第2話

「変なことしないでよ」


 ぷんすかと頬を膨らませて夢果が言った。


 俺たちはホテルを出て夜の歓楽街に向かい、呼び込みの人の誘いを避けつつ『アイネリゾート』へ向かい、イーノックさんに言われた通りに写真パネルの右下の部屋を選び、部屋へ入った。


『アイネリゾート』はラブホテルだ。だから部屋の中は当然ピンクな感じで奢侈な感じだった。ベッドは大きなものが部屋の真ん中に一つ。テレビを点けても流れてくるのはアダルトな映像ばかり。


 ああ、本当にここはラブホテルなんだな、と思う。


 まあでも、それでも部屋を確保できたのだからよかった。それで緊張から解放された俺は安心感から眠気に襲われる。そもそももうすでに夜は深いのだ。いい加減、眠いのだ。


 俺はベッドに横になる。


「えー、夜刀、ベッドで寝るの。床で寝なよ」と夢果が言う。


「眠いんだよ。たっぷり寝たいんだよ。床でなんて眠れるか。いいだろ。ベッドデカいんだし。半分はこっちに使わせろ」


「はいはい」


 渋々と言った口調で夢果は言って、彼女もベッドに入る。さすがに夢果と向かい合うわけにはいかないので、俺と夢果は背中を合わせるようにして横になった。


「眠ってるわたしを襲ったりしないよね?」


「しないよ。つーか、それを言うならお前こそ襲ってくるなよ」


「大丈夫だよ。……たぶん」


 最後に付け足すように言った夢果の言葉が不安を煽る。本当に大丈夫かな。夜だし、場所が場所だし、もしかすると彼女の中のサキュバス面が活性化する可能性は大いにある。


 警戒しておこうなんて思うけど、眠気が勝り瞼は重くなり俺は閉眼する――と、刹那に背中に俺は暖かみを感じる。誰かが身体を密着させてきたのだ。で、俺の脇からするっとその誰かさんの腕が出てきて、俺が誰かさんに背後から抱き着かれている構図となる。


 誰かさん、なんて言っているけど、そいつは言うまでもなく夢果だった。


 夢果は俺の胸板に手を這わせる。で、俺の耳に息を吹きかけ、耳元で言うのだ。


「こんな場所で我慢なんてできないよ。結局、ここで、二人で寝ている以上、やらなきゃ損だよ。もったいないよ」


 何がもったいないんだよ!


 まったく、本当にしょうがない奴だ。


 後ろを向いて夢果の方を見てみると、夢果は案の定、赤い瞳をしていた。やはり、襲われるのは俺の方か。


 俺の胸板を這わせていた夢果の手が俺の下半身の方へ向かう。


「おぉぅ」


 変な声が出るのは俺だ。


「いや、いかん。そこはダメだよ。触っちゃダメぇっ!」


「大丈夫だよ。わたしに任せて。ちゃーんと、立たせてあげるから。それで、ちゃんとつけてあげる。わたしが、口を使ってね」


「何を!? いろいろと、何をするつもりなのかな!?」


「言わなくてもわかるでしょ。男の子なんだから、夜刀は」


「しなくていい。何もしなくていいからいい加減におとなしく寝てくれ!」


「だから寝てるじゃない。今、二人で仲良く寝ている」


「睡眠をしろって意味だ!」


「夜のラブホテルでただ眠るって、それはとてもつまらないことじゃない。せっかくのラブホテル。使えるものは使うべきだと思うの。やるべきことはしっかりやるべきだと思うの」


 ほら、と夢果は俺の眼前でコンドームをちらつかせる。何してんだよ!


「そんなもんは使わなくていいし、何もやらない!」


 俺は身を捩らせて夢果の拘束から脱しようとする。しかしがっちり俺をホールドした夢果はなかなか俺を逃がしてなどくれない。


「どうしたの? 恥ずかしいのかな? きゃはっ。かわいいね。夜刀」


 ちげーよ。逃げたいんだよ。俺たちそういう関係じゃないだろ。だから一線を超えるのは避けたんだよ。だから逃げるんだよ。


 捩りに捩って暴れて、結局、俺はベッドから落ちる。尻餅。顔を少しだけ歪めた。


「どうして逃げるの?」


 ベッドの上で立って夢果は床にいる俺を見下ろす。


「そりゃあ逃げるだろ」


 こちとら襲われているのだ。


「夜刀はわたしのこと嫌いなの?」


「はぁ?」


「だって逃げるってことはそういうことじゃないの」


 待て待て、どうしてこんな話になっているんだ? 好きとか嫌いとか、いやいや、あのね、あれ、この場面でこういう話?


 ラブホテルという空間が夢果をおかしくしてしまっているのか。いや、赤目の夢果はただでさえおかしいのだ。それがさらにおかしくなって……って、最悪ではないか。


 夢果がベッドから降りて、こちらに近づいてくる。


 俺は床に尻を付けた状態で後退り。けど壁に当たって行き止まり。


 夢果が四つん這いになる。それで俺に迫り、彼女は壁に手を当て、顔をこちらに近づける。責められている。俺は受け。


 近い。唇同士がぶつかる危険性が大。


「で、夜刀はわたしのこと嫌いなの?」


「いや、あの……」


 なんだよ、この面倒臭い質問は! くそ、手元に牛乳がないのが憎い!! 冷蔵庫に牛乳って入ってるのかなー。 俺はちらと冷蔵庫の方を見てみる。ここは一か八か、冷蔵庫の方へ走ってみるか。


「ねえ、ちゃんと答えて」


 夢果の赤い目は伏せられる。悲しそうに。え、なに、答えなきゃいけない?


「や、あの、嫌いじゃないよ。そりゃもちろん」


「じゃあ好き?」


 好きなのか? 俺は、夢果のことが好きなのか? 知らねーよ。考えたことないんだから。だいたい好きって何だよ。どういう感情が好きってことなのか。


 答えに窮して黙ってしまった俺を見かねてか、夢果が口を開く。


「わたしは」言って、俺から少し離れる夢果。「わたしはね、夜刀のこと――」


 今だ。夢果が俺から離れた今この瞬間に俺は冷蔵庫の方へ走る!


 そして冷蔵庫を開け、中を確認。酒ばかり。牛乳は……ない! あ、でも、プロセスチーズが入っていた。でも、チーズ……。乳製品でも牛乳と同じような効果が発揮されるのか? ええい、物は試しだ。こいつを夢果の口に突っ込んでみよう。


 振り返れば夢果がいる。俺の手にはチーズ。


「ちゃんと、最後までわたしの話を聞きなさいよ」と夢果は言う。


「その前に夢果、口を開けてはくれないか」


「え、どうして?」


「どうしても」


「いいことでもしてくれるの?」


「まあ、そんな感じ」


「え、ほんとに?」


 夢果は嬉しそうに口を開けてくれる。赤目のときの夢果は何かとちょろくて助かる。


 俺は開けられた夢果の口にチーズを突っ込んだ。口にチーズを入れられた夢果はそれを咀嚼し、飲み込む。ごくん。


「チーズだ。これ」と夢果が言った。


「ああ、そうだ。チーズだ」


 さあ、どうなる。効果はいかほど。できることなら効果を発揮してほしいところだ。ていうか、して。切実に俺は願う。


「で、どうだ?」


「どうだって何が?」


「いや、ほら。落着かないかなー、と」


「おち……ああ、なんか落ち着いてきた、かも」


 夢果の赤い瞳が濃褐色へ戻り、彼女は不意に脱力して膝から崩れ落ちかける。すかさず俺は夢果を支えた。


「あー、わたしまただ。ごめん」


 疲れた声音で夢果が言った。赤目じゃない夢果はつまり正気に戻った夢果であり、いつもどおりの夢果である。


 とりあえず、チーズでも牛乳と同じ効果を得ることができるらしい。これは一つよい知識を手に入れた。


 まあこれで一段落。やっと落ち着いて眠れるというものだ。


 俺は寝た。

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