第31話 脅迫

 水面に、無精ひげを生やし、目の下にくまができた稲崎が映る。シャツもよれよれで、襟が折れ曲がっている。以前とは別人だ。テーブルをはさんで、寛斎と向き合っている。


「密教には、死者を生き返らせる修法しゅうほうがあるって聞いたんだけど」


 稲崎の言葉に、水を飲もうとした寛斎の手が止まる。

「あることはありますが、単なる言い伝えです。本来仏教は、いかに執着をなくすか、ということを説いています。ことわりに反することは――」


「でも、古文書こもんじょには、調伏法ちょうぶくほうで政敵を呪い殺したり、増益法ぞうえきほうで巨万の富を得たり、という記述がよくあるよね」

 すわった目のまま、稲崎が唇だけで笑い、挑発的に言う。


「しょせん、人間は、自分の手の届く範囲のことが大事でしょ。遠くの国の戦争犠牲者より、ペットの死に涙を流す。誰だって、そんなもんです」

「……自分自身がいちばん大事、と認めるところから、すべては始まります。幸せになりたい、幸せになって欲しいと思う範囲を、自分から親しい人、友人、知人、知らない人と、少しずつ広げていくのが――」


「僕が訊きたいのは、そんなことじゃない」

 静かな、けれども有無を言わせない口調だ。


「死者を生き返らせる方法は、あるのかな?」


 稲崎の体に、黒いもやがまとわりついている。婚約者の死がきっかけでマイナスの感情が増幅しすぎ、悪いものを吸い寄せてしまったのだ。


「伝えられているよみがえりの法は、どれも非現実的なものです。失敗例も数多く残っています。残念ながら、効果はありません」

 寛斎が机の下で、そっと印契いんげいを組む。術を使って黒いもやを除こうとしているのだ。


「そうなんだ。じゃあ、死者とコンタクトを取る方法は?」

「イタコの口寄せや、霊能者による招魂しょうこんはありますが」


「君は、その儀式ができるのかな? 須藤君」


 本名を呼ばれ、寛斎は言葉を失ったまま稲崎を見つめた。印を結んだ指がほどける。

 ウェイトレスが料理を運んできて、二人の前に置く。「ご注文は以上でよろしいでしょうか」と訊く若い女に、「はい、ありがとう」と満面の作り笑顔で稲崎が答える。


「どうして、私の本名を」

 寛斎が、世間話のような口調で表情を変えずに言うと、稲崎がにやにやしながら答えた。

「奈美がね、君のことを見た記憶があるって言ってたんだ。君、昔は吉野の行者さんの内弟子だったって? 有名だったそうじゃないか。母親を殺されて十一歳で行者になった、かわいそうな男の子って」


 表情を崩さないまま、寛斎が黙り込む。

「調べたら、当時のニュースや裁判の記録が出てきたよ。お母さん、空き巣に首を刺されて失血死だってね。気の毒に」

 稲崎が眉を下げ、同情するような表情を作る。


「お母さんを生き返らせたい、もう一度話をしたいって思ったから、行者になったんじゃないのかい? それとも、犯人に復讐したいから? 犯人は無期懲役、生きて塀の中だってね」

 稲崎をおおう黒いもやがうごめく。


「僕だって、こんな話はしたくないんだ。だから、こっそり教えてよ。君が知っている修法しゅうほうを」

 机の下で、寛斎が再び印を組もうとする。


「母は生き返らず、犯人も死んでいない。そのことからも、わかるでしょう。効果のある修法しゅうほうなんて、本当にないんです」

 寛斎が表情筋を動かさずに答える。二人の視線がぶつかり合う。


「……強情な男だ」

 稲崎が聞えよがしにため息をつく。


調伏法ちょうぶくほうって、もちろん知ってるよね。相手を呪う修法しゅうほう。……今は便利な時代だよね。インターネットで調べたら、ちゃんとやり方が書いてある。道具だって買える」


 寛斎が身を乗り出し、声を大きくする。

「だめです! あれは、修行を積んだ行者が修しないと、命に関わるんです。神仏のお力を借りる能力がなければ、自らの生命力を喰われます。行者でも、よほど精神鍛錬をした者でないと、障碍しょうげをこうむります。作法さほうを間違えて失敗しようものなら、冥罰めいばつを受けて、下手をすれば永遠に闇の中をさまようんですよ」


「もしかして、自分が失敗した経験があるから言うのかな?」


 稲崎が笑う。

 それは、寛斎にとって触れられたくない暗い過去だ。


 寛斎は、無表情を決め込んで背筋を伸ばし、彼と対峙した。

「さすがにポーカーフェイスだね。でも、動揺しているのがわかるよ。最近、そういうことに鋭くなったんだ。人から出る波動みたいなものが見えるようになってね」

 黒いもやが、稲崎の首元でゆっくりと動く。


「素人でも、必死に念じれば神仏と回線がつながることはある。いろいろ調べて知ったよ。あと、代償次第で非道徳的な願いも叶えてくださる神様がいらっしゃることも」

 稲崎が、椅子の上のカバンから写真を取り出し、寛斎の方へ向けて机に置いた。


 それは、宮子の写真だった。


 おそらく、隠し撮りしたのだろう。白衣に浅葱あさぎ色のはかま姿で、境内けいだいを掃いている。だが、目線はカメラの方を向いていない。


「柏木宮子さん、二十四歳。三諸教本院の美人神主で、君の大事な人だ」


 寛斎が、机の下で拳を握る。

「僕たちが、結婚式の日程が決まったって報告に行ったとき、君、奈美と話してたよね。『私にも彼女がいるんですが、神主で、しかも神社の跡取りだから』云々って。女性神主で、若くして跡取りってのは少ないからね。調べたらすぐにわかったよ」


 寛斎が写真を取りあげようとするより早く、稲崎がそれをつまみあげた。

調伏法ちょうぶくほうに必要なのは、相手の名前と住所、生年月日、写真、だったかな? ……まあ、そんな超常的な方法に頼らなくても、でいいよね。相手はかよわい娘さんだし」

 寛斎が拳で机をたたく。皿やコップが、がちゃり、と音を立てる。


「宮子に手を出したら、ただじゃおかない」

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