第12話

 放課後、俺は三年生の教室に来ていた。

 上級生の教室はあまり落ち着かないのだが、柚梨に「適当に座れ」と促されて誰のとも知れない椅子に腰かけた。悪いねこの席の人。


「沖が、私とお前に話があるそうだ」

「それは良いんですけど、場所はここじゃなくても良くないですか?」

「こういうのは自分のホームに呼ぶのが良いんだよ。しかしいつもの喫茶店に招くのも嫌だろう」

「そうですけれど」


 つまりは、陸上部の方はホームじゃなくなってしまったのだろうか。少なくとも俺にとってあそこはもう明らかにアウェーだ。学校に自分自身の安らげる居場所を作ることそのものは決して難しいことではない。だが、一度手放した場所に再び帰ったり取り戻したりするのは恐ろしいほどに困難だ。それをまざまざと感じている。


「……何か落ち着いてないが、どうかしたのか?」

「いや、まあちょっと……」

「そういえば高田の件だが、話しにくいなら私が……」

「それは大丈夫です、釘は刺しました」

「仕事が早いな」

「いえいえ」


 俺は動揺を隠すように携帯をいじる。

 いじめてきた相手と話してとっても怖かったです、などと言うのは流石に恥ずかしすぎる。

 と思いながら携帯で適当にネットニュースを見てる隙に、柚梨の手が俺の髪を乱暴にわしわしと撫でた。


「あの、何してるんですか」

「なんとなくな」

「髪が乱れるんですけど」

「乱れるほど伸ばしてないだろう」

「そりゃそうですけどね」


 俺自身の動揺が完全にバレてた。恥ずかしすぎる。そもそも柚梨を助けるという名目で行動していたのに最近慰められることが多い気がする。赤面しそうになる顔を片手で覆う。柚梨にとって俺の心境などとてもわかりやすいのだろうな。


「おっと、来たぞ」

「あ、はい」


 教室の引き戸が開けられ、二人の女子が入ってきた。一人は沖だ。いつも通り清楚な佇まいをしている。そしていつにもまして引き締まった表情をしていた。目に強い意思を感じる。もう一人は笹原弓子だった。ショートカットで、肌は浅黒い。健康的な雰囲気で性格も明るい……というか、うるさい。私語をよく注意されるタイプだ。だが普段の明るい表情は翳り、居心地の悪そうな顔をしている。沖が笹原をここに連れてきたということは、ある程度説得することができたのだろう。


「お待たせしました」

「いや、そんなでもないよ」


 笹原は俺と柚梨の顔を見て視線を下に落とす。やはりバツの悪さというものを覚えているのだろう。沖からも何か言われたに違いない。


「……弓子」


 笹原が軽く肘で小突かれる。煮え切らない態度だ。自分のやったことの罪深さを今頃自覚しているのかもしれない。もっとも、俺が彼女の立場だったとしたらそもそも逃げてる気もする。だが柚梨にやったことは言い逃れできるものではない。ちゃっちゃと話を進めてもらいたい。


「……その、すみませんでした」


 笹原は、いかにも不承不承といった感じの声と佇まいをしていた。

 あ、これはまずいと言う予感が俺の背中を走った。


「今のは、私に謝ったのかな。蓮に謝ったのかな。それとも」


 やはりと言うべきか、柚梨の怒りの火に油を注いでしまっている。


「沖に迷惑がかかったから、沖へごめんなさいと言ったのかな」


 そこで、笹原はきっと柚梨の方を睨みつけ……ようとしたあたりで、沖が前に進み出た。


「先輩、お願いがあります」

「なんだ、沖」

「弓子は、私のために先輩のことを傷つけようとしました。だから私も同罪です」

「ほう。それで?」


 柚梨は面白そうに話を聞いている。足を組んで背もたれにふんぞり返ってにやついている姿はさぞ笹原にとっては苛立たしいだろう。だが沖は先輩の態度も笹原のことも気にせずに話を進めた。


「私と勝負してください」

「勝負?」

「次の大会、八百メートル。私と先輩どちらが速いかで白黒付けましょう」

「へえ! そうくるか!」


 柚梨がひときわ高い声を出して沖の言葉に応じた。


「なあ、話がおかしくないか、沖。私は笹原にいじめられたんだよ。しかもこんなおざなりな謝罪されただけだ。なんでそこで沖が矢面に立って勝負するなんて言うんだ」

「弓子のやったことは許されません。もちろん、私のやったことも。だけど」

「だけど?」

「県大会も近いのに彼氏といちゃついてる人に部で大きな顔をされたら練習の邪魔です。練習、身が入ってないんじゃないですか」


 うるせえ。

 と言いたいところだが、練習に身が入ってなかったのか。横目でちらりと見るが、柚梨は特に否定する様子もない。そして沖の方も、揶揄するような言葉を発しながらも、少しも面白そうな様子がない。固く口を結び、正面から柚梨を見据えている。


「別に誰かと付き合うなとは言いません、でも、部を率先する立場の人がそんな調子では示しが付きません」

「なるほど、確かに練習に身が入ってなかったかもしれない。でも私が不調の時に一度や二度、私を上回ったくらいで勝てると思うのかい」

「……はい」

「大体、沖は大会で自分の記録を塗り替えたことが無いだろう」

「それは今までの話であって、これからの話じゃありません」

「本気で勝つつもりかい」


 沖は、強く頷く。


「……で、キミが私に勝ったら何をしてほしいんだい?」

「部から去ってください。秋に引退とかじゃなくて、大会が終わった時点で来ないでください」


「私が勝ったら?」

「土下座でもなんでも、私と弓子ができることはなんでもやります」


 その言葉を告げた沖は、とても悲壮な顔をしていた。

 沖は、柚梨と決裂するような展開は決して望んでいない。これでは勝っても負けても、沖がただ損をするだけだ。それでも勝ったときの報酬としてそれを望んだ。決裂を望むことが部にとって一番良いと、部員達にとって一番納得の行く回答だと悟ったのだろう。

 笹原の方は沖から何も聞いていなかったらしく、面食らった様子だ。だが、その話に横槍を入れるつもりまではないのだろう。やや不安げな様子で沖を見ていた。というか俺もちょっと不安だ。柚梨と沖は二人だけの世界に入っている。実は勝負をけしかけたのは俺なんです、なんて言ったら柚梨から相当怒られそうな気がする。だがそれでも、沖の出した答えは俺の想像を超えていた。ただ俺は走りで白黒つけるならば皆納得するだろうと言っただけで、ここまでは考えていなかった。沖は、たった一日で驚くほど成長したように感じる。


「よし、その言葉、忘れるなよ」


 そんな心配を他所に柚梨は、沖の言葉を聞いて獰猛な微笑みを浮かべた。


***


 柚梨は陸上部の練習に戻った。サボったのは結局2日程度で、ブランクと言うほどのブランクではない。だから大丈夫だろう――と思いつつも、なんとなく心配で部活が終わるまで学校で時間を潰した。辛い練習をこなしているときは時間が永遠に感じたが、ただ待っているのは更に長く感じた。遠くで吹奏楽部が合奏練習をしているのだろう、特定のフレーズを繰り返し何度も演奏している。克服すべきものはひたすら愚直にトライするしか無い。日々を生きるためならば避けることも誤魔化すこともできるが、成し遂げたいことがあるならば逃げることはできない。

 日も沈みかけてきた頃に部活は終わった。柚梨に「一緒に帰ろう」と携帯で連絡を取るとすぐに返事は返ってきて、校門から少し歩いた先の交差点で合流した。今ここには俺と柚梨の二人だけだ。恐らく、一人で帰るといって固まって帰るメンバーから抜けてきたのだろうか。あるいはそんなことをせずとも、今の空気では和気藹々とつるむということも無いのかもしれない。まあ、どちらでも良いことだ。二人並んで駅までの道を歩いて行く。


「あの、柚梨」

「なんだ」

「なんで俺の頭をさっきからチョップしてるんですか」


 地味に痛いんでやめてほしいんですけど。


「怒ってるからだ」

「……すみません」

「沖をけしかけたな」


 速攻でバレてるのはなんででしょうか。


「けしかけたってほどでも無いんですが……」

「じゃあやったんだろうが」

「痛い痛い、すみません」

「大体、私が負けるとか思わなかったのか」

「あんまり思ってなかったです」

「バカ!」


 ひときわ強いチョップを食らった。あの、本気で痛いです。


「……じゃあ負けるんですか」

「まあ……順当にやれば勝てると思う。活にしろ負けるにしろ、沖があれだけ真剣に挑んできたことは嬉しいさ。全力で応えてやりたい」

「じゃあ良くないですか?」

「良くないから文句を言ってるんだ。大体、勝ったほうが正しいってのはどうなんだ!」

「それは……」


 これは、以前にも話したことだった。そして意見が食い違い、喧嘩にもなった。


「別に勝ってねじ伏せることはできるさ。だがそうやって白黒つけた結果に意味があるのか」

「あります。敗けた人は納得するしかありません」

「勝った人間に従えってのは残酷じゃないのか。浅ましくはないのか」


 柚梨は、勝つことが純粋に楽しめないと言っていた。勝利の浅ましさに、敗北の残酷さに、思い悩んでいる。もしかしたら、笹原の暴挙は一つの切欠にすぎないのかもしれない。


「残酷かもしれませんが浅ましくはありません」

「なぜだ」


 火のように強い眼で俺を睨む。半端な答えは許されそうにない。

 だが俺は、それでも御法川柚梨の走る姿を見たいと思った。


「相手が勝ったから自分の負けを納得するんじゃありません。勝った人の姿が綺麗で美しいから、納得するんです」

「……なんだそりゃ」

「勝敗が付くのが残酷で、そこを直視して迷う気持ちはわかります。でも同じく、正々堂々とした勝負はその残酷さを覆す綺麗なものがあると思う。だからみんな走るんです。特に、御法川柚梨が走る姿は誰より綺麗です」


 そう言うと、ぐっと柚梨は言葉を詰まらせた。

 照れたような、怒ったような、苛ついているような、嬉しいような、表情をころころと変えて言うべき言葉を探している。チョップしてた手が止まり、俺の髪の毛を鷲掴みにしている。男の髪は繊細なので抜かないでほしい。


「柚梨、俺は、勝負がどうこうとかどっちが良い悪いとか、そんなところを超えて走ってる柚梨の姿が見たい。恐らく沖も、他の部員達も同じです。あなたが美しいから、綺麗だから、あいつらは厳しい練習もついてきたんだと思います。ここで投げてしまう姿は見たくない」

「……他人が慕ってくれるのは嬉しいし、き……綺麗だって言ってくれるのも嬉しい。でも……」

「でも?」

「私はただ、やりたいことがあって走ってただけだ」

「やりたいことって……なんですか?」

「友達に、速くなった自分を見てもらうことだった」


 友達。柚梨はどこか遠い目をしながら呟いた。

 そういえば少し前、誰かに誘われて陸上を始めたと言っていた。


「……見せりゃ良いじゃないすか。というか今見せないでどうするんですか」


 そう俺が言うと、柚梨は胡散臭そうな顔をして俺を見る。


「誰なのかも知らずにそんなことを言うな」


 微妙に機嫌が悪い。そんな顔をされても……と、思うのだが、確か以前に「友達よりも速くなった」みたいなことも言っていた。あれ、てっきり実力で上回ったという意味だと思っていたが……。


「あの……もしかして、そのお友達って」

「なんだ」

「走れなくなったとか、あるいは故人とか……」

「ん? 違う違う。ピンピンしてるよ」

「そうですか」


 あ、良かった。てっきり死に別れしたとか、そういう心の傷に無遠慮に触れてしまったのかと思った。


「だったら、どこの誰か言ってくれれば首に縄つけてでも引っ張ってきます。なんなら鉢巻と法被とメガホン持たせて応戦させますよ。それで先輩が頑張ってくれるなら。迷惑かもしれないけれど、俺は柚梨を応援したいんです」


 俺がそう言うと、柚梨は驚いたような顔して、そしてくすくすと笑った。


「バカだなキミは」

「なんでですか」

「別に、まだ願いがかなってないなんて言ってないだろう。友達には、もう私が走ってる姿を見せてるよ」

「ええ……」


 そんな思わせぶりなこと言っておいてそりゃないですよ先輩。


「ま、今回はお前がギャラリーで許してやろう」


 柚梨は肩をすくめ、いかにもご不満ですと言った様子で言った。


「そうしてください」

「あ、そうだ。蓮」

「なんです?」

「こないだ買ったお守り持ってるか」

「ええ、まあ。鞄に入れてますんで」


 あのときは必勝祈願を柚梨に渡して、俺は無病息災の方のお守りを持っていた。今そのお守りは、通学鞄のサイドポケットに仕舞ってある。


「ちょっと貸してくれ」

「良いですけど。ていうか上げましょうか」


 何をするかはよくわからないが、俺は鞄から取り出して柚梨にお守りを渡す。


「……いや、大会までで良い。後で返す」

「わかりました。コンディションは大事ですからね」

「わかってるとも。蓮こそ、ちゃんと見に来いよ」

「目に焼き付けますとも」


 そう俺が言うと、柚梨はいっさい手加減せずに俺の背中をばしんと叩いた。

 もみじ状の痕ができそうなほどに痛い。

 これ以上の悪さができないように俺は柚梨の手をぎゅっと握り、帰り道を歩いた。

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