第7話

 俺の言葉に、沖はほんの少しだけ頷いたように見えた。

 もっとも俺の言葉が真に届いたかどうかはわからないし、言葉が届けば即ちわかってくれるだろうという考えも一種の高慢に過ぎない。俺とこいつは違う人間なのだから。だからこれ以上俺から言うべきこともない。そろそろ帰るか。苦手な人間と話すことも本音で話すことも体力を著しく消耗する。

 これ以上冷めたポテトを平らげる気にもなれず、プラスチックのトレイを片付けようと椅子から立ち上がって振り返った。するとすぐそこに、艶めかしい足を組みながらストローを苦みばしった顔で吸っている女がこっちを見ていた。同じ高校の制服を着ているぞ、スカーフの色を見るに上級生、というか……


「おや、もうお帰りかい」

「うわああっ!?」

「え、せ、先輩……?」


 がたがたがたっと椅子がぶつかりあい転びそうになり、他の客から胡散臭そうな目で見られる。軽く会釈して詫つつ、声をかけてきた人の顔を見る。

 間違いなく、御法川先輩だった。

 びっくりした……話に夢中になって気配に一切気づかなかった。


「な、なんで居るんですかそんなところに」

「神妙な顔して井上と沖が二人で出ていったって聞いてな。こっそり付けてきた」


 御法川先輩はえへんと胸を張る。


「趣味悪いっすよ」

「お前に言われたくない」

「ごもっとも」


 俺と沖のなんとも小汚い会話を聞いて良いご趣味ですねと褒めてくれるような人とはお付き合いしたくない。


「……すみません、御法川先輩。俺、沖と浮気してました」

「はあっ!? 何言ってんの!?」


 沖がぎょっとして俺を見た。先輩も飲みかけのジュースを吹き出しそうに鳴る。


「まったく、そういう冗談は止めてくれ……。違うよね?」

「ち、ちっ、違います!」


 まったく、沖もノリの悪い奴だ。しかし先輩が「違うよね」と尋ねた瞬間の先輩の目がマジだった。あれを茶化すのも至難の業であろう。


「あ、あの……先輩……」

「で、何の話をしていたんだい?」


 沖は、見るも哀れに震えていた。御法川先輩の視線を受け止めることができず、うつむいている。今の話を詳しく聞かれたかどうか、そこが気になるのだろう。


「別に大した話はしてませんよ、本当に。俺が先輩に誕生日プレゼントの相談してただけです。被ってもアレですし」

「え」


 沖が信じられないものを見るような目で見る。助け舟を出してやってるのになんだその顔は。


「だったら紛らわしいことをするもんじゃない。着いてきた私が馬鹿みたいじゃないか」

「すみません」


 御法川先輩は頬杖をついていかにもご不満ですと言った態度を崩さない。


「沖、すまんがこいつと話があってな。相談が終わったなら席を外してくれるか」

「あ、はい……」


 沖はほっとしたような、どこか落胆したような顔でいそいそと去っていく。あ、お前ゴミ片付けていけよ。慌てるとこけるぞ、といいたいところだが、顔に似合わず運動神経の良い奴なのでそんなこともあるまい。

 そして沖がいなくなったことを確認して、さっきまで沖が座っていた場所に先輩が腰を掛けた。


「良いのか」

「何がですか」

「沖のことだ……許すのか」

「話聞いてたんじゃないすか」

「あんなヘタクソな嘘に乗ってやったんだぞ。感謝しろ」

「ま、とりあえず沖はどうでも良いです。俺としては言いたいこと言ってやったし先輩と話すほうが大事です」

「そうか……なら聞きたいんだが」

「はい」


 心の中で気合を入れる。今度こそちゃんと先輩と仲直りしよう。


「沖にはあれだけ本音を言えるくせに私に隠し事が多いのはどうかと思うぞ」

「え、ちょ、そこですか」

「大事なことだろう」


 御法川先輩はひょいと手を伸ばして俺のポテトをつまんで口に入れる。


「冷めてるぞ」

「勝手に食べといて文句言わんでください」

「細かい奴だな」

「……わかりました。本音のところを言います。だから、昨日の話の続きをしましょう」


 ようやく今日やりたいと思ったことに取り組める。


「いや、昨日の話は良い。私が短気だった。すまなかった」

「あれ」


 が、朗らかな顔でスルーされてしまった。


「悪気は無かったんだろう。売り言葉に買い言葉になっただけで」

「まあ、そうですけど……」


 なんだろう調子狂うな。なんでこの人こんな機嫌良いの?


「あの、先輩」

「どうした蓮」

「なんか元気じゃありません?」

「私が元気じゃ悪いか」


 御法川先輩は意地の悪そうな微笑みを浮かべる。


「あんな風に愛してるなんて言われて、喜ばないと思うか」

「最初から全部聞いてんじゃないすか!」

「そうとも」


 どちらかと言うと沖を責めるために言ってしまったようなものだが、その、先輩に聞かれることなんて全く想定していなかったわけで。更に言えば俺は先輩の彼氏「役」であって彼氏ではない。そういうことを諸々わかっている癖に先輩はそんなことを言う。

 だがつい口をついて出てしまったということは、俺はきっと「そういうこと」なのだろうし、先輩も「そういうこと」だと思っている。俺が先輩の目を見つめると、先輩はわかりやすいくらい赤面して右手で口元あたりを隠している。無頼な態度も照れ隠しじゃないか。この人は趣味が悪い癖に可愛らしいのだから始末が悪い。


「……そうですよ」

「ん?」

「そうですよ。俺は先輩のこと好きですよ」

「う、うん」

「だから、裏で先輩に悪口を言われるのは傷つきます。許す許さないは別としても、それで愉快ってわけじゃありません」


 はっとするような顔で、先輩は俺を見た。


「別に過去のことは良いんですよ。ただ彼氏役になった今もそうやって陰で言われてるなら、せめてもうちょっとフォローなり何なりしてくれても良いんじゃないですか。ていうか俺をかばうって話は嘘だったんですかね」

「ま、待って! 待ってくれ! その……ご、誤解がある!」


 なんか浮気の言い訳みたいなこと言い出したぞこの人。


***


 御法川先輩は電話で恐ろしく低く冷たい声を出して沖を呼び出す。

 そして見るも哀れな表情で沖がまた現れた。


「沖」

「はっ、はい……」

「私は確かに、こいつのことで愚痴ったことはある。確かにこないだ練習が終わった後、更衣室で確かに言ったとも」

「はい」

「だがお前、大事なことを伏せただろう」

「はい……」

「ちゃんと言え!」


 あ、ヤバい、御法川先輩が相当怒っている。まあ自分の発言が歪められて俺に伝わったのだから怒るのは当然なのだが、俺は共感性羞恥が強い方なので吊し上げ的な光景はあんまり拝みたくない。


「……井上は悪いところもあるけど、コーヒーを美味しく淹れてくれたり、気を使ってくれたり、優しいからって……先輩は言いました」

「どうだ!」


 しょんぼりしてる沖の横で、御法川先輩は自信ありげににっかりと笑った。


「すみません、こういう異常なシチュエーションじゃなくて、もう少しノーマルな状況で褒めてくれませんか。あと沖、もう帰っていいよ。用件これだけだから。他は何も問題ないから」

「わかった……」


 沖はまたとぼとぼと帰っていく。捨てられた子犬を見るようであまり気分が良くない。だが御法川先輩はあまり気にしていない、というより自業自得とすら思っているだろう。俺も脅迫されたのであまり同情する筋合いも無いんだがな。


「とりあえず御法川先輩。なんていうか、更衣室とか給湯室とかでありがちな……あれこれ悪口の連鎖になって自分も悪口を言わないと収まらない状況だったんだろうなーってのはわかりましたし、フォローもしてくれたってこともわかりました。少なくとも仕方ないです。大丈夫です」

「あ、ああ……」


 さっきまで沖にぶりぶりと怒っていた御法川先輩がへにょんと肩を落としてバツが悪そうにしている。冷静に考えるとあまり笑えない事態なのだろうが、ころころと表情を変える先輩を見てどこか心が癒されていくのを感じる。


「さっき俺、先輩が悪口言ってても好きだって言いました」

「ああ、聞いてた」

「あれは完璧に嘘ってわけでもないけど、まあ井上流の強がりです」

「なんだそりゃ」


 御法川先輩が軽く吹き出す。


「まあでも、それで良いさ。私がなにか傷つけるようなことをしたら怒って良いんだ。お前が私のことを「この程度の人間だったんだな」って思われて、見切りをつけられる方が怖いよ」

「見切りを付けるなんてことしませんよ……でもちょっとは傷ついてるので、ごめんの一言で許します」

「ごめん、蓮」

「こちらこそ色々とぶっちゃけました。ごめんなさい」


 お互いにそう言うと、ふっと肩肘の力が抜けるような楽な気持ちになった。

 先輩はくすくすと笑い、俺もつられて微笑んだ。


「しかし私はねちっこくて皮肉屋で上から目線か。軽蔑されてると言われるほど酷くはないが、傷つくなぁ」

「本当にすみません」

「あーあー、傷つくなー! 優しい言葉をかけてほしいなー!」


 ウザくなるときは本当にウザいなこの人! と思いつつも嫌いになれないどころか、俺にだけこういう我儘を言ってくれるのかと思うと可愛らしさすら感じてしまう。ウザかわいいって今までよく理解できなかったがこういうことか。


「そういう先輩のことも俺は好きですよ」

「………………う、うん」


 先輩はふと我に返って、顔を真っ赤にして頷いた。いちいちかわいい。


「それで御法川先輩、他にも色々と話したいことがあってですね」

「う、うん」

「ちょっと場所を変えませんか」


***


 駅から少し歩いたところにベンチが数多く設置されている場所がある。そこには大きな時計とデジタル表示の温度計、そして名も知れないどこかのアーティストの作った彫刻が置かれ、市民には待ち合わせ場所や憩いの場としてよく利用されて……いるかに見えて、別にあんまり利用されていない。ホームレス対策のためにベンチは座りにくいわ日当たりは悪いわ、そもそも彫刻のデザインが意味不明で気持ち悪いわで、何かと不便なのだ。おかげで誰もこの場所の名前すら知らず、単に駅前のベンチと呼ばれているだけだ。だがそれゆえに人気がなく俺達にって丁度よい場所だった。俺と先輩はそこのベンチに並んで腰掛ける。


「話というのは、沖が言ってた件です」

「きみのおじいさんがどうとか言っていたが……」


 御法川先輩は顎に指をあて、思案げな顔をしていた。詳しく聞いていいものか迷っているのだろう。


「そこまで大層な話でもないんですけどね。俺が中学のころ、祖父がなりすまし詐欺に引っ掛かったんです」

「……十分に大事だろう」

「と言っても、まあ過ぎたことですしね」


 そう言う俺のことを、先輩はいたましいものを見る目で見ていた。確かに、これを聞かされた人はそうする他あるまい。


「それでまあ、洒落にならない金額が飛んでってしまって。詐欺だって気付いたときには犯人グループも送金を完了してたらしくて、弁護士や銀行にお願いしてもまず戻ってこないだろうと……祖父もそれでショックで寝込んじゃいましてね。治ったはずの癌が気付けば転移したんだか再発したんだか、ポックリ逝っちゃいました」


 祖父に対して恨み言がないと言えば嘘になる。

 だが決して横暴な人ではなかった。共働きで忙しい両親の代わりに面倒を見てくれたことも少なくない。昔気質の良い人だった。


「……大変だったんだな」

「むしろ大変だったのはそれからですかね」

「どんなことだ?」

「実家の名義がじいさんのままだったんです。他にもじいさんが個人で仕事してた時の借金やらローンやらがまだ残ってたもんで相続放棄するのが一番となって……家を手放しました」

「うっ……」


 流石にこれは先輩も予想外だっただろう。不幸自慢ではあまり負ける気がしない。


「今は賃貸マンション暮らしです。葬式も荒れましたね。お前らがしっかりしてたらおじいさんも騙されなかっただろうとか、親子でコミュニケーションが無かったんじゃないかとか、ボケに気づかなかったんだろうとか色々と言われて、水ぶっかけてやろうとしたんですがお坊さんに止められました」

「……それで、向こうの中学からこっちの高校に来たってわけか」

「ああ、元々の出身中は隣の市ですからちょっと遠いですからね、この高校に来てるのは俺くらいなもんでしょう」

「すまん、その、ちょっと……心を整理する」


 なかなか衝撃だったみたいだな。深刻に考えすぎてちょっと顔色が悪くなっている。


「えーと、何か温かいものでも買ってきましょうか」

「いや、良い……その、つまりだ」

「はい」

「家がなくなってお金もなくなって、結果としてバイトせざるをえなくなって、その金すらも奪われそうになったと」

「まあ、今住んでる賃貸マンションも、築年数が浅いんで実家より居心地は良いんですけどね。お金がなくなったとはいえ父さんも母さんもちゃんと仕事についてますし、いきなり食いっぱぐれるほど貧乏ってわけじゃないですよ。ただ、将来とか五年先十年先を考えると安穏としてもいられないってところです」

「……それは人としてどうなんだ?」


 素でそう聞かれるとちょっと辛い。俺は憮然とした顔で答えた。


「どうなんだと言われても、俺はなんとか頑張って生きてますよ。そこに文句つけられても」

「い、いや、お前に言ったわけじゃなくてだな! 高田とか今の陸上部が人でなしって話だ!」

「そこは……」


 ……うん、改めて考えてみると本当にひでえな。俺の事情を知らないにしても。


「冷静に考えるとちょっと弁解の余地無いですよね」

「お前なんでそれで高田とか他の連中のことを許せるんだよ! 私ならキレるぞ!」

「実際キレましたしね。主に高田と先輩に対して。ついでに沖にも」

「あ、そ、そうか」

「先生たちも一応知ってますが、箝口令みたいな感じですね。というか本当にバレて言いふらされたりしたら親とか弁護士の先生とか犯罪被害者のボランティアを通して学校にクレーム入れてもらうみたいな、そういう大人の話になっちゃうので俺の手からは離れます」

「沖も馬鹿な奴だ……」

「そんなわけで、沖にはそれとなく注意しておいてもらえると助かります。実際、部活にクレーム入れざるをえなくなったりパパとママにモンスター化してもらう事態になるのは俺も忍びないので」

「ああ、わかった……」


 御法川先輩はまた頭を抱えてしまった。

 これ以上何をどう言えば良いかわからず絶句していた。

 ま、良いだろう。この際、話せることは話しておこう。


「バイトしてる理由としてはぶっちゃけ金がないってのもありますけど……俺は家族が好きなんですよ」

「……家族というと、ご両親か?」

「ええ。お金が無いからここのところ働き詰めでしてね。特に俺の大学に行くための金が全部消えちゃったんで、自分のことだし少しくらいその手助けをしたい。だからバイトを始めたし志望する大学も絞りました」

「……そうか」

「前に将来の夢を聞かれて「安定した職業に付きたい」って言いましたけど、俺が将来安定した生活が送れるなら父さんや母さんや、死んだじいさんも報われる。詐欺で金が消えたことも、俺がちゃんと働き出して稼げるようになれば「あの頃は色々と大変だったな」って笑って流せるようになる。そういう幸福を取り戻したいんです。それを目指す上で一番近い道が、県内の国立大に受かってちゃんと就職するって方向だっただけです。スケールは小さいし他人に誇れるようなもんじゃないですけど、俺はそうしたいんです」


 御法川先輩は顔を上げて、俺の顔を見つめながら真剣に聞いてくれた。


「……夢がないって言って、悪かった」


 そっと、俺の握っていた拳を握られた。体温が熱い。この人には大きな熱量とすべすべとした真っ直ぐな何かがあると感じた。


「いや実際スケールは小さいと思います」

「そこで自虐を入れるからお前はダメなんだ。ちゃんと胸を張れ」

「そうしたいのは山々ですけどね。昔は医者になりたいとかヒーローになりたいとか吹かしまくったから恥ずかしいもんですよ」

「……良いじゃないか」


 先輩は俺の拳から手を離した。

 そして俺の頭を、乱暴に鷲掴みするようにして撫でる。


「赤の他人より目の前に居る人を助けたいって思うのが人間ってものだ。お前は自虐的で悲観的だが、プライドがある。優しさがある。努力もしている。後ろめたさや恥を感じる必要なんて、何一つないんだ」


 髪の毛くしゃくしゃにしないでくれ、と思った瞬間、頭の後ろをぐいと掴まれて引き寄せられた。先輩の胸に、頭を抱きすくめられる。ふわりと柔らかい匂いと胸に包まれた。


「……すみません、触らないとか体求めないとか、そういうルールじゃありませんでしたっけ」

「このくらいのスキンシップで一々言うか、ばか。だいたいそれは私がお前に課したルールであって、私にはそんなルールはない」

「え、それはちょっとズルいんじゃ……!」

「ちょっと黙れ」

「…………はい」


 しばらく、先輩は俺の頭を離さなかった。俺も身を委ねた。

 気付けば俺の目には涙が浮かび、それすらも先輩の胸に吸い込まれていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る