第3話 心の中にあるもの

 10年も前の話だ――。

 もうそんなに時が経ったのかと思うくらい、今思うと最近の出来事に思えて仕方ない。


あの日。俺はたった一つだけ、失敗をした……


「ハイロード、無理しちゃダメ。あなたに直せる保証はないのよ? 早く脱出しないと危ないわ!」

「わかってる。でも! ココで諦めたらもっと大勢の人たちが死んじゃうかもしれないんだよ? わかってて逃げるなんてできないよ!!」

 まるで地震でも起きたかのように足元が揺れ動く。

 まだ幼かった俺は『死ぬんじゃないか』と恐怖に震え、膝は笑っていた。

 でも、鞭を打ち、俺は幼いなりに自分にできることを必死にやった。

〝今みんなを守れるのは、きっと俺しかいない〟

 そんなヒーローみたいな気持ちが心のどこかにあった。

 根拠もない中途半端な覚悟で、〝やればできる〟〝きっとなんとかなる〟って思った。

 そんな自意識過剰のせいで……、俺は――。


 あれから、どれほど悔やんだことだろうか?


 毎日、泣いて…泣いて……泣いて………。身体中の水分がなくなるんじゃないかと思うくらい、俺は泣いた。

 もう一度、あの時をやり直せるなら戻りたい。

 戻って、あの時の俺に一言だけでいい。伝えたい……。


 自分はヒーローでも何でもない、どこにでもいるだたの人なんだということを。



              ◆◆◆


「!?」

 両目が開き、意識がはっきりしたかと思えば、全身が汗でびしょびしょになっていた。

「夢、か……」

 起き上がると部屋はまだ薄暗かった。心拍数が上がって、呼吸はわずかに早く、胸の辺りがモヤモヤとしている。俺の体重を長時間受け止めていたせいだろう、身体を預けていたリサイクルソファーは寝る前より少し陥没していた。

 今いる部屋は、普段生活の場となっている仕事場と隣接する寝室。ベッドが一つにボロボロだが長くて黒いソファーがあるだけの休憩室だ。

 部屋の隅に視線を移す。スースーと可愛らしい寝息を立てながら少女はベッドの上で眠っていた。

「寝顔だけみると、ほんと騒がしい奴とは思えないんだけどな……」

 アリスがここに来てからこの部屋も随分と綺麗になったものだ。以前は工具や部品、パーツが入った段ボール箱が所狭しとゴロゴロ置かれ、足の踏み場もなかったのにすっかりシンプルな場所になっている。最近は昼夜の寒暖差が激しくなり、いくら日中がうだる様な暑さだからといっても、朝方はわずかに冷える。側にあった上着を軽く重ねると、俺はアリスを起こさないよう静かに部屋を出た。

 時刻は午前4時。朝日が昇るにはまだ早い時間帯だった。蛇口をひねってコップ一杯の水を飲むと胸のモヤモヤはようやく治まってくれた。

「………」

 こんなに早く目が覚めた理由は分かっている。今日はアリスと一緒に母さんの所に行く日。ジモーさん宅から帰宅する際に決まったことだ。

 母さんに会うのはすごく久しぶりになる。年に一度だけ会うか会わないか、そんな状態が続いてもう10年。きっと会う頻度が少ないのは俺自身の問題。母さんに非はない。あの時、アリスの言葉がなかったら俺から会いに行こうなんて思いもしなかったはずだ。

 そもそも、会いに行く資格が俺にはあるんだろうか――?

 鏡に映る自分の顔に向かって問いかけるように心の中でそう思った。母さんに会いに行くとなると心のどこかでいつもそう思ってしまう。

 少しだけ右手が震えていた。左手を使って無理やり震えを止める。

 ちょっと、散歩でもしてくるかな…。

 アリスはまだ起きないだろうけど、念のため置き手紙をテーブルの上に残しておくことにした。


 清々しい朝の空気が身体中を駆け巡ってくる。天気も良好。申し分のないクラストルドの朝だ。工場入り口まで続く通路を歩いていると、頭上にあるチェーンに繋がれた大型電磁石のアームが風に煽られてゆらゆらと周囲の木々と同じように揺れていた。

「コイツの出番もめっきり減ったな……」

 門を開け、右隣りを見る。

 いつもならそこには壊れたモノたちが山のように積み重ねられてあり、工場内からも視認できるほどの山があったはず。

 これはすごく不思議なことなのだが、アリスがココに来てから工場前にゴミ山ができなくなったのだ。毎日のようにあったものが急になくなるというのは変な感じがしてならない。日々の生活リズムが崩れるというか、習慣的に朝は電磁石を操作するのが当たり前だったから、その分時間に妙な余裕ができている。

 今は亡き懐かしいものに思いをはせていると、ふと声をかけられた。

「よっ」

「!?」

 振り返るとニット帽をかぶった青年が立っていた。歳は俺と同じぐらいだろうか? ダメージジーンズにドクロが描かれた黒いTシャツを着ている。

「相変わらずって感じだな。オマエの家、ちっとも変ってない」

「?」

「ん? どうした?」

「あ、いや…、どちらさんかな~って……」

「ぷっ…、ははは!! そうかそうか! オレの顔忘れてたのか! そりゃそうだ、あれから8年ぶりだもんなぁ」

 笑い声を上げながら、男はニット帽を取った。

「この傷。覚えてるだろ?」

 青年が額を突き出しながら指さす。『ほらっ』と言ってはグイッと顔を近づけてくるものだから、俺は青年の額を覗き込まざるを得なかった。

「ど、どこにあるんですか……?」

「ん? 見つかんない? おっかしいなぁ、確かにあるはずなんだけど…、あれから大分経ったから薄くなったか?」

 おいおい、『おかしいなぁ』じゃないよ! この人そんなに薄い傷を探せっていってたのか!? ならそうって早く言ってほしいな。

 まったく。俺は念入りに、よくよく目を凝らした。失礼だけど擦りながら。すると、ようやく何か鋭いもので切られたのだろうか、一本の薄い傷を発見できた。目を細めて確認しないと分からないほどの小さな傷痕。やや右よりで、斜めに走っている。

「見つかったか?」

「えっ…、まあ、一応……」

「思い出したか?」

「えっと……」

 コレだけで思い出せとか無茶じゃない!? そもそもこの人本当に知り合いなのか? ただ単に人違いなんじゃ……

「なんだ、まだ分かんねぇーのか? ガキの頃、確か普段は右利きなのに、ハイロはフリスビー投げる時だけは左利きだったんじゃないか?」

「えっ…」

「そんである日、本気になってフリスビー投げたら、飛び過ぎて木に引っかかっただろ? アレ取ってやんの結構大変だったんだぜ」

 目の前で笑いながら話す青年の顔に幼い頃の記憶が照らし合わされていく。ぼんやりとみている風景が焦点が合うように重なり合う。

 そう、幼い頃。高い木に引っかかった俺のフリスビーを取ってくれたあの人は、確かに枝で額を切った。大した出血じゃなかったけど、その時俺は初めて自分のせいで他人が血を流すところを見たんだ。

 泣くしかなかった。泣くこと以外思いつかなかった。

 泣いたところで状況が変わるわけでもないって分かってても涙が止まらなかった。でも、あの人は怒らなかった。むしろ泣きわめく俺の頭に優しく手を置いて慰めてくれた。

『ハイロ、男はそう簡単に泣いちゃいけない生き物なのさ。涙を見せていいのは自分が本当に大切に思った人のために取っておくもんだ』

 当時観ていたテレビのヒーローと同じようなセリフをかましては、『こんな傷、唾でも塗っとけばすぐに治る』なんてカッコつけて、痛いはずなのに笑ってた。そういえば、俺のことを初めてハイロって愛称で呼んでくれたのもあの人だった。

「おっ、やっと思い出したって顔になったな」

「カサラ兄……だよね」

「おう正解。ハイロも元気にしてたみたいで安心したぞ」

 カサラ兄は微笑みながら再びニット帽をかぶった。

「久しぶりにも程があるって! いつこっちに戻って来てたの? 連絡くれれば迎えに行ったのに……」

 カサラ兄は小さい頃よく俺の遊び相手をしてくれた人だ。でも、本当の兄じゃない。ご近所さんってやつだ。本名はカサラ・ニルヘルトといって、歳は俺より四つ上。お互い近くに住んでいたこともあって随分と可愛がってもらったものだ。

 8年前。カサラ兄は両親の都合でクラストルドから遠くの街に引っ越すことになって、それっきり会えない状況が続き、現在に至る。

「そうだなぁ、つい二週間ぐらい前だったか…? いよいよオレも本気で就職先見つけないとヤバい感じなもんでさ。ほら、オレって毎日遊んでばっかりだったから、オヤジやおふくろがすげぇー心配しててよ、そろそろちゃんとした仕事探して親孝行する時期なんなのかなって思ったわけ。けど、最近って就職難だろう? 引っ越し先の街じゃどこも雇ってくれる所がなくて、クラストルドに個人的に帰ってきたってわけさ」

「もしかして、ウチの前に立ってた理由ってそれ? あいにく、俺の工場は……」

「あ、いや、仕事なら見つかったから問題ない。ただ……」

「ただ?」

「おまえのガールフレンド、具合大丈夫なんかなって思って」

「は?」

「ほら、今おまえんとこに黄色髪の女の子いるだろ?」

 な…、なななっ!? 何でカサラ兄がアリスのこと知ってんだ!?

 しかも〝ガールフレンド〟とか!! そういう方向に思われてるわけ!?

 飲み込んだ唾が気管支へ侵入し、危うくむせるところだった。突然のことでわけが分からない。きっと目がぐるぐる渦を巻いて混乱してる。

 今しがた治った胸の鼓動も別の理由で再びドキドキと強く脈打ち始める。

「な、あ…、ええっ……と……」

「?」

「俺と…あいつは、そ、そういう関係…じゃなくて…、な、なんて言うか…」

 苦し紛れに出たような言葉は自分でも何を言っているか理解できなかった。

「ははは、そんなに顔赤くして隠さなくたっていいじゃねぇーか。まあ、ハイロの良さを分かってくれる理解ある女性でよかったな」

「いや…、だからそういう関係じゃ……」

「ん? なら何だって言うんだ? すでに同居もしてんだろ?」

「そ、それは……」

「ほらっ、また赤くなった」

「ち、ちがっ! ああっ、もう!!」

 ほとんど言い訳にしか聞こえない俺の会話は続いた。

 カサラ兄に状況を伝えるため、一方的に俺が弁解を取る形となり、案の定、アリスが石像だったと本当のことを言っても『おまえ誤魔化すの下手だなぁ。苦し紛れはよくないぞ』などと言われる始末。信じてもらえるはずもなかった。

 ふと、海鳥の鳴き声が強く聞こえた。鼻腔に潮の香りや生臭い魚の臭いが直接ただよってくる。

 二人で喋りながら港の近くまで来てしまっていた。

「よく喋るなぁ…ハイロ、疲れねぇーのか?」

「そりゃ…、つかれ……るって……」

 ぜいぜいと息を切らしながら俺は答えた。

「…まぁ、ハイロが言いたいことは大体わかった。つまり、彼女を放って置けないってことだろう? 昔から優しいなおまえは、ちっとも変わってない」

「………」

 カサラ兄は海に足を投げ出す形で港に腰を下ろした。

 スーッと軽く息を吸い、俺が隣に座るのを確認すると話を続けた。

「彼女…アリスちゃんだっけ? 街で見かけた時は熱中症になって倒れそうだったからなぁ… ジモーさんの家まで運んだの、実はオレなんだぜ?」

「そうだったの!? エルラさんが〝ニルヘルト〟って聞き慣れない名字言ってたけど、カサラ兄のことだったんだ…」

「まあな。母方の姓なんだ。引っ越してから変わったんだよ」

「……ごめん。変なこと訊いちゃったかな」

「ハイロが気にすることでもないだろう? ちょっと色々あった……それだけさ」

 カサラ兄の瞳は水平線をみていた。

 色々か…。

 家族の形は人それぞれというけれど、それは強固なもののようでそうでない。ちょっとした出来事がきっかけで揺らぎ、崩れ去る、案外あっけないものだ。だから、たとえ家族であっても互いに偽ることだってある。

〝家族〟という関係が崩れないようにするために――。

「それがどうしようもなく、辛いヤツだっているんだよ……」

「……ハイロ? どうした?」

「えっ!?」

 慌てて口を塞いだ。

 自分でも気がつかないうちに言葉が漏れてしまっていたようだった。

 胸の締め付けられるような感覚が再来してくる。ダメだ。カサラ兄には心配をかけられない。

「な、なんでもないよ! 俺ってば最近疲れてるのかな~? 仕事のやり過ぎで一人言も増えてるっていうか……」

 ズキズキと疼く胸の痛みをこらえながら俺は言った。

「ウソだな」

「!?」

「さっきも言っただろう? おまえは誤魔化すのが下手なんだよ」

「………」

「なに一人で悩んでんだ。一人で考えたって限界があるだろう? 何でも抱え込まないで他人を頼ったっていいんだ」

「でも…、カサラ兄には関係ないっていうか、余計な心配をかけるだけじゃ……」

 喋った語尾がごもる。

 海鳥が一声鳴くぐらいのわずかな間が空き、カサラ兄は黙って立ち上がるとこう言った。

「……なぁハイロ、オレが何で就職できたか教えてやろうか?」

「えっ…?」

「そうだな。まずは何で今まで就職できなかったのかって話をしないといけないな」

「え、えっ…ちょっ、カサラ兄?」

「いいから! 黙ってついてきな」

 戸惑う俺を余所にカサラ兄は俺の腕を掴んだ。

 歩くこと数分。三角の大きな屋根がいくつも見えてきた。

 何かの倉庫だろうか。近くには船が何隻も停泊し、積荷がフォークリフトで降ろされている。まだ早朝だというのに人がたくさんいて、うるさい中、皆忙しそうに仕事をしていた。道中何人にぶつかって謝ったかわからない。人混みの中を申し訳ないように掻い潜りながら、俺はカサラ兄に連れられて歩き進む。

「ちょっと、カサラ兄どこまで行くつもりなの!?」

「もうすぐさ。オレの仕事場まで」

「仕事場って…、ココ……」

 石造りになっている街の外観を極力壊さないように設計されたコンクリートや鉄の壁。天井近く何段にも積み上げられる山のような段ボール。運び込まれてはラベルを付けられ、発泡スチロールに入れられる海産物。

「そうだなぁ、こうでも言っておいた方がいいか? ようこそ。〝ヒラツ組〟へ」

「ええ~っ!?」

 ヒラツ組というのはヒラツ漁業組合の略称である。クラストルドに海の恵みを届ける漁師や漁業関係者が集う組合であり、港の一画に設けられる大型海産物取引施設だ。漁師さんが毎朝取れたての魚介類を運びこんでくるだけでなく、街の料理店や魚屋、遠くの大陸からの仕入れ業者がやってくることも少なくない。

 無論。ココに就職するなんて簡単な話ではない。大概はそれ相応の魚介類に対する知識のある人材が求められ、力仕事から仕分けや計算などのスキルが要求される場合だってある。ましてカサラ兄は漁師の家系でもなければ、魚介類に対する専門知識も持ち合わせていない。容易に就職できるような職場ではないと思うのだが。

 海産物の直売所に差し掛った時、ふと側面からの声に呼び止められた。

「カサラッ! どこに行ってたんだい!? とっくに仕事の時間は始まってんだよ!!」

〝綺麗な声〟というよりは〝力強い〟と言い表した方が適しているような大声にカサラ兄の足が止まる。

「な、ナエさん……」

 声が震え、身体がガチガチになりながら返答するカサラ兄。この女性、相当な強者らしい。〝巨体〟と言うのは失礼かもしれない。包容力抜群なボディがゴム手袋をはめたまま、ゆっくりと近づいてくる。

「まったく、どこをほっつき歩いてたんだい? そんなんじゃ、せっかく見つかった仕事もすぐにクビになっちまうよ! 働く気ないのかいっ!!」

「あっ…あります!! す、すぐに支度しますっ!」

「40秒で支度しなっ!」

 背中をバシッと叩かれ、活を入れられたカサラ兄は猛ダッシュで駆け出していった。

 ええっ!? ここまで連れてきていおいて、俺は置いてきぼりですか?

 一人取り残された俺は、気まずいことにナエさんという壁に阻まれてその場から動けなかった。

〝鉄壁〟とはこういう人のことを言うのかもしれない。

「おや? あんたは…。もしかして、スティッカーさんとこの息子さんかい?」

「えっ…、あ、はい。そうですけど……」

 あれ? この人…どこかであったか?

 まったく、今日は頭の調子が悪い。

「おやまあまあ、お母さんに似て大きくなったわねぇ、わたしが最後に見た時はこんなに小さかったのに。時の流れってのは速いもんだわ」

 ナエさんがジェスチャーで手を水平に指し示す。

「あ、あのう…」

「あら、ごめんねぇ。そう言っても分からないわよね。ちょっとあっちの方でお話でもどう? ここじゃお客さんや仕事の邪魔になるだろうし。わたし、あなたのお母さんとは高校の同級生だったのよ」

「は、はぁ…」

 ナエさんが振り向き、足を踏み出した時、タイミングが良いのか悪いのか、カサラ兄が黒いエプロンに同色の長靴姿で戻ってきた。

「じゅ、準備できました! ナエさんッ!!」

「お、準備は速かったじゃない。よろしい。それじゃ、わたしはちょっと席を外すから、途中になってる仕分け作業やってちょうだい? バーコード振る機械はその辺に置いてあるから」

「えっ、今日はレジ打ちを教えてくれる予定じゃ……」

「いいからやっときなさい! 遅刻した罰だよ」

「はっ、はい!!」

 カサラ兄、振り回されてんなぁ…。


 ナエさんに案内されて俺は特産科の休憩室に通された。長方形のガラステーブルを囲むように黒のソファーが置いてあり、壁を埋め尽くすように着替え用のロッカーがいくつも設置してあった。話によるとヒラツ漁業組合はいくつかの部署に別れているらしく、ここは海産物や街の特産物をまとめ、販売する部署らしい。

「お茶入れるからテキトーに座ってて」

「あ、はい」

 ナエさんが備え付けのコンロの方へ行くのを見てから、俺はソファーの端に腰を下ろした。今さらだが、どうしてこうなってしまったんだろう? カサラ兄から就職までの経緯を聞くだけのはずが、随分と踏み込んでしまったしまった気がする。当の本人は到着するなり仕事に駆り出されるわ、母さんの知り合いには会ってしまうし…。高校時代の同級生と言っていたが、ナエさんはどこまで母さんのことを知っているんだろう? 

 もし母さんの話をしなければならなくなったら、俺は正直に話せる自信がない。

 一人で悶々と考え込んでいるとナエさんが湯呑み茶碗を二つ運んできた。

「お待たせ。はい、どうぞ」

「ど、どうも…」

 緑茶だろうか。縁起のいいことに茶柱が立っていた。

 ナエさんが向かいのソファーに腰かける。

「さて…、ハイロードくんで名前合ってるかい?」

「はい…。あ、長いのでハイロでいいです。みんなそう呼ぶので」

「そう。ならハイロくん。カサラとはお知り合い? わたしには無理やり連れて来られてるように見えたんだけど」

「それなら心配いりません。カサラ兄とは幼い頃からの付き合いですから」

「おやおやそうなのかい? わたしはてっきりあの子がまた何かしでかしたんじゃないかって心配だったもんでねぇ」

 ナエさんがお茶をズズズっとすする。

「カサラ兄ってそんなに問題児なんですか?」

「そうねぇ、トラブルメーカーなのは確かだね。ココに来てからまだちょっとしか経ってないけど、仕事中も落ち着きがなくて失敗が多いし、困るよう、わたしも」

「あはは……」

「まあ、根はいい子だってのは分かってるし、一生懸命なところはあの子の指導者として褒めるべき点なのかもしんないけど。ハイロくんは、なんであの子がココに就職できたのか不思議じゃなかったかい?」

 ナエさんの問いかけに対して俺は首を縦に振った。

 元はそれを聞くためにカサラ兄に連れて来られたのだから。

「あの子ねぇ。独りで頑張り過ぎてたんだよ。募集してる企業に行っては断られを何回も繰り返して、だいぶ疲れてたんだろうねぇ。ジモーさんに話を聞いたら初日はぐっすりだったって言うし…」

「あ、あの…ナエさん?」

「あらいけない。わたしとしたことが感情的になってたよ。ちゃんと順序良く説明しないと分かるものも分からなくなってしまうね。あの子、この街に来てすぐにジモーさんところの娘さんに会ったらしくて。なんでも無くした物を一緒になって暗くなるまで探してあげたてたとか……」

 その話は思い当たる節がある。

 つい先日に解決したことだが、俺よりも先にカサラ兄がニーナと一緒にガンダルフィードを探してあげてたってことか……。

「結局、見つからなかったらしいんだけどねぇ。ただ、代わりに娘さんにはえらく気に入られたらしくて、それがきっかけでジモーさん宅に住み込みになったらしいよ。そして、『仕事を探してる』ってジモーさんに相談したらしく、わたしのところに電話が入ってきたんだよ。まあ、ジモーさんはココのオーナーにも等しいわけだし、人手が欲しいって思ってた時だったから、わたしも承諾したってわけさ」

 なるほど。一連の過程はナエさんの説明で納得がいった。

 つまりはコネで入ったわけか。カサラ兄も運がいいのか、悪いのやら……。

 ただ、腑に落ちない点がある。さっきカサラ兄は俺が悩んでいることを見破った。その結果として自分の就職に至るまでの話をしようとココへ俺を連れてきた。

 どうして自分の話をする必要があったんだ?

「どうしたんだい?」

 いつの間にか、ナエさんが俯く俺の顔を覗き込んでいた。自分でも知らないうちに考え込んでしまっていたらしい。

「い、いえ…、別に」

「ふふ、カサラがあなたをココに連れてきた理由、なんとなく想像がつくわねぇ」

「えっ…」

「だって、あなたを見てるとココに来たばかりの頃のカサラの顔を思い出しちゃってね。その悩ましい顔。何でも独りで背負い込んじゃって疲れたって顔じゃない」

「そ、そうですか…? 俺は…そんな……」

「自分じゃ気づかないことだってある。良く言うじゃない、『人は独りでは生きていけない』って。誰がそんな上手いこと言ったのか、わたしにはさっぱり分かんないけど、案外独りで困ってることって他人の助言や協力で何とかなっちゃうこと多いと思わないかい? その典型例があの子だよ。両親に心配かけたくないからって飛び出して、仕事もろくに見つからなかったヤツなのに、人の助けを借りて今ではちゃんと仕事してるだろう? あ、ちゃんとは言い過ぎか。まだまだ半人前だけど。だから、きっとあの子がキミをココに連れてきたのって、〝独りで抱え込むな〟ってことを言いたかったんじゃないのかい? あれでいて不器用な子だから、失敗しながらも自分が働いてるところを見れば、あなたの後押しができるんじゃないかって考えたんだろうねぇ」

 ナエさんの話を聞きながら思った。

 状況は違うけど、結局、俺もカサラ兄と同じで一人で悩んでるだけなんだと。

 母さんに会う。ただそれだけを考えていて、会うのが辛い、怖い、嫌だ……。

 でも、本当は会いたい…。

 自分独りの枠の中で考えて勝手に苦しんで――。

 単純な話だったんだ。困っているのなら周りを頼ればいい。自分では思いつかない色んな考えを持った人たちが助けてくれる。

 俺の場合はきっとあいつだ。

 ひまわりみたいに黄色くて長い髪をしたあいつ。騒がしくて、うるさいけど、彼女が一緒なら俺も母さんと面と向かって話ができそうな気がする。

「ナエさん。俺、話ができてよかったです」

「そうかい? わたしは何もしてないよ。でも、何か吹っ切れたみたいだね。さっきよりいい顔になってるじゃないか」

「カサラ兄にもよろしく言っておいて下さい。俺、急いで戻るんで」

 ソファーから立ちあがり、ドアノブに手をかける。

「今度会った時は、お母さんの話でも訊かせておくれよ」

 背後からのナエさんの声に俺は迷わずこう答えた。

「はい!」

 海に向かって叫んだかのように、不思議と清々しかった。



              ◆◆◆


 ペンが走る。

 字はあまり上手ではないが、こういう正式なものを書く時はやはり緊張するものだ。力を入れて書く必要がないことが分かっていても、妙に力んでしまう。

「ねぇ、ハイロ。〝びょういん〟ってところはすごく静かなんだね…」

 受付で面会用の書類を書いていると隣でアリスがそう呟いた。病院内の独特な雰囲気を察したのか、いつもより声のボリュームは控えめであった。

 あれから家に戻り、今俺はアリスを連れて病院に来ている。一時はどうなるかと思った。帰って早々に、『私を放っておいてお出かけなんてずるい!』なんて言ってムスッとした面構えで仁王立ちしていた彼女に対し、どう言い訳したか覚えてないぐらいだ。

「ここは身体の具合が悪い人たちが集まるところだからな…」

「そっか、なら静かにしなくちゃね…… ん? ならハイロのお母さんも〝ぐあい〟悪いの?」

「………」

「?」

 俺の手が一瞬止まった。ちょうど最後の文字を書き終わったところだった。

 そのまま受付の女性に紙を手渡す。

「ほら、行くぞ」

 足早に近くの階段へと向かった。

 クラストルドの中央に立つこの病院は外壁こそ白だが、内装は〝樹の中〟をコンセプトに作られてあり、木目の落ち着いた空間となっている。〝東階段〟と頭上に書かれた螺旋状の階段を俺とアリスは一歩また一歩と登って行く。

「ハイロ、遅いー。なんでそんなにゆっくりなのー?」

 アリスは階段を上る時でさえ、楽しそうにしていた。運動不足が祟ってか、俺の方が少々疲れを感じてしまっている。

 ただ、進行がゆっくりな理由はそれだけでない。気持ちの整理ができていないのも一理あるからかもしれない。

 跳ね上がる様に昇っていくアリス。そう言えば、不思議に思うことがあった。ここに来る途中、彼女は俺と一緒に母さんに会うというという約束をした覚えがないと言ったのだ。記憶にあるのだが、した実感がないとも言っていた。抜けた性格からして単に忘れただけだろうが妙な感じを受けた。

 考え、過ぎなんだろうか?

 目を走らせるとその階ごとの案内板があった。

〝二階〟

〝三階〟

 階を重ねる毎に壁にそれらが目に突き刺ささる。

 そして――。

「………」

 まったく身体は正直だ。何も考えていないのに母さんのいる四階でピタリと足が止まるのだから。

 まるで地面に吸いついたようだ。全然足が上がらない。俺が急に止まったから不審に思ったのだろうか、前方を行くアリスが懸念の声を上げる。

「ハイロ? どうしたの?」

 すぐに反応できなかった。数秒遅れて戸惑いながら俺は返事を返す。

「ど、どうした!?」

「それじゃオウムさんと同じだよ。大丈夫? さっきから何かそわそわしてるし」

「そ、そうか? 気のせいだろ」

「ならいいけど…」

 無理やり不安を押し殺し、これ以上アリスに悟られないよう表情を繕った。彼女に心配されるようじゃ、今の俺は相当すごい顔しているんだろう。こんな顔をしていたんじゃ母さんに会ってもまた同じことになる。

 それだけは避けないと――。

 俺は自分の頬を数回叩いて念じるように気合をいれた。

 今度こそ、俺は母さんにちゃんと謝らないといけない。

 ようやく地面から剥がれてくれた足を引きずって病棟内を進む。突き当たりを曲がると〝303号室〟と書かれた番号札と名前が視界に入ってきた。


《フォルア・スティッカー様》


「ここ?」

 アリスが確認してきた。

 俺は首を縦に振る。

「ちょっと待ってな。母さんに話してくるから」

「一緒に入っちゃダメなの?」

「あのなぁ、おまえ初対面だろ? いきなり入って〝誰だコイツ?〟って思われたいのか? 連れがいることを伝えてくるだけだからさ」

「アリスだよって言って入ればいいんじゃないの?」

「はぁ…」

 頭が痛い。

 最近少しは良くなってきたと思っていたがこの天然っぷりは相変わらずである。 けど、胸のモヤモヤがいくらか抜けた感じがするのは彼女のおかげだろうか。

「すぐ呼ぶから、少しだけ。いいな?」

「うう…、わかった」

 後ろでぐずつくアリスから向き直って俺は軽くドアをノックした。

 コンコンッと二回ほど。

「どうぞ」

 母さんの声。ドア一枚挟んで向こう側から返事が返ってくるまではそうかからなかった。

 俺は扉を横にスライドさせて中へと進んだ。


 窓際のカーテンが風になびいていた。夏の強い日差しが部屋の中へ差し込む。白いベッドの上で母さんは本を読んでいた。

 あの頃と変わらない、穏やかで優しい顔で――。

「あら? どういう風の吹き回しなのかな。あんたがここに来るなんて今日は可笑しな日だね」

「べ、別に来たくてきたわけじゃ……」

「ふーん…」

 読みかけの本に栞を挟み、長い髪の毛を一払いすると母さんは両手を揃えて俺に向き直った。何も言わずに、ただじっと。

 数秒も持たなかった。

 反射的に俺は顔を背けていた。母さんの目をみるとどうしても胸が苦しくなる。とてつもない罪悪感が身体の奥底から湧き上がり、全身を駆け巡る。

 言わなきゃいけないことは頭の中で出来てる。ただ一言だけ、たったの一言だけ自分の口から言うだけなのに、拳を強く握り、歯を食いしばったところでそれが変わることはなかった。

「やっぱり、目をみて話はできないんだ…。残念だねぇー、ここに来たってことは、あたしに用事があって来たんでしょう? 隠したって無駄。一応あたしはあんたの母親なんだから。息子が何考えてここに来たのかぐらい大体の察しはつくよ」

「母さん…、俺……」

 必死に口を開こうとするが、パッと平手が前に出された。土俵入りした力士の鋭い突っ張りのように母さんは俺の言葉を遮った。

「おっと、そういうことはちゃんと目をみて言わないとダメだって前から言ってるでしょ? そんな調子じゃ、今日もまた言えないで終わるのかな?」

 分かってる。

 そんなことずっと前から知ってる。

 頭で理解していても正面が向けない。顔は背いたまま。

 なんで向けないんだよ! 簡単だろ? ただちょっと首を動かすだけなんだから。

 念じたところで状況が変わるわけもなかった。

 あれからもう何年も経つというのに、どれだけ時間をかけてもたったこれだけのことが出来ないのだから情けない話だ。

 悔しさに任せて握った手の爪が皮膚に喰い込みそうになった時、扉は開いた。

「ハイロ~、まだぁ?」

 一瞬思考が真っ白になった。

「なっ…、アリス!? まだ入って――」

「あらあら、まあ…」

 ドアに隠れながら黄色い髪が顔を覗かせた。母さんと俺の視線が予期せぬ来客へと集まる。

 おいおい、まだオッケーって言ってないぞ!

 口に出さなくても俺の言いたいことが伝わったらしい。俺の顔をみたアリスが身震いし、申し訳なさそうな表情で顔を隠した。

「ハイロード」

「あ…、はい」

 やばっ、矛先は俺の方に来たか。

「あんたの考えてること。あたしは分かってるつもりだったけど、今回ばかりは外れちゃった」

「へ?」

「そこのお嬢さん。入っていいわよ」

「ほんと? 入っていいの?」

「ええ、いいもなにも、まさかウチの子が女の子を連れてくる日が来るなんて夢にも思ってなかったわ」

「あ、いや…、母さんこれは……」

 なんか嫌な予感がしてきた。

 今朝のカサラ兄の反応からして、今の俺のポジションが周囲からどんな風に思われているのか大よそ分かってきている。

 俺とコイツはそんな関係じゃない。

 早いとこ説明して――。

「へぇー、アリスちゃんっていうんだ。うん。可愛い! ハイロードにはもったいないくらいだわ。おウチはどの辺りなの?」

「ん? わたし自分のウチしらない。でも今はハイロと一緒にすんでるの」

「一緒にっ!? もうそんな親密な関係まで……」

「〝しんみつ〟って仲がいいことだよね? そうだよ。ハイロとは仲良しだもん」

「んーっ! 青春してる!! あの子も案外やるところあるのねぇ」

「でもハイロ、『忙しい』っていってあんまりかまってくれないときがあるの。ちょっとさみしいけど、最近友達できたからその子のところに遊びにいったりしてるんだ。ニーナはハイロと違ってよく遊んでくれるから」

「あらそうなの? 誰に似たんだか。仕事熱心なのもいいんだけど、プライベートは上手く両立しないとね。アリスちゃん、ハイロードのこと嫌いにならないであげて。あの子根はとってもいい子だから。ハイロード、あんたもこんなにいい子を逃す手はないわよ?」

「か、母さん…、あのぅ…」

「なに!!」

 鋭い眼光。思わずたじろいだ。

「な、なんでもありません……」

 そんな鬼みたいに怖い顔をされたんじゃ引き下がるしかないじゃないか。

 それにしてもこの話に割って入れない妙な雰囲気。親近感のある会話のやり取り。ガールズトークってやつかもしんないけど、仮にも会って数分だろう? どうやったらこんなに打ち解け合えるんだよ。

 まあ、俺は完全に蚊帳の外って感じだし、外の空気でも吸ってくるか。

 静かに部屋の外へ足を向ける。

「ハイロ?」

 背中側から不審がるアリスの声が聞こえたが、俺は聞こえないフリをしてドアを開けその場を後にした。

「ハイロのお母さん。ハイロどっか行っちゃったよ?」

「心配しなくても大丈夫。いつものことだから」

「いつものこと?」

 アリスが首をかしげる。

「そうね。アリスちゃんには話しておこうかな……あたしがどうしてココにいて、ハイロードがあたしと向き合って話せない理由を――」


              ◆◆◆


 母さんのいる階よりさらに二階上に上がると屋上がある。

 軋むドアを押し退けると、強い日差しが降り注いだ。外はまだ暑い。ジリジリと足元のコンクリートからも熱が伝わってくる。

「はぁ…」

 近くの柵にもたれかかると大きな溜め息が漏れた。今の自分の不甲斐なさとあの時の後悔、色んなものが一気に混ざり合ったような感覚が全身を駆け巡っている。

 アリスがいてくれれば何か変わる気がしていた。あいつが一緒なら俺も頑張れるって思ってた。

 でも実際はどうだ? 何か変わったか? 

 いや、変わってない。

 今までと何一つ変わってない。

 結局、今回も俺は母さんから目を背けてしまった。アリスが部屋に入って来てからだってそうだ。一度だって母さんの目を見て話せていない。

 アリスと話をしてる母さん、すごく喜んで笑ってたのにその顔すらまともに見れなかった。

 やっぱり俺は臆病者だ。

 皆が憧れるようなヒーローなんかじゃない。ただの人。ちょっとモノが直せるからと言って他に何のチカラもない一般人だ。結果的にアレが大勢の人を救うことに繋がったのかもしれないが、あの時の俺は身近にある大事なものさえ見えていなかったのだから。

 今さら許してもらえるはずがない。

「ココにいたんだね…」

 声のした方へ振り返る。黄色い髪が風になびいていた。

 俺の後を追ってきたのだろうか。屋上の入り口付近に立つ彼女はいつものお気楽な感じではなく、冷静で、どこか悲しい雰囲気を漂わせていた。

「全部聞いたよ。10年前、あなたは海上で事故にあった。フォルアさんと一緒に」

「……母さんに聞いたのか?」

「岩盤への激突。衝撃で船底には大穴が開いた。当時8歳だったあなたは――」

「…っ!!」

 自分でも不思議だった。

 淡々と話す彼女に、どうしてあそこまで感情的になってしまったのか。

 目を背けたい過去。頭で考えずとも、熱いものに触れて手を引っ込めるように身体が素早く反応する。

「母さんに聞いたのかって! 言ってんだろッ!!」

 周囲に自分の怒鳴り声が響き渡った。

 彼女の言葉がピタリと止む。

 一緒に時間までもが止まってしまったかのような大気の震え。きっと俺は眉間にはシワが寄ってまるで化け物のような形相をしていたはずだ。

 けれども彼女はたじろがなかった。ただ真っ直ぐと俺の目を覗きこむ。

 紅に染まるその瞳で――。

「ハイロード・スティッカー。あなたはそれでいいの?」

「……いつになく真剣だな。おまえらしくない」

「たまにはいいじゃない。普段と違う私でも」

 アリスがくすっと微笑む。

 同時に場の緊張感がほぐれた感じもした。

「いつかおまえにも話すときが来るんじゃないかって薄々思ってた。けど、案外あっさりと来てしまうもんだな。ココ来いよ。母さんからどこまで聞いたか知らないけど、俺の口からも聞いてほしいんだ」

 応じかけにアリスは頷いた。俺は背中を柵に寄りかけながら話し始めた。

 あの日のことを――


              ◆◆◆


 その日は穏やかな天気だった。

 何百人もの人を乗せて航行できる最新鋭の豪華客船がクラストルドに来航し、その記念式典を行う日。当時8歳だった俺と母さんは、父さんが仕事のお礼にもらったという乗船チケットを持って港に来ていた。

 そう、偶然とは恐ろしいものだ。

「父さんもこの日に仕事なんてついてないね」

「仕方ないでしょう。お父さんもお爺ちゃんが仕事引退してからあの工場を独りでやってるんだから、あたしが手伝ってあげられるといいんだけどね…」

 大きなお腹を擦りながら母さんが言う。

「母さんはダメだよ。お腹の中に赤ちゃんがいるんだからさ。手伝いなら俺がやるって」

「ふふ、頼もしいじゃないの。もうすぐ妹ができるって分かってからハイロードもすっかりお兄ちゃん気分なのかな?」

「そ、そんなことないよ! ただ母さんは今が一番大切な時期なんでしょ? 今日だって無理して一緒に来なくてもよかったのに」

「あら、こんな豪華客船に乗れる機会なんてそうあるもんじゃないでしょ? そのチケット二名までオッケーなんだし、行かなきゃ損じゃない。それに……」

「それに? …って、うわっ」

 母さんが俺の頭に手を置いて髪の毛をくしゃくしゃに掻きまわす。

「あたしはあんたの保護者なんだから、着いてくるのは当たり前でしょう?」

「また子供扱いして……」

「ほう? それじゃ、ハイロードは『もう子供じゃないです』って言い切れるんだね?」

「もちろん。同い年の子よりは大人だって自身あるよ」

「へぇー、あたしの記憶違いだったかなぁー? 夜中に起きて一人でトイレまで行けないって泣きわめいてた子がいたような……」

「わーッ!! か、母さん、それは言わない約束じゃ……」

 不意を突かれた俺は手を振り回し、母さんの口を塞ごうともがいた。

 慌てふためく俺の姿に母さんは苦笑していた。


 当時母さんは出産を控えており、医者の話だとお腹の中にいるのは女の子だそうだ。もうすぐ新しい家族が増える。そんな期待が頭の片隅にあったあの頃の俺は、とにかく兄ちゃん気取りでいた。仕事や家事の手伝いを率先して行うようになって、知らないうちに料理や修理の腕も結構なことまで出来るようになっていた。

 

 それだけ、〝妹〟という存在が大きかったのだ。

 

 しばらくして俺と母さんは乗船した。

 港を出港した船の中はお祭り騒ぎであった。さすがは豪華客船。まるで海に浮かぶホテルかのように各個室には高そうなベッドから小物まで置かれ、船内中央の巨大ホールには多くのお客さんが詰め寄せていた。

 食べ物はどれをつまんでも美味しい。ステージでの公演や演奏も聴いていて心地よく、普段体験できない雰囲気を俺も母さんも満喫したつもりでいた。

 けれども、不思議と息苦しさや眩しさもあった。

 外の空気を吸うつもりで船内ホールを出ると、母さんが先に出ていた。オレンジ色の夕陽が水面に反射していた頃だった。

「夕陽が綺麗ね」

「うん。ここ本当に船の上なんだよね…」

「そうね、母さんもすっかり忘れてた。けど変なのよね。ここにいると何だか合ってないっていうか…、あたしたちが貧乏なんだなって実感しちゃう」

 なんだ、母さんも同じことを思ってたのか。

 そう思うと俺の口から自然とこんな言葉が出ていた。

「……貧乏も悪くないよ」

「え?」

 水面を向いていた母さんが振り返る。

 俺は母さんの膨らんだお腹にそっと手をあてた。

「薄暗くて鉄臭い工場だけど、父さんと爺ちゃんは毎日朝から晩まで仕事して、母さんは家事とか色々やっててさ。そういう環境だけど毎日皆でご飯食べたりして過ごしてると、『楽しい』って思えてくる。ここにいると不思議と息苦しい感じがするのも普段の生活があるからなのかなって思ったんだ。だから、生まれてくるこの子にもあの工場での生活が好きになって欲しいって俺は思う」

 言い終わった時、母さんの手が俺の手のひらの上に重ねられた。

「……あたしも、ハイロードと同じ気持ちだよ。住めば都ってことなのかな? やっぱりいつもが一番って思うわ。そうだ! お腹のこの子の名前、ハイロードが考えてみない?」

「きゅ、急にどうしたのっ!?」

「ん? あたし変なこと言った? お腹の妹の名前。考えてくれないかなってこと」

「何で俺? 父さんと母さんが何か考えてたんじゃないの?」

「まあ、気にしないの。あんたの名前決めたとき直感って大事だと思ったのよね。今まさにそう思ったのよ。この子の名前はハイロードが決めるべきなんじゃないかなって」

 そう言われると、その気がないわけでもない。

 でも、すぐに浮かぶものでもない。

 だから、こう言った。

「ちょっと考えてみる」

 振り返って思う。

 あの何気ない会話のやり取りがどれだけ幸せなものだったのかと。

 今ではもう考えられない遠い記憶のように、次々と積み重なってきたものに押し潰されて……。

 頭の中に焼きついたそれは消えることはない。たとえ忘れてしまったとしても、自分が存在する限りどこかに必ず残されている。記憶喪失になった人も印象のある場所や人に会うことでふと思い出したり、変な錯覚が走ったりする。

 それだけ思い出や記憶と言われるモノには価値があり、良い悪いにしろ決して直すことのできないモノである。


 そして、アレが起こった――。


 誰もが不意を突かれたであろう。突然、船底から突き上げられるような強い衝撃。俺と母さんはとっさの判断で近くの手すりにしがみ付き難を逃れたが、きっと船内にいる多くの人やモノが一瞬の内に宙を舞い、崩れ、転倒したに違いない。

 非常ベルが鳴るまでそう時間はかからなかった。無線を持った船員が何を聞いたのか慌ただしく動き始めている。

「皆さん落ち着いて避難して下さい!!」

 当時の俺でも想像がついた。ここは海上、船底が岩盤にでも接触しない限り、あんな衝撃は起きない。そして船員が慌てながら避難を促すということは二次的な何かが起こっている可能性がある。

 俺は駆け出していた。

「ハイロードっ!? どこ行くつもり!? 待ちなさいッ!!」

「母さんは先に避難して! 俺、やれるだけやってみるから!!」

 鼓動がバクバクしていた。

 恐怖? いや…、期待に胸が高鳴っていたのかもしれない。

 自分ならこの状況を打破できるという根拠のない自信に突き動かされて…。


 船の制御室まで走ってくると思った通り、もぬけの殻であった。船員はきっと乗客の避難に駆り出されているに違いない。

〈――警告。第2地下フロアノ浸水ヲ確認。防水用シャッターガ反応シマセン。起動手順ニ従ッテ――〉

 室内の中央に設置されたコンピューターが同じセリフを何度も発している。

「やっぱり、防水用の非常シャッターが起動してない。船員が総出で乗客の避難を急がせてるのは沈没を免れないからってところか。シャッターさえ起動できれば、送電システムは………生きてる。となるとシステム自体のエラーか……」

 ポケットに忍ばせていたマイナスドライバーを取り出してコンピューター下部を解体し始める。こういった制御端末からの信号で何かが起動するタイプのシステムは言ってしまえばテレビと同じだ。リモコンが壊れて電源が入れられなくても本体を手動で動かせば起動できるはず。

「ハイロード!!」

 息を切らした声とともに制御室のドアが開く。

「母さんっ!? 先に避難してって言ったのに…」

 振り返った時、顔面に母さんの胸が飛び込んできた。ギュッと強く締め付けられる。続いて頭上から水滴が何度も降ってくる。

「馬鹿っ!! 非常識にも程がある! 何で独りで飛び出して行ったの!? 心配したんだから!!」

 母さんはしゃっくりをするように小刻みに身体を震わせて泣いていた。

「……ごめんなさい。でも、俺ならやれるって思ったんだ。非常シャッターを起動させれば、浸水は止まる。みんな慌てて避難してるし、ボートだって足りないかもしれない。沈没しちゃったら、救助が来た時には遅いかもしれないんだよ!」

「ハイロード、無理しちゃダメ。あなたに直せる保証はないのよ? 早く脱出しないと危ないわ!」

「わかってる。でも! ココで諦めたらもっと大勢の人たちが死んじゃうかもしれない…。 わかってて逃げるなんてできないよ!!」

 母さんを振りほどき、俺は分解したパネルに向き直った。大丈夫。いつも父さんの手伝いをしてたじゃないか。俺にだってきっと直せる!!

「ハイロード…」

 システムパネルの内部構造は大して複雑じゃない。配線の接続部の確認と信号を送っているルートさえ分かってしまえば……

 手が震え、額からは汗がにじみ出る。

 焦るな、焦るな。慌ててしまえばそれだけ正確性が失われてしまう。

「よし。これで…」

 最後に白いコードを繋ぎ直した。

 まさにその時だ。

 バチリと火花が走った。

「えっ!?」

 ほんの一瞬だった。火花に驚き、手を離したのも束の間。視界が電流の放つ青白い光で埋め尽くされた。

「ハイロードッ!!」

 悲鳴に近い母さんの叫び声を良く覚えている。システム自体の電源を落としていないまま電力供給のルート再構成したのだ。電流が急速に走り抜け、分解していたこともありカバーの外へ放電が起こってしまった。

 あの瞬間、俺は取り返しのつかないことをしてしまったんだ――。


              ◆◆◆


 少し長い話になってしまったようだった。病院の屋上から見える空は茜色に染まり始めていた。

「放電が起きた時、母さんが俺をかばってくれたんだ。目を開けた時、映り込んだ母さんの背中は電流でボロボロに焼けてた……」

 そろそろ話の終わりが見え始めたからだろうか。一方的に話をしていた俺に初めてアリスが口を開いた。

「……さっき、フォルアさんの背中の火傷見せてもらった。だいぶ治って跡の方も消えてよくなっていたよ」

「そっか、よかった……」

「それで? 結局システムは直せたの?」

「ああ、一時的な電力供給で非常シャッターを閉めるには十分だったよ。何とか浸水は食い止めて船自体が沈没しなかったから大多数の人は救われたんだ。後日、海上警備隊からは俺に表彰状が贈られてきたし、豪華客船を運営してた会社側は安全装置の不具合に気がつかなかった上に近海の岩礁地帯の把握も怠ってたことを認めて謝罪してたしね……」

「……ハイロ?」

 あの日、港へ戻ってすぐに母さんは病院へ搬送された。緊急手術。助かる見込みはあるから心配はいらない。そう医者は言っていた。父さんも駆けつけ、二人で母さんの手術が無事に終わることを祈り続けた。

 何時間経ったか分からない。《手術中》と点滅した赤いライトが消えた頃、辺りは暗くなっていた。ストレッチャーに乗せられ、点滴を下げた母さんはまだ麻酔が切れていないんだろう、穏やかな顔つきで眠っていたことを覚えている。

 その時、担当した医者から説明があった。それを聞いた父さんの愕然とした表情、身の毛が立ち、全身が震えていたこと、全部鮮明に覚えている。

 俺が話す前。アリスは母さんに話を聞いたと言っていた。だから彼女はもう話の結末がわかっているはずだ。

 世間は俺を表彰した。感謝すらした。ちょっとした英雄だ。

 でも、変わらない。

 俺の罪は変わらない。

 俺の目には一番大切なものが映ってなかった。単なる、大バカ野郎だ。軽率な行動がひとつの命を奪った。その事実は覆らない。

 視線を横に向ける。アリスは何も言わずただ微笑みかけてくれた。

 その笑顔に胸が痛くなる。

「俺の妹は……母さんのお腹の中にいる間に死んでしまったんだ。俺が不用意に起こしてしまった放電のせいで……」

「うん……」

「母体の方は難を逃れたんだけど、胎児の方は急なショックに耐えられなかったみたいでさ……」

「うん……」

「だから……俺は………」

 それ以上言葉が出て来なかった。代わりに涙が流れてきた。止めどなく。大粒の涙は次々と現れては滝のように頬を滴り、目の周りが赤く腫れ始める。

 俺はヒーローなんかじゃない。

 周りばかり見て、大事なものに気がつかなかった愚か者さ。犯した罪の大きさは償いきれるようなものじゃない。

 だからこそ、俺は母さんに合わせる顔がない。

 もう二度と面と向かって話すことは無理なのかもしれな――

「そんなこと考えちゃダメっ!!」

 ハッとした。

 黄色い髪の少女は俺の頬に両手を合わせる。そして、涙でグシャグシャになった俺の顔を抱き起こした。

「ダメだよ! 泣いちゃダメだよ!! 私、あなたが泣いてる姿なんて二度とみたくない。私を作ってくれたでしょう! 私に命を吹き込んでくれたのはあなたなんだからっ!!」

「ア…、アリス?」

「ダメだよ……また何もできないでみてるだけなんて……私……つらいよ」

「お、おい…」

 いつになく真剣に話を聞いてたかと思えば、急に感傷的になったアリス。理由は分からないがこのままだと彼女の方が泣き崩れそうだ。

「………」

「えっ…」

「………」

「アリス? おいっ! アリス!!」

 揺さぶったが返事がなかった。

 紅の瞳はくすみ、生気を感じなかった。まるで電池の切れた人形のように四肢が脱力している。

 何だ? 何が起きてるんだ?

 これじゃまるで……

「モノみたい…とでも思った?」

「!?」

 パソコンが再起動したかのようにアリスの口元が再び動き出した。風に揺らめく炎のようだった。彼女はゆっくりと立ち上がる。

「この子が石像だったことはあなたが一番良く知ってるでしょう? まったく…、《表》に出てくるなら一言欲しかったな。言うだけ言って気絶するなんて自由気ままなお人形さんだこと」

「ア…、アリス? 大丈夫……なのか?」

 髪の毛を一払いしてからアリスが答える。

「うん、大丈夫。今しがたのあなたの様子があの人に似てたから反射的に飛び出して来たんだと思う。気にしないで」

「気にしないでって……おまえ、アリスじゃない…のか?」

 彼女はくるりと背中を向けてきた。

 夕焼けに照らされるその姿はアリスの形をしているが、まったく別のモノのように思える。

 俺も立ち上がった。背中を向け語る何かと対峙するために。

「そうね。じゃあ、こう言っておこうかな。私はあなたがアリスと呼んでいるものであってアリスではない」

「どういう意味だよ……」

「私に名前はない。しいて言うなら今は彼女の身体を借りてるの」

「借りてる…?」

「あら、気がつかなかった? 前にもこの子の身体を借りてあなたと話したことあったんだけど」

 その妙な違和感を俺は知っている気がした。

「前……って、ニーナの家から帰った時か?」

「ご名答。やっぱり何となく気づいてたんだね。あの時は彼女の真似をするのに苦労したわ」

「どうしてそうする必要があったんだ? そもそもいつからアリスの中に……」

「質問が多いのね。安心して、用が済んだら彼女と代わるから」

「用…って何だよ! 答えになってねぇよ!!」

 意図せず、声が張り上がる。

「……そう活火しないの。彼女には何の危害もない。それにあなたにどうにかできるものでもないでしょう?」

「ッ!」

 確かに、俺が吠えたところで状況は変わらない。それどころか、話も進まない。

 悔しいがここは彼女の方に分がある。出しゃばっても時間が無駄になるだけだ。

 静かになった俺を確認すると彼女は言った。

「さて、本題に戻りましょう。もう一度、同じ質問をするわ。ハイロード・スティッカー。あなたはそれでいいの? あなたの罪、昔話は聞いた。今度は自分のしたことと向き合う番。今日ここに来たのは、あなた自身けじめを着けるために来たんじゃないの?」

「それは……」

 俺はグッと唇を噛んだ。悔しいが彼女の言うことが的確に的を突いてきたことに対して動揺したんだと思う。

 一体何なんだ? コイツは何がしたい?

 これは俺個人の問題だ。言うなれば、俺と母さん、二人の問題。アリスの身体を借りてまでコイツが深入りする理由はないはずだ。

 そもそもこの問題に関して解決によるメリットがコイツにはない。

 どうしてここまで踏み込んでこようとするんだ?

「だんまりか…、それもまた答えとして受け取るなら、私が追い込んであげようか?」

「それって、どういう……!?」

 ギギっと戸が軋む音がしたかと思うと、病院服のままショールを羽織った女性が立っていた。

 俺は久しぶりにその人と視線が合ったに違いない。

「母さん……」

 出入り口に母さん。ここは屋上。退路は一つしかない。一瞬にして逃げ場のない空間が構成されてしまった。

「窮鼠猫を噛むって言葉、ハイロなら知っているでしょう? 事前に打ち合わせしてフォルアさんを呼んでおいたの。さあ、遠慮はいらない。あなたの言いたかったこと、伝えたかった思いをちゃんと向き合って言えるチャンスだよ!」 

 アリスの姿をした何かがそう言った。

 一度俺は敵意を向ける目で彼女を見る。けれど彼女は動じない。誰だってそうだ。知らない相手に対してはまず先入観が先行し、それを元に思考が働き、第一印象と呼ばれるその人の勝手な特徴が浮かび上がってくる。

 今の彼女はアリスじゃない。でも、何故だろう。怖いとは思えなかった。口ではキツイことを言っておきながら、どこか後押しのあるエールにも聞こえてくる。

 だからこそ口が自然と開いたのかもしれない。

 そうだ。弱者には弱者なりの意地ってもんがある。

 いつまでも怖がってウジウジしてるなんて、俺らしくない。

 窮鼠猫を噛む……か。あいつが言ったなら、褒めてやるのにな。

 俺は腹部に命一杯の力を入れた。押し出された空気が喉を通過し声を震わせる。


「母さん、ごめんなさいっ!!」


 言った直後、深々と頭を下げた。

 でも、ちゃんと目を見た。

 ほんと、たったこれだけのこと言うのにどれ程多くの時間かけたのだろう。短かい謝罪の言葉。けれど俺には大きな一歩を踏み出せた気がする。

 果たして、鼠は猫に噛みつくだけのチカラを発揮できたのか?

 答えはおのずと返ってくるはずだ。

 一瞬の静寂が長く感じる。

 母さんは同じように大きく息を吸い、そして、吐き出した。


「この馬鹿息子!!」


 嬉しそうに笑みを浮かべながら、俺は怒鳴られた。

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