第10話 桜時の風(前編)

「いよいよ来週から小・中学校旧校舎の解体工事が始まります。今日は、五時間目の最後を少し使ってみんなで旧校舎を見て回りますから、最後のお別れをしてください――」

 担任の言葉に、聖は窓から外を眺めた。解け残った雪の小山に埋まるかのように、木造二階建ての小さな建物がちんまりと建っている。老朽化のために取り壊されることになった旧校舎は、数年前まで小学校と中学校共用の校舎として使われていたそうだ。

 残念ながら転校してきたときにはすでに立ち入り禁止にされていたために、聖は一度もそこで学ぶことはなかったが、レトロでひなびた雰囲気の外観は嫌いではなかった。雪が溶け出してからはトラックが出入りしたり、作業用の足場が運ばれてきたりしていたから、そろそろ工事が始まるんだなとは思っていたけれど。

 その日の昼休みは、なんとなくその話になった。実際にあの建物で小学校時代を過ごしたクラスメイトたちからは、壁に落書きしたけど見つからずに済んでいる、どこそこの教室のガラスを割って怒られた、腐りかけた床を踏み抜いた――そんな思い出が溢れるように湧き出してくる。

「もう、きっちりは覚えてないけどさ。旧校舎、七不思議があったんだ」

 誠太郎が言い出したのは、聖の守備範囲のど真ん中の話だった。

「どんなの?」

「まず、ほら、ここから見える桜。ソメイヨシノらしいんだけどさ、『一番桜』って言われてて、毎年咲く時期がすごく早いんだ。……今年もそろそろ咲くんじゃないか?」

 あとは何だったかな、と誠太郎は他の友達とやり取りしながら思い出そうとしている。

 聖は外を見る。旧校舎の脇に一本だけ立っている大きな桜が、件の木らしい。ここから見る限り枝は寂し気で、どう見ても花が咲きそうな気配はない。桜前線はまだ、南に上陸したばかりのはずだ。そもそもこの辺の春は遅く、去年の桜の見頃はゴールデンウイークの時期だった。ソメイヨシノが今の時期に咲くのなら、確かに狂い咲きと言っていいくらいに早い。

 誠太郎は指を折りながら、一つ一つ数えていった。

「四時四十四分に階段が一段増えるとか、廊下の大鏡に和服の女の子が映るとかさ。良くある話だけど、誰もいない音楽室のピアノが勝手に鳴り出すとか。あと三つは思い出せないなあ。……小学校のときなんかには、いつか七つ全部検証しようっていう話もあったよな?」

 同意を求められた生徒たちが、楽しげに頷く。

 聖のような転校生はこういうとき話に入れなくて、少し寂しい。そういえば、転校前の学校にも七不思議があったな、と聖は思いを巡らせた。大部分は誰かが勝手に作り上げた他愛のない話だったけれど、一つか二つは実際に人外のモノが絡んでいたっけ。

 やがて、誠太郎はみんなの意見を代弁するように「それも、もう出来なくなっちゃうのか」としんみり言った。聖は自分のことしか考えていなかったが、友人達はみな、あの小さな校舎で遊んだり勉強したりした記憶がまだ新しいはずだ。申し訳なく感じ、聖は顔を赤らめながら言う。

「セータ達は、あそこに素敵な思い出がいっぱいあるんだもんね」

「まあな。……聖、さらっと言うなあ」

 なぜか誠太郎が照れくさそうに頭をかいて、周りのみんながどっと笑った。


 午後、全校生徒が旧校舎の見納めをする時間がやってきた。列になってぞろぞろと新しい校舎から出たところで鳴き声に顔を上げると、自分たちと同様に編隊を組んだ白鳥の群れが飛び去っていくところだった。薄曇りの空にひらめくたくさんの白い翼が、星のようにまたたいて見える。

 一番桜の横を通り、敷地内の外れにある旧校舎の昇降口へと向かう。聖が見たところでは、桜の蕾(つぼみ)はやはりまだ綻ぶ様子もなく、茶色がかった萌黄色。固そうな蕾に、本当に早咲きなのかと怪訝に思いつつ、聖は初めて旧校舎に足を踏み入れた。

 当たり前だけれど、使われていない建物の中はひんやりとした空気が淀んでいる。ずいぶんと渋いたたずまいになった床板は、聖が一歩踏み出すたびにきしんだ音を立てた。

 廊下の突き当たりには、『○○年卒業生一同寄贈』と書かれた大きな鏡が取り付けられていた。これが、七不思議に出てきた大鏡だろうか。覗き込むと、自分の背後に伸びる長い廊下が映し出されて不気味といえば不気味だ。今はみんなもいるから平気だけれど、薄暗い夕暮れ時に一人で見たくはない雰囲気だ。

 鏡の前でそんなことを考えていると、突然、聖の頭の中に声が響いた。

『いっぱい子供がいる!』

 幼い女の子の、無邪気な声だった。聖がぎょっとして再び鏡を見ても、クラスの友人達以外は誰も映ってはいない。振り向いてみても、やはり同じ風景だ。

『誰か、気付いてくれるかな?』

 なおも、声は聞こえる。

 と、鏡の中の聖の後ろに、赤い小さな人影が現れた。驚きで叫びそうになったのを何とか飲み込んで、なるべく自然に鏡を眺めて様子をうかがうと、着物姿の少女が教室の一つから顔を出して首を傾げている。どうやらこれが、七不思議の一つの正体らしかった。

 誰なんだろう、この子。

 そう思ってまた鏡を見ると、女の子とばっちり目が合ってしまった。彼女はたちまちぱっと明るい笑顔になり、嬉しそうに聖の足下へと駆け寄ってくる。はっとして振り向くと、そこには正に、犬がしっぽを振りながらすり寄ってくるような仕草で向かってくる女の子がいた。目が合ったから――聖が認めたから、実体を得たのか。聖の制服の裾を引っ張って、彼女は弾んだ声で呼びかけた。

『ねえねえ、もしかしたら、お兄ちゃんはあたしが分かるの?』

 他の誰も少女に気付いてはおらず、聖にしか見えていないようだった。観念した聖は用心深く周りを見回してから、小声で答える。話すのを見つかろうものなら、たちまち変な奴と認定されてしまうだろう。

「……声が、聞こえるよ」

『本当? じゃあ、一緒に遊ぼうよ』

「いや、今はね」

『ちょっとでいいから遊ぼう』

「お兄ちゃんは、今勉強の時間で」

「大音くーん。あなた、初めて見るだろうから珍しいのは分かるけど、もう出る時間ですよ」

 説得に手間取る聖の背中に、担任の声が飛んできた。そろそろ、五時限目が終わる。終わったら、旧校舎は再び施錠されて中へ入れなくなるだろう。

「はい! 今行きます!」

『もう行っちゃうの……?』

 今にも泣き出しそうなか細い声に、聖は頭を抱えた。いくら人ではないものだと分かってはいても、見たところ四、五歳くらいの女の子。妹がいる聖は、小さな女の子にはめっぽう弱い。

 結局、泣き落としに屈した聖は白旗を上げた。

「今日、またあとで来るよ。お兄ちゃんは中には入れないけど、窓の外から話しかけるから待ってて」

 自分で自分のことをお兄さんというのも、何とも間抜けなような、くすぐったいような気分だ。そういえば冬休み以来、しばらく妹とも会っていない。いったいどうしているだろう。後で、電話でもかけてみようか。

 聖がそう言うと、彼女は花が咲くように明るく表情を変えた。やったあ、という声と共に、聖の周りをぴょんぴょんと飛びはねる。体中でひとしきり喜びを表すと、女の子は息を切らせて聖を見上げた。

『約束ね! あたし、うるみっていうの。待ってるから来てね、お兄ちゃん』

 お兄ちゃんという言葉にも弱い自分と、嬉しそうなうるみの声に聖は苦笑いする。どうにもならないこの性格を多少は呪いながらも、それでも聖は悪い気はしなかった。


 立ち入り禁止の札がかけられ、ロープが張られている旧校舎。

 放課後、先生に見つかったら何を言われるか分からないので、聖はその裏手に回っていた。こちら側からなら現校舎から見えない。こっそりロープを跨ぎ、外から覗き込むと、さっき女の子と会話した廊下の鏡が窓越しに見えるが、彼女の姿はない。聖は耳栓を外し、ノックするように窓を軽く叩いた。

「うるみちゃん。さっきのお兄ちゃんが、来たよ」

『来てくれたんだあ』

 窓ガラスが揺れる音がして、古くなった窓枠がぎしぎしと音を立てる。校舎の中では、うるみが背伸びをしてその窓枠に掴まっていた。顔いっぱいに笑みを浮かべている。その一生懸命な様子が可愛らしくて、立ち入り禁止をぶっちぎったり、校内で耳を使ったりと緊張気味だった聖の心も少し緩んだ。

「約束したもんね。……ねえ、君はいったい何?」

『あたしは、うるみだよ?』

「ええと、名前じゃなくて」

 物騒な話だけれど、実は彼女が昔自殺した生徒の自縛霊だとか、校舎の下に眠る誰かだとか、はたまた何かの精だとか――そういうことを聞きたかったのだが、うるみには通じなかった。どうも、他の神様や人外のモノのように若く化けているだけというのとは違い、彼女は見た目通りの精神年齢と知識しか持ち合わせていないらしい。

 聖は、質問を変えることにした。

「うるみちゃんは、ここに住んでるの?」

『うるみはね、ついてるの』

 うるみはにっこりと笑って頷いた。のどかな口調で屈託無く言ってはいるが、可愛らしく見えても相手は七不思議だ。恐らく字面は『憑いてる』だろう。学校に憑く子供の神様、それが彼女なのだろうか。

『このごろ、誰も来てくれなくなっちゃって寂しかったんだぁ。ねえ、どうしてみんないなくなっちゃったんだろ?』

 旧校舎が立ち入り禁止になっていることも、来週からは解体工事が入ることも、うるみは知らない。そのままで工事を迎え、建物が無くなってしまったら、ここに憑いている彼女はいったいどうなってしまうのか、聖は想像できなかった。旧校舎と運命を共にするしかないというなら話は別だが、もしも、うるみが外でも生きていけるモノであるならば、今ならまだ逃げ出せるのだ。言いづらいけれど、間に合ううちに教えてあげた方がいい。

 ひとりぼっちは悲しい、とうるみは瞳を伏せる。聖は、重い口を開いた。

「ここが学校だったっていうのは、うるみちゃんも知ってるよね?」

『うん』

「でも、今この校舎は使ってなくて、お兄ちゃんたちは向こうの建物で勉強してるんだ」

 聖は、旧校舎の向こう、現校舎の方を指差した。何を言おうとしているのか分からないのか、うるみは聖の指を見上げて「ふうん」と頷いた。ためらうと告げられなくなってしまいそうで、聖はすぐに本題に切り込む。

「それでね、うるみちゃんの住んでるこの校舎は古くて危ないからって、壊すことになったんだ」

『うそ!』

「嘘じゃないよ」

『ここ、なくなっちゃうの? そんなのやだ!』

 やだやだ、と駄々をこねるようなうるみの鼻声が聞こえる。正直言って、聖も伝えながら一緒に泣きたい気分だったけれど、心を鬼にして平静を保つ。真実を伝えて、彼女を救いたい。お兄ちゃんらしいところを見せなければ。

 今日は金曜日。週末をはさんで、来週初めから工事が始まるはずだ。

「ちゃんと、聞いて。……残念だけど、本当なんだ。あと三日くらいしたら壊して、跡には何にも無くなっちゃうんだよ。だからお兄ちゃんは、もしできるなら早くここから逃げて欲しいと思って、うるみちゃんに会いに来たんだ」

『やだ……』

「僕にできることなら手伝うから、ね? ここを出よう。……見ていられないから」

 子供たちと引き離されて、さらに拠りどころまで無くし、その上、今となってはその存在までも危うい。彼女がこれ以上悲しい目に遭うことなど、とうてい見過ごせるものではなかった。

 黙り込んでしまったうるみが気掛かりで聖がガラスをノックすると、彼女はゆっくりと顔を上げた。濡れた頬を着物の袖でごしごしと拭う。赤い着物に散らされているのは、薄桃色の花の図柄だった。長らくそうしていたが、やがて半べそで呟く。

『うるみ、ここにいて、ずっと幸せだったんだよ。友だちが笑う声聞いたり、泣くのを見てそーっとなぐさめたり、ときどき遊んでもらったり、すごく楽しかったんだ』

「僕、役に立てなくてごめん。でも――」

『ううん。……本当は、分かってたの。もう誰も来ないなんていやだから、待ってるふりをしてたの』

 拙い言葉が、かえって聖の心に突き刺さった。

 この校舎が使われなくなってから、二年以上が経っているはずだ。その間、うるみは不安を押し込め、自分を騙しながら生徒たちが戻ってくるのをひたすら待ち続けていた。なのに、実際にここで授業を受けていたクラスメイトたちでさえ、七不思議をちゃんと思い出すことは出来なかった。生徒の記憶から消えつつあるだなんて、彼女が聞いたらどう思うだろう。

 窓越しに聖のやるせない面持ちを眺め、うるみは励ますように言った。

『お兄ちゃんは悪くない。きっと、誰も悪くないよ。だから、悲しくならないで。……あのね、ちゃんと考えるから、うるみは大丈夫だよ』

 うるみは、すっかりしょげてしまった聖に両手を伸ばす。もちろん、窓の向こうだからその手は聖に届かないが、彼女の気持ちはしっかりと受け取った。なりこそ幼いが、彼女は大人でも敵わぬくらいにしっかりと現実を受け止めて、腹をくくったようだった。妹に慰められてしまっては、兄としての面子が丸つぶれだ。つとめて明るく、聖は尋ねる。

「考えるって?」

『うるみはどうしたいのか、考えるの』

 校舎と運命をともにするのか。建物に憑いているという彼女に可能かは分からないが、外に出るのか。それとも、他の選択肢があるのだろうか。聖がさらに詳しく聞こうと思って口を開こうとすると、先にうるみが切り出した。

『ね、お兄ちゃん、明日も来てくれる?』

「ん? ……うん。うるみちゃんのお願いなら」

『じゃあ、うるみ、明日までに決める。ありがと、優しいお兄ちゃん』

 彼女はやっと、声を出して笑ってくれた。聖はそこでようやく、彼女の名前は聞いたのに自分が名乗っていないことを思い出した。遅ればせながら、自己紹介をする。

「僕は聖っていうんだ。ひ、じ、り」

『聖お兄ちゃん。……約束ね。また、明日ね!』

 彼女はじゃあね、と言うが早いか、着物の袖を揺らしながら元気に廊下を駆け去って行った。窓越しに赤い後ろ姿に手を振り、見送ってから、聖はそっと耳栓を着け直した。

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