小編集

空代

 私と彼女の関係に、人は何と名前をつけるのか。それとも、名をつける関係ですらないというだろうか。別段それでも構わない。人がなんと罵ろうが、私と彼女は存在し、言葉を交わした。彼女が私の言葉を理解しなくとも、その事実は変わらない。君がその事実を忘れないでいてくれれば、私は嬉しく思う。


 聞いてはくれまいか? 彼女と私の出会いを。


 焼けるような陽射しが和らぐようになると、美しい夕焼けが明日も晴れるだろうと私に語りかけてきていた。目を瞑り体を曲げると、やけに静かな足音が鼓膜を揺らす。薄目で見るとセーラー服が見えた。

 視線を感じる。セーラー服の人間は私を見ている事をなんとなしに悟った。私がいる場所はベンチの上。全てを使うなどしていないので、彼女も座れるはずだ。そう思い、私は再び目を瞑った。

 彼女はしばし迷っているようだった。当然だ。私は薄汚れた体のまま、ベンチにいたのだ。ゴミをあさり、富めるものの恩恵を受ける。石が飛び、棒が私の体をなぶることも珍しくない。

 この見えぬ目が悪いのだと、叩きつけられた言葉が私に教えたのは遠い昔だ。私の膿んだ片目は、他人に不快感と優越感を伴う同情を与えるようだった。

 私が無駄な事に思考を巡らせていると、彼女は静かに動いた。立ち去るのかと思えた。が、彼女は立ち去らず、足音が近くなる。

 薄目で見る私に気付かずに、彼女は申し訳なさそうに小さくなりながらベンチに腰掛けた。私を追い払うのかと邪推したが、彼女は追い払うどころかただ黙するのみだった。だからといってあからさまな無視をするわけでもない。珍しい子どもだ。それが彼女の印象だった。

 暫く私は体を休めていたが、眠りはしなかった。いつ何時私を痛め付けるためにその手が振り上げられるのかわからないのに、眠る気等起きるはずもない。それでも移動しなかったのは、単純な理由だ。せっかく見つけた場所を譲る気になれる訳がなかったからだ。

 このベンチには屋根がある。錆びて多くの人は近づかないこの場所を家を持たぬ私が好むことは当然だった。だから私は警戒しつつもうごかなかったのだ。

 どれだけ時間がすぎたのか。空気が冷たくなりだしたころ、彼女はのそりと立ち上がった。ぎしりとベンチが揺れ、つい彼女の背を見る。丸まった背。彼女は嫌そうに歩を進めた。それが私と彼女の出会いだった。


 君は退屈な出会いだと思うかもしれない。けれども出会いとは得てしてそういうものだと私は思う。次がなければそのまま薄れていく記憶。私のこの小さな脳髄に彼女が存在するようになったのは次があったからだ。それでも記憶するほどではないささやかな出会いは、ささやかながらに継続した。


 彼女はそれから毎日セーラー服姿で現れ、何をするわけでもなく滞在し、去っていった。四度日が沈んだが、彼女はほぼ同じ時間に現れた。

 私は私の場所だと主張するため、あえて彼女が来る頃合を見計らいベンチにいつづけた。彼女と出会ってから五度日が沈み日が昇った日、彼女は何故か来なかった。私の場所は私だけの場所になったのだ。

 私は喜ぶべきだった。けれども私に全く干渉しない少女に対する警戒心はあまり無くなっていたためどうでもいい心地の方が強かった。だから喜びも何もなく、いつものようにベンチの上で目を閉じた。瞼がほんの少しごろりと痛んだ。


 それから二度日が昇り、また沈む頃彼女が現れた。彼女はいつものようにベンチに腰掛け時を過ごしていた。それは私にとって驚きだった。

 二度も来なかったのだ。もう来ないと思っていた。だから私はベンチを離れたのだ。

 もしや私からあの場所を奪うための作戦だったのではないかと私は疑った。少しイライラしていたかもしれない。わざと物音を立てると彼女はこちらを見た。ほんの少し彼女は怯え、それから音を立てたのが私だとわかると彼女は微笑んだ。

 何故彼女が微笑んだのか。私にはその現象を理解することはできなかった。嫌悪に顔を歪ませられたり、嘲笑や同情を含みながらも軽蔑を孕んだ苦笑にもなれていた。しかしどこか安堵したようなあの微笑みは、私の経験にないものだった。私は慌てて視線をずらし、彼女の隣に座った。別に私に否はないのだが、奇妙な気まずさが私の視線を逸らさせたのだ。

 彼女はいつものとおり私に干渉せず、その日もそれまでどおり過ぎた。彼女がベンチを訪れる周期は変わらず、私もそれに慣れてしまった。

 始めは座っているときですら強張っていた体もいつしか自然なものとなり、我々は会話することなく共にいた。

 彼女は時に文学と親しみ、時に何かを食すようになっていた。私を拒絶しない人の多くはそれらを私に与えたが、彼女はただ自分が食すことしかしなかった。だからといって私は彼女を責めようとは思わず、ただ隣に座り彼女が去るのを待つのだ。   変化を私と彼女は望まず、ただただ繰り返される現象。きっとなにもこなければ、何も起こらなかっただろう。奇妙な平穏だ。私はその平穏を当たり前のものとしていた。


 …そう、君の予測通り、平穏は壊れたよ。彼女が壊したわけではない。彼女も私も平穏を望んでいたのだから、当たり前だ。平穏の崩壊は、彼女の知人がもたらした。

 私はあの女を決して好みはしないだろう。憎いなどと思いもしないが、それでも好みはしないだろう。平穏を当たり前としていたのだから、平穏を揺らしたあの女のことを好めるわけなどないのである。


 その日彼女と私はいつものように時間を過ごしていた。彼女の手には文学があり、私はただ彼女の隣で目を伏せる。そんないつもを過ごしていた。

 突然響いた高音は、そのいつもを切り裂いた。耳に痛みを感じ、体を起こす。私はベンチから離れ、警戒したまま高音の元を見た。居たのは、顔を歪めた女だ。女の視線の先では、本を固く握りしめた彼女の姿がある。表情はなく、色さえも消え失せた顔。

 まるで人形の様な彼女の腕を、女は無理矢理掴み上げた。彼女の手から文学がこぼれ落ちる。女の声は呪いの様に低く、彼女は震えていた。何故彼女が怯え、連れていかれたのかは未だにわからない。あの女は彼女から安心を奪っているようだった。


 それから彼女は姿を消した。


 私はまた一人になり、いつものように過ごしていた。寂しさなど、感じてはいない。けれども、つい耳をすましている自分に気付かないわけではなかった。時には寝ぼけたまま隣を見た。

 でもそれだけで、私はゆっくり彼女のことを考えなくなっていった。


 彼女と私の関係は、それで終わってしまうところだった。しかしながら、彼女は私との関係をそれだけですませなかった。

 雪の降る日、彼女は今までとは違う服装で、私の元に訪れたのだ。

 雪を踏む音に、私は一瞬みじろいだあと、薄く目を開けた。見たことのない靴。警戒をする前に、私は顔を上げた。

 彼女は安心したように笑っていた。私もつい、笑ってしまった。彼女は私のそばに腰掛け、私はすんなり受け入れた。その事実が奇妙に思え、私はまた笑った。彼女と私の間には不可侵条約のようなものがあり、埋められる事のない隙間があった。なのに彼女はあっさり近づき、私はあっさり受け入れた。その理由を何となく感じられたからこそ、私はまた笑ったのだ。

 彼女は二言三言私に語りかけた。泣きそうな顔で。私の顔にそっと冷えた手が伸び、私は反射的に肩を揺らした。彼女が不安そうに固まる。奇妙な沈黙と、停滞。彼女を不安にしたままなのが嫌で、私は勇気を出して彼女に声をかけた。彼女はその時初めて私の声を聞いたはずだ。

 彼女は泣きそうに歪んだ表情のまま、冷えた手で私の頬を撫でた。その行為は膿んだ私の瞳を労るが如く感じられ、私まで泣きたくなった。

 彼女は暫く私に触れていたが、そっと私を抱きしめると、私から離れた。

 彼女の服は汚れ、彼女の頬には涙があった。私は初めて感じた温もりに、泣けるのであれば泣きたく思えた。彼女は私にパンを与え、ゆっくりと一礼した。数分そのまま顔を上げず、遠くに響いた人の声を聞いてやっと彼女は顔を上げた。柔らかい微笑。

 彼女は何度か振り返りながら立ち去った。私はじっと彼女を見送った。私も彼女も、もう出会わないことを理解していた。本能にも近いもので感じていた。彼女はこの町に帰らない。

 私は彼女を追うことも待つこともできない。置かれたパンを一口かじっても味を感じられないほど私は弱っていた。充分長く生きた方だろう。私は老衰で死ぬのか餓死で死ぬのかすら理解できぬまま、ゆっくりと目を閉じた。からだがあまりにも痛く、もう眠りたかったのだ。雪の中で、私は眠ったのだ。


 これで私と彼女の話は終わりだ。私と彼女の関係は、何と名付けられるだろう。別に名等興味はないが、そんな奇妙な関係が存在したことを覚えてくれ。虹を渡る関係は、君達のようなものばかりではないんだ。

 引き止めてすまなかった。主人と共にいくがいい。

 私の名前? 彼女は呼ばなかったから、ないだろう。けれども彼女が呼んでくれるのであるなら、ただ「ネコ」と呼ばれるだけでも幸せだろうね。

 さあ、引き止めてすまなかった。虹を渡ればいい。私はここで彼女を見ているよ。笑い、悲しむ彼女が安心できることを祈りながら、彼女を待っているよ。


(「虹」 了)

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