青の意思

白 仁十

第1話 囚われの身




夜気を含んだ冷たい風が、隙間から吹きこんだ。

風が首すじに触れ、レクセンはビクリと体をふるわせた。まるで冷たい刃でなでられたようだった。

気を失っていたのか、眠ってしまっていたのか、自分でもわからない。


彼女は真っ暗な石室の隅にうずくまっていた。身をよじると、壁と床の冷たさが、夜風とともに体の芯に伝わり、またふるえた。

意識が覚醒するにつれ、周囲を知覚していく。


眠る前と変わらない、苔と古びたほこりのにおい。

眠る前と変わらない、腐って傾いた棚と落ちて割れた陶器やつぼ。

眠る前と変わらない、重くのしかかってくる閉塞感と縛られた手足の痛み。


それらすべてが、囚われたことが夢ではないと告げていた。

まどろみがうすれると、幾度となく巡らせた思考をまた繰り返した。

床や壁は崩れかかっているが、風が入る腕も通せない隙間が唯一だ。

扉は分厚く、閂がかけられてる。ただし、古くさびついているため、力を加え続ければ破れそうだ。

いまだに誰も接触してこないので、なんとか逃げられるかもしれない。


だとしても、それからどうする。

この石室を脱出できたとて、追いつかれず逃げることができるのか。そして、この夜の森をひとりで抜けることができるのか。

もし迷ったら、もし再び捕まるようなことになったら。

死の予感がよぎり、一歩も動けないまま、堂々巡りになった。


やっぱりもう駄目だ、おしまいだ、という悲観が湧きあがってきた。

じわじわ締めつける見えない鎖を拒絶するように、レクセンはゆっくりと大きく深呼吸をした。

数え始めてから、たしか八回目の深呼吸。まだその程度の回数だ。

大丈夫、大丈夫、と呪文のように自分に言い聞かせた。




二十七回目の深呼吸をしたときだった。

ハッと顔をあげて、耳を澄ます。またひとつかすかな破裂音。幻聴ではない。

助けが来たと思いたかったが、強盗の用事が済み、人質を始末している可能性もある。

時を置かず、慌てた足音が近づいてくる。足音はレクセンのいる石室の扉の前で止まった。

ドキン、と心臓がはねた。


「はやくしろ!」

「わかってるって、急かすな!」


閂を外そうと焦れる声と、乱暴にたたく音が石室にひびく。

その音と自分の心臓の鼓動が重なって、レクセンの頭の中で反響した。

勢いよく扉が開くと、ランタンを持った男と銃を持った男の二人が入ってきた。彼らは強盗団の男たちだ。二十八回目の深呼吸はもうない。

期待が折れて、恐怖が膨らみ、扉の前の小階段を降りる強盗の動きがやけに遅くみえた。


また一人、スルリと扉をくぐる三人目が見えた。

と思うと、三人目の身体がスッと沈み、銃を手にしていた二人目の膝が落ち、頭が揺れて倒れた。

一人目が驚いてふりかえる動作と、三人目が蹴りを放つ動作は同時だった。一人目は真横にふっとび、ランタンが壁に当たって割れた。

広がった油に火が移り、石室を赤く照らした。


ずっと暗闇にいたレクセンは、それすら眩しくて、目をほそめた。

炎の向こうで、倒れて動かない二人を警戒しながら、銃を奪う三人目が見えた。すぐに明るさには慣れたが、三人目の顔はわからなかった。

黒い服装に黒い覆面。唯一空いているだろう目元の部分は、入口を注視している。

黒ずくめは身構えたまま、静かにレクセンに近寄ると、片手で上着の襟を少しさげてめくった。その下の胸元に印がみえた。


ひし形と四角が重なった八芒星の真ん中に、∞が斜めになった印章。

見慣れた印。

黒ずくめは、強盗団の仲間割れではなく、レクセンが切望していた助けだった。

どこで止めていたかわからない息を、震わせながら一気に吐いた。

同時に感情が堰を切ったような大粒の涙をこぼした。嗚咽は寸でのところで我慢したが、その分、涙はまったく止められなかった。


黒ずくめは自分の上着をまさぐって、小さなナイフを探り当てた。

縄に慎重に刃を入れる彼の手元を見ていると、ふと、袖が妙に余っていることにレクセンは気づく。

さして重要でもないところが気に留まり、思考があさっての方へさまよう。感情が乱れていても、習慣だけは働いた。


ブツッと縄が切れ、両手首が離れると、さすがに引き戻された。続けて足首も自由になった途端に、身体の芯にあった鉛のような重りが消え、息苦しさがすぅっと抜けていった気がした。


黒ずくめはレクセンの腕をとって、急げ、と言わんばかりに立ち上がらせる。

レクセンは腰を上げた、つもりだったが、身体のこわばりは解けておらず、力が入らない。


ここで立てなきゃ、ここで動けなきゃ、《バード》失格よ!


レクセンは自分を叱咤した。

ひとりでは何も行動できなかったけれど、助けがきたにもかかわらず動かないでいるのは、絶対に嫌だ。


黒ずくめの腕につかまって、思いっきり体重をかけた。彼はゆるがず、服の上からでも筋肉が筋張る感触が伝わり、頼もしいほどの力で引っ張り上げてくれた。

レクセンが感謝を言おうとしたときには、黒ずくめはすかさず次の行動に移る。

そうだ。まだ終わってない。まだ本当に助かったとはいえない。感謝はあとだ。

レクセンは涙を荒々しくぬぐった。


黒ずくめはのびている強盗を再度注意し、足音もさせずに入口に進んだ。扉の周囲を探りつつ、出てこいと片手で合図する。

レクセンは壁にもたれかかりながら移動し、階段を這うようにして外に出た。


もうもうと立ちこめる煙が、灰色の塊となって古い遺跡に覆いかぶさっていた。

風はほとんどなく、ぼんやりと赤く光っているかがり火のあたりだけ、煙が対流している。

その向こうで銃撃が、まるで雷のように瞬間的に光って、音を轟かせる。

レクセンがどうすればいいか尋ねるより早く、彼が魚が泳ぐような手ぶりをみせて、煙を回り込むように進むことを示した。


その時、黒ずくめの後方の雷雲に奇妙な流れが生じ、折れた柱の影が、黒い飛来物となって迫ってきた。

レクセンの表情が恐怖に凍りついた。

黒ずくめはレクセンの表情に反応して、背後を確認しないままレクセンを突き飛ばし、反作用の勢いを殺さずに身をかがめて転がりながら、細かい瓦礫をひっかいて襲いかかってきた影に放った。

当たりはしなかったが、ほんの一瞬壁をつくって、奇襲を遮った。


レクセンは、石床に倒れた痛みに眩んだが、影の正体を見てそれどころではなくなった。

強盗団の中でもっとも残虐な男だった。

襲撃の際、この男は手にした大型の鉈で護衛らを切り殺し、あまつさえ、人質の一人が逃亡しようとすると、有無を言わさず背中から刺すと、髪をふり乱し、全身を切り刻んだ。


そして、レクセンの恐怖が滲んだ視線に気づくと、脅しかたわむれか、血に濡れた鉈でレクセンの髪を乱雑に切り裂いた。

男の返り血を浴びた薄笑いと、千切ったような自分の髪を握る赤く染まった拳が、頭の中に焼きついた。

男は、レクセンにとって悪魔そのものだった。


(いけない。すごく危険なやつなの、殺されてしまう)


警告したいのに、身体に力がはいらず、声がまったく出なかった。

その間に、男は黒ずくめにじりじりつめ寄っている。

構えた鉈をゆらゆらと揺らして威嚇し、近づくにつれ、乱れた髪の隙間から漏れる凶暴な光が強まった。

対して黒ずくめは、背を丸め、腕をたたんで小さく構えていた。男の殺気に圧されているようだった。


(だめ。せめて武器を、奪った銃でも使わなければ)


あえぐのが精いっぱいだった。何か合図を出そうにも、身体は痛みでしびれ、もがくことしかできない。


出し抜けに、黒ずくめが上体をスッとそらした。

ほぼ同時に、凶刃が空を走り、時間差で煙が巻いた。

続けて、彼は一歩退いて、右構えから左構えに切り替えると、刃はまたしても煙を穿っただけだった。


男の攻撃を予知しているとしか思えない黒ずくめの体捌き。

レクセンには彼の動きが素早いうえに小さくて、良く見えなかった。


逆に黒ずくめが男に接近した瞬間、両手がかすみ、男の手から鉈がはじけ飛んで、煙の中に消えた。

レクセンは反射的に鉈を目で追ってしまい、戻したときには、男は腹を押さえて腰が砕けかけていた。

黒ずくめが男に背中を向けたかと思うと、杭打ちのような強烈な後ろ蹴りを放った。男の身体が一回転し、崩れた壁に激突して、がれきの中に沈む。

黒ずくめのまわりで煙がつむじ風のように逆巻いた。


レクセンは唖然とした。

黒ずくめは悪魔に勝った。苦戦もせず、武器も使わず、圧倒的に。

悪魔が倒れたことで、レクセンは緊張が一気に切れ、力が抜けていく。

安堵するにはまだ早いと思ったが、遠のく感覚を自分で引き留めることができる余力など、どこにもなかった。

意識が薄らいでいく中で、黒ずくめは救世主だということが強烈に頭の奥に刻印されると、完全に途切れた。




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