一章 偽装婚約の裏側1

 そもそもどうしてオルフェリアがディートフレン・ファレンストなる隣国の実業家と婚約者のふりをすることになったか。

 きっかけは二週間ほど前のことだった。


 その日、オルフェリアはイグレシア公爵家の主催する園遊会に参加をする予定だった。

 指定された時間にミュシャレンの公爵邸を訪れたオルフェリアは少しだけ困惑したそぶりみせる執事に出迎えられた。

 どうしたんだろう、とオルフェリアが不思議に思っていたがすぐに理由は知れた。


(やられたわ……)


 園遊会はとっくに開始をしていた。

 オルフェリアはたっぷり三時間も遅刻をしたのだった。


 地上階のサロンの窓は開け放たれており、室内とパラソルをさした庭園、どちらも人であふれていた。

 すぐにイグレシア侯爵夫人に謝罪に行かなくてはならない。開始から三時間も経過して登場なんて、とんだ大失態だ。


(だって、叔母様は確かに会の開始時間が午後四時に変更になったって)


 ただその話を持ってきたのがハプニディルカ伯爵令嬢の使いの者だったのだからこれはもう確信犯だろう。詰めが甘かったのはオルフェリアも一緒だった。

 まさかこんな幼稚な嫌がらせをされるとは思っていなかった。


 大きな天幕の下、ソファ席がしつらえてあり、人の輪の中心にイグレシア侯爵夫人の姿が見て取れた。太陽の光を集めたかのような金髪を結い上げ、夏らしい白いレエスのドレスがとても似合っている、結婚をしているのが信じられないくらい初々しい少女のような夫人だった。夫は将来公爵家を継ぐまでは一つしたの爵位である侯爵を名乗っている関係上、彼女も対外的には侯爵夫人だが、この会の主催者で将来の公爵夫人を約束されている彼女の周りには多くの同年だの女性らが取り巻いていた。


(苦手だわ……)


 色とりどりのドレスの集団。まるで南国に生息する鳥たちのよう。オルフェリアは女性の集団が好きではない。

 しかしそんなことは言っていられない。とにかく謝罪。それが最重要課題だ。


 集団の方へ歩いて行くと、誰かがオルフェリアの登場に気がついて、やがてさざ波のようにイグレシア夫人の周囲に空間ができた。


「はじめまして、イグレシア侯爵夫人。本日はお招きいただきましてありがとうございます。そしてせっかく招いてくださったのに遅れてしまい申し訳ございません」


 オルフェリアは深々と頭を下げた。


「ごきげんよう。今日はお越しくださってうれしいわ。ええと……」


 イグレシア侯爵夫人はかわいらしく小首をかしげた。花を模した耳飾りが可憐に揺れた。

 イグレシア侯爵夫人の耳元で誰かが小さな声で話しかけた。


「ああ、あなたがメンブラート伯爵家のお嬢さんね」

「オルフェリアと申します」

「ふふふ。とても可愛らしいのね。今日はファレンスト氏がフラデニアから珍しいお菓子を持ってきてくださったのよ。どうぞゆっくりなさっていってね」


 鈴を転がしたような声で侯爵夫人はふわりと笑みをこぼした。

 太陽の下で咲いた可憐な花を思わせるような美しさだった。


「ありがとうございます。あ、あの! 王太子妃様は……」


 オルフェリアは勇気を振り絞った。今日この集まりに是が非でも参加したかったのは、一目王太子妃に会いたかったからだった。


「あいにくと王太子妃様はお帰りになられてしまったの。王女様を産んだばかりですから、あまり長い間外出することができないのですって」

 ほう、と切なそうに頬に手を遣ってため息を漏らす侯爵夫人とそれから一言二言言葉を交わしてその場を離れた。

 離れる時、取り巻きの女性がオルフェリアにだけ聞こえるように言葉を投げてきた。


「伝統あるメンブラート伯爵家のご令嬢ともなると遅刻があたりまえですのね。いい御身分だわ」


 驚いて振り向いたが、誰が発したのかは分からなかった。

 そんなことないのに。オルフェリアはもちろん遅刻なんてするつもりなかった。

 なのに。


 オルフェリアは会場となっている公爵邸の庭園をぐるりと見渡した。探している人物はすんなりと見つかった。

なにしろ彼女は友人らと一緒になってこちらに注目をして、くすくすと笑っていたからだ。

オルフェリアはそちらに向かって歩き出した。すでに戦闘開始の準備はできていた。


「ごきげんようオルフェリア。ずいぶんと遅かったのね。王太子妃様は先ほど帰られてしまったわよ」


 ことの元凶であるハプニディルカ伯爵令嬢に声をかけようと勇んできたが、ジョーンホイル侯爵令嬢が先にオルフェリアへと話しかけてきた。

オルフェリアと同じ黒髪を精緻に編み上げているその姿は可憐な令嬢なのに顔に浮かんだ笑みはお世辞にも優雅とは言えない。


「わたくしたちも初めてご挨拶をしたのだけれど、とてもお美しくて、それでいてとても気さくで。短い髪の毛もとてもお似合いだったわ」

 と、ハプニディルカ嬢がその場面を思い出すかのようにうっとりとしながら後を引き継いだ。


「あなた、ね。どういうつもりなのかしら」


 オルフェリアは王太子妃のくだりに返事をせずにまっすぐにハプニディルカ令嬢を見据えた。


(わたしだって王太子妃様に一目会ってご挨拶したかったのに)


 なにしろアルンレイヒではまだ珍しい短い髪形を貫いている先進的な女性なのだから。


「まあ、なんのことかしら」

 ハプニディルカ令嬢はこっくりと首をかしげて見せた。小麦色の髪の毛が揺れた。


「昨日確かにあなたの家の使いの者が我が家に来たのよ。それでこう伝えたわ。今日のイグレシア侯爵夫人の園遊会は予定が変更になって午後一時からではなく四時からに変更になったって」

「なんですって」

ハプニディルカ令嬢は目を見開いた。

「どういうことなのか聞きたいのはこっちだわ」

 オルフェリアは淡々とハプニディルカ令嬢を問いただした。


「わたし知らないわ! そんな話」

 ハプニディルカ令嬢は叫んだ。周囲で歓談していた人々は何事か、とこちらに顔を向けた。

「だったらどうしてあなたの家の者がうちにくるのよ。おかしいじゃない」

 回りくどい言い方が嫌いなオルフェリアはこういうとき、つい詰問じみた口調になってしまう。そしてそれが事態をよりややこしくする。


 昨日確かに世話になっている叔母の邸宅に使いの者がやってきた。イグレシア公爵家の人間ではなくなぜにハプニディルカ伯爵家の小間使いが、と思ったけれど、招待客全員の屋敷を回っていると聞いたハプニディルカ伯爵家の小間使いが気を利かせて、お嬢様の知り合いの令嬢何人かはこちらから知らせておくと請け負った、ということだった。


「そんな……。わたし、本当に……知らないもの……」

 ハプニディルカ令嬢はみるみるうちに茶色の瞳に涙を浮かべた。あっという間に涙は盛り上がりほおを伝って、彼女はわっと顔を覆った。


(しまった……)


 気がついた時には遅かった。オルフェリアは内心血の気が引いた。この展開はミュシャレンにやってきてすでに片手以上の数経験している。


「ちょっとあなたひどいんじゃなくて。さっきから聞いていたら、とんだ言いがかりじゃない」

 涙に濡れた友人の代わりとばかりに今度はジョーンホイル令嬢が口を開いた。 


「言いがかりって。わたしは事実を言っただけよ」


 すぐに謝ればいいのだろうけれど、そもそも意地悪をしてきたのはそちらではないか。そういう思いもあって謝罪の言葉がすんなり出てくるほどオルフェリアはまだ大人ではなかった。


「それが言いがかりではなくって、ということよ。まるでレーンメイナがあなたにいじわるをしたみたいじゃない」

「べ、別にそこまでは言っていないわ」

 いや、絶対にそうだろう。とオルフェリアは確信していたけれど、ここは譲歩した。

「わ、わたし本当に何も知らないのよ。どうしてオルフェリアはいじわるをおっしゃるの」

 ハプニディルカ令嬢は嗚咽をこらえながらオルフェリアをしっかりと見据えた。

 いじわるなんて言っていないのに。


 これでは本当にオルフェリアの方が悪い子みたいだ。というかそういう筋書きなのだろう。現に遠巻きにことの成行きをうかがっていた人々は皆、ハプニディルカ令嬢の方へ同情的なまなざしを送っていた。

「い、いじわるだなんて……」

 失敗した。オルフェリアは唇をぎゅっと噛んだ。


「やあだ、メンブラート様ってこわぁい」


 ここで今まで口を挟むことのなかったオズワイン子爵令嬢がその場にそぐわない暢気な声をあげた。

 とくに自分から何か行動を起こすことをしない癖にこうやって一言爆弾を投げて場を引っかきまわす厄介な子だった。


「ちょ、ちょっと」

 オルフェリアはたまらず口を開いた。


「もういいわ。行きましょう、レーンメイナ。そんなに泣いたら目が腫れちゃうわよ。冷やした布借りましょう」

 結局この場はジョーンホイル嬢の独壇場になったも同然だった。

 すすり泣く親友を優しく慰める優しい令嬢を演出し、オルフェリアを一人だけ残して三人はあっさりと退場した。


 その場に残されたオルフェリアの耳に入ってきたのは。


「あらあれ、誰かと思ったらメンブラート伯爵家のご令嬢ではなくって。ほら、あの」

「まあ、あのいじわるって噂のある?」

「お高くとまっているのよ。なにしろ現王家よりも古い血筋ですもの」

「そういえばあんまり愛想のない子だものね」


 ひそひそと声を隠し切れていない噂話の数々だった。


「けれど、現在伯爵はご不在でしょう?色々と苦しいのではなくって」

「ええそう、長らく家を空けているとか」

「彼女の着ているドレス……ずいぶんと古い形ですものね」


 オルフェリアが周辺を見渡すと、とたんに婦人や令嬢たちはさっと視線をずらした。

 結局今日もオルフェリアは負けてしまった。

 何にというと、女の子同士のなれ合いというやつに。でも、絶対にハプニディルカ家の使いの者だと名乗った。叔母が嘘を言うはずなんてない。


 園遊会でひとりぽつんと取り残されてしまったオルフェリアはため息をついた。

 こちらに向けられた好奇な視線にさすがに耐えきれなくなってオルフェリアはそそくさとその場から離れた。


(だって……確かにそう名乗ったって……)


 結局意地悪をしているのはオルフェリアのほうだってことになってしまう。

故郷にいた時は姉や妹弟たちとつつがなく意思疎通が図れていたのに。


 王都に出てきてからずっと人間関係に躓いてばかりだった。それも同じ年頃の令嬢らから数人がかりで言い含めれること多数。いつの間にかオルフェリアはお高くとまった意地悪な令嬢、という役回りを与えられてしまっていた。


 オルフェリアは広い庭園を当てもなくぷらぷらと歩いた。

 本当はすぐにでも帰りたかったが、あいにくと迎えの馬車はあと二時間ほどやってこない。専用の御者なんていないから仕方ない。


(まあいいわ。どこかで時間でも潰せばいいんだから)

 広い庭園だからどこかにベンチでもあるだろう。そう思ってきれいに切りそろえられた植栽に沿って歩いていると前方に男性の姿が見えた。

 横を通り過ぎようとしたとき、クスリと笑われた。

 オルフェリアは思わず男の方へ顔を向けた。


 二十代の男だった。といっても二十代になりたての初々しさはない。おそらくは二十五は超えているだろう、金茶髪に緑玉のような色の瞳が印象的だった。


 そしてなによりもオルフェリアが驚いたのはその顔に見覚えがあったからだった。

 オルフェリアはとっさに後ろを向いた。

 まずい。そういえばイグレシア子爵夫人が言っていた気がする。ファレンスト氏の持ってきたお菓子がどうのこうの、と。


「こんにちは。噂通りいじわる令嬢なんだね。メンブラート伯爵令嬢」

「なんですって」

 背後から聞こえてきた言いがかりに、オルフェリアは反射的に振り返った。

 すると面白がっているような、きらりと輝いた双眸と目があった。

「これは失礼しました。メンブラート伯爵令嬢、もしくは……オルフェリア・マイン、どちらで呼んだ方がきみにとってはいいのかな?」


(この人わたしの正体を知ってる!)


 オルフェリアは自分の仮の名前をあっさりと口にした青年から逃げ出すようにその場から立ち去った。

 迎えの時間にはまだ早かったけれど、これ以上あいつと同じ空間にいたら何を言われるかたまったものではない。


 ディートフレン・ファレンスト。彼はオルフェリアが正体を隠して偽名で働いている貸本屋『メル・デ・フィオーニ』の会員なのだった。


              ◇◇◇


 翌日の朝。

 貴族の令嬢とは思えないような早起きをしたオルフェリアは使用人が用意してくれた水で顔を洗って寝巻から普段着に着替えて階下へと降りて行った。

 オルフェリア付きの侍女はいないから着替えなどは自分でする。

「おはようございますオルフェリア様。朝食できていますよ」


 台所番のコロナー婦人のあいさつを受けてオルフェリアは家族用の小さなダイニングでパンとハムとチーズの朝食を素早く平らげた。

 朝食を食べて簡単に身づくろいを済ませて、コロナー婦人から昼食のサンドウィッチを受け取って家をでた。


 今日は早番のため八時半には職場に到着していなければならない。乗合馬車に乗って職場までは大体三十分といったところ。

 オルフェリアの職場はミュシャレンの商業地区にある。すぐ近くには会社の事務所が並ぶ通りがあるのでオルフェリアの働く貸本屋の顧客はこうした中流層が多い。


「おはようございます」

「おはよー」

 オルフェリアが挨拶をしながら店の裏口を開けると猫を抱いたかっぷくのいい男性がのんびりと返事をした。


「表の返却箱に入ってた本、カウンターの上に置いておいたからあとよろしく」

 店長のバルドーはそのまま猫を抱いたまま事務所の椅子に座り、船をこぎ始めた。座って数秒で夢の中に入れる彼の特技だ。


 オルフェリアは自分用の戸棚から前掛けを手にして素早く身につけ、ついでにはたきも持って店の中の埃を手早くはたいていく。閉店後に返された返却本の返却手続きをしつつ表玄関の看板を開店中にひっくり返して、表側に面した窓のカーテンを開いた。

 いつもの日常だった。

 ぽつんぽつんとやってくるお客の相手をしつつ、手持無沙汰になると店の本をいくつか見繕ってきてカウンターの中で読みながら過ごす。


 この仕事の最大の利点は本が読み放題なことだ。ついでに新聞も。

 このまま本に没頭していたら昨日起こったあれやこれも忘れることができるかもしれない。

 と思ったのはオルフェリアだけで、少し遅いお昼休憩のころ合いを見計らって招かれざる人物が店の扉を開いた。


 カランと扉に付けられたベルが鳴った。

 顔をあげて入ってきた客を確認するなりオルフェリアはすぐさま下を向いた。


「やあ、昨日ぶり。そろそろお昼の時間じゃない? せっかくだからお昼ご飯一緒にどう? ごちそうするよ」

 片手をあげた昨日の青年、ディートフレン・ファレンストはとびきりの笑顔でオルフェリアを誘ってきた。


「いいえ。お昼は持参していますから。ファレンスト様」

「フレンでいいよ。それにメンブラート家のご令嬢に様付で呼ばれるとちょっといけない気になるよね」

「ちょっと! 大きな声で人の名前を呼ばないでください」

 店内には他にも客がいるのだ。オルフェリアは客相手だが思い切り睨みつけた。

「でもきみ、私と一緒に昼食とる気はないんだろう。だったらここで話すしかないじゃないか。で、私はきみの本名を知っている。だからついうっかり本名の方で呼びかけるのは仕方のないことなんじゃないかな」

 フレンは面白がるような、いじわるな笑みを浮かべた。

 さっきから完全に彼のペースに巻き込まれている。冷やかしなら向こう百万年くらい先まで間に合っているというのに。


「……わかりました。場所を変えればいいんでしょう、変えれば」

 オルフェリアはやけくそ気味に答えた。

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