大森5

 サクラコはオートマチックに所定の動作を実行した。

 まず、自分のカバンを取りに教室へ戻った。

 すると、既に登校していた智美が話しかけてきた。

「大丈夫、サクラコ? 顔青いよ」

 心配そうな表情でサクラコを見つめる智美。

「ええ、ちょっと体調が優れないわ。今から保健室へ行ってくる。もしかしたら早退するかもしれないから、ホームルームのとき、担任の先生に伝えておいてくれないかしら?」

「うん、わかった。あ……、サクラコ! 無理しちゃ駄目だからね」

 既に返事も聞かないうちに動き出していたサクラコへ、智美は大きな声を発した。

 これでも小学生の頃からの仲である。

 サクラコが今何かを抱えていて、そして現段階ではそれを誰にも知られたくないということを、智美は察していた。

 教室を後にしたサクラコは、予定通り保健室へ向かった。

 検温して熱は無かったが、非常に血色が悪い顔、そして虚ろな目をしているサクラコを見て、保健の先生はすぐさま「今日は家に帰ってゆっくり休みなさい」と結論を下した。

 早退の手配は保健の先生がやっておいてくれるそうなので、サクラコは彼女に付き添ってもらい、下駄箱まで向かった。

「それじゃあ、お大事にね」

「はい、ご迷惑をおかけしました、ありがとうございます」

 保健の先生との挨拶を済ませ、上履きを学校指定の白い運動靴に履き替えると、サクラコは校門を出た。

 当然、ここから真っ先に家へ帰る、それが早退者としての義務だとサクラコは感じ取っていたが、しかしサクラコが本能的に向かった先は、あの、昨日訪れたあまり人気のない汚れの目立つ公園だった。

「……」

 無言のままサクラコは、昨日腰掛けたベンチ、それも同じ位置に座った。

 そしてそのまま暫く、ぼーっとした表情で虚空を眺めた。


 まばらに浮かぶ白色の雲は長閑だった。


 少しして、多少頭が回転し始めたサクラコは自分があまり良くないことをしていると懸念した。

 平日の朝から、地域内でも優秀な学校と知られる学生服を着た女子生徒が、公園をたむろしているところを見られるのは好ましいことではなかった。それどころか、もし学校や警察に通報されでもしたら、「早退する」ということになっているサクラコが、なぜそのような所に居たのかと、色々問題になる可能性もあった。これでも優秀で模範的な生徒として認知されているサクラコは、自分が不良の様な輩だと思われることには強い抵抗感があった。


 立ち上がらなければならない。サクラコはそう自分を戒めた。

 しかし、自分の足だというのに全く思う通りには動いてくれず、まるで鉄球を括りつけられているかのようにその足取りは最悪の遅さだった。それでも十数分、公園内を行ったり来たりした後、取り敢えずはと自販機でスポーツドリンクを購入して、それを飲んで一息つけたあと、ようやく彼女は家へと向かうのだった。





 翌日。

 決して風邪などの身体症状ではなく、ただの精神不良であることを自覚していたサクラコは、流石にこのようなズル休みに近いことを繰り返すわけには行かないと自分に言い聞かせ、意を決して登校することとした。もとより最近は不登校になる生徒は公立の学校ではとかく増加しているらしく、自分もそうなりたくはなかった。

 だが思いとは裏腹に、決して足取りは軽快とは言えず、昨晩も殆どロクに寝ていないサクラコは、その表情も険しいままだった。そして余裕のある時間帯に家を出たというのに、到着自体はもう予鈴も鳴ろうかというギリギリのタイミングになった。

 教室に入ると、彼、大森の姿はどこにもなかった。

 大森と会うこと自体に非常なストレスを予期していたサクラコにとってみれば、これは若干気持ちを落ち着けられることでもあったし、逆に言えばこの時間になぜ居ないのだろうという別の心情が生まれた。

 だが、その大森の姿がないことに、クラス内の人間は誰も注目する気配さえなかった。

 どちらかと言えば、サクラコが教室に入ってきた途端、ぎょっとしたような表情で、彼らは節々でひそひそ話を始めたぐらいである。智美がすぐに駆け寄ってきて下らない冗談を言って笑わせてくれなければ、ずっと陰口を言われ続けていたに違いない。

 そんなに自分の顔は酷いことになっているのだろうか。昨日早退したから注目されているというだけにしては、彼らの態度は賑わい過ぎであることをサクラコは訝しんだ。

 そして間もなく予鈴が鳴り、担任の先生がやってきた。

 だが、担任の先生が口を開く前に、校内放送が聞こえてきた。

 全校生徒は今から体育館に集まってくださいという旨の、教頭先生の声だった。

 程なくして、担任の先生が話を始めた。

「えー、今放送があったように、皆さん、体育館に集合してください。それから、えー。一つだけ、まぁすぐにわかることですが、話しておきたい、いや……、話さなければならないことがあります」

 いつもサクサクと事務的に話を進める担任にしては、妙に歯切れが悪く、それが尋常ではなく嫌な気配を内包していた。

 だが固唾を飲んで次の言葉を待つ以外の選択肢はサクラコにないのだった。

「えー、既に知っている人もいるかもしれませんが、えー。昨日の放課後、クラスの大森君が亡くなりました」

「は!?」

 サクラコは思わず、割合大きな声で口に出してしまって、すぐ口を手で塞ぐ。

 その際クラス中がサクラコの方を一瞬ギロリと見つめてきたが、その後すぐ、見なかったかのようにわざとらしいパニックめいた騒ぎを起こした。

「え、大森が?」「自殺よ自殺」「え、あれまじだったの」「人殺しじゃなくて?」「いや、ガチで屋上から飛んだらしいよ」「うわ、やば」

 担任はこうなることがわかっていたのだろう。先程とは打って変わって、妙に歯切れの良い用意していたかのような台詞を述べた。

「落ち着いてください。皆それぞれ思うことがあると思います。先生も本当にショックを受けています。しかし、起こってしまったことはどうしようもありません。とにかく、今は全校集会のため体育館に集まります」

 サクラコがそんな担任の台詞を聞いて思うのは、「あぁ、この人、別段ショックなんて受けてないのね。ただ事態が面倒なことになって頭を抱えているんだわ」だった。

 実際のところ、担任にとってみても、大森というのは関わりも浅く、両親とも勉強のことでしかやり取りのない、印象の薄い生徒だったことだろう。

 名門私立校ということで、明るく活発に意見を述べる理知的な生徒も多いが、実際には大森のように、コミュニケーションはあまり取らない勉強一辺倒な生徒も多数いるこの学校において、大森から、何か特殊な一面を見出すというのは難しかっただろうと思う。

 ただそれにしたって、他人事が過ぎる。

 先生も。生徒も。

 サクラコはただひたすらに彼らの人間性を嘆いて見せた。

 ただそれは無論、大森の訃報という現実から目を背けているに過ぎなかった。

 何より自分自身の心の内部から逃げていた。


 体育館に集合して、当然ながら、大森が自殺した件についての全校集会が行われた。

 とはいっても、あまりに簡素的な自殺の経緯説明と、大森への弔いの言葉が述べられるだけだった。

「我々はとても悲しい、我々はしかし彼の死を無駄にせず、未来に向かって未来に進まなければいけません」というきな臭い校長の台詞と、生徒指導からの「今日から五日間、学校が休校になります」という通知が、殆ど同列のように語られるのみで、サクラコにとってみれば、何ら実りのない時間だった。

 サクラコは体育館内で大森梓の姿を目で追っていたが、どうやら居ないようだった。

 勿論、遺族であるために忌引きしているのだということがサクラコにはわかっていたが、この何ともやり場のない心境を共有できるのは、梓しか居ないような気がしたからだった。


 特に誰も。

 野球部が県大会に進出しました、そんなトピックと変わらないぐらいの話題性で大森を見送った。


 しかし、サクラコとて、もし大森の夢を覗きみたりしなければ、彼のことは全く眼中にもなかったのは事実であるし、クラスメイトとして、相応の悲痛さを心に沁み渡らせるだけだったろうことは、自覚していた。


 そして、サクラコにはわかっていた。

 昨日、自分があんな台詞を吐いてしまえば、大森は唯一の心の在り処である何かを消失してしまうと。

 あの夢の通りになってしまうと。

 あの夢はやはり未来視に近い何かなのだと。

 わかっていたけれど、幾十の思想が自己の中で葛藤を繰り返し、結果としてサクラコはあんな態度を選択してしまった。

 そして大森が自殺するという事実は、生み出されてしまった。


 だが決してサクラコのせいであるはずがなかった。

 全ては大森自身が引き起こしたことで、命を投げるという彼の心の弱さこそが真に問われるべき責任の所在だった。


 だけれど、サクラコはまだ当時十四歳という若輩。

 胸こそ一丁前に大人顔負けの大きさではあるが、非常にシビアでナイーブな事象に、もはや事実と向き合うだけの心の強さが足りず、葬儀に出席して彼の死という事実が頭の中で確かなものとなると、彼女の精神は砕け、閉ざされてしまった。

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