十年か、待つことにする」


 うなずいて、宮子は泰代のとなりに立った。三諸教本院の方角に向かって拝礼し、おごそかに唱える。


幽世かくりよの大神、あわれみ給い恵み給え。幸魂奇魂さきみたまくしみたま、守り給えさきわえ給え」


 泰代が手を合わせ、頭を垂れる。三度唱え終えると、宮子は二拝し、二拍手ではなく四拍手をした。幽世かくりよの大神である大国主命おおくにぬしのみことに拝礼するときの、出雲式の作法だ。最後に、ていねいに一拝する。


 頭をあげて姿勢を正すと、となりにいたはずの泰代がいなくなっていた。かすかに残る気配には、清々しさがある。


「……さっき、あがっていった」


 後ろで、寛斎が立ち上がりながら言う。

 宮子は空を仰いだ。高く青い空に、白銀の雲がたなびいている。

 泰代は無事、幽世かくりよの大神様の元へ行っただろうか。これでよかったのだろうか。考えると、鼻の奥がつんとし、目がうるんでくる。


「宮子」

 寛斎が近寄ってくる。今は悩んでいられない。もう一つ、解決しなければならないことがある。

「うん。……行こうか」

 宮子は無理に笑ってみせた。ハンカチを受け取り、ポケットにしまう。寛斎が、俺に気を遣うなと言いたげに、息を吐いてうなずく。


 どちらからともなく手をつなぐ。目を閉じて、稲崎のことを頭に描く。

 白く整った顔立ち、栗色の巻き毛、やわらかな口調、他人の言うことを笑顔で聞き流す壁の厚さ――。

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