視点のフラつき概念について

 ケイツーくんの小説を読んでいたら一人称視点と三人称視点でシームレスに行ったり来たりしていてグラグラしていたのでそこを指摘したのですが、わりとこの「視点のフラつき」という概念が頻繁に指摘されるわりにはイマイチよく分からないまま「うんうん、あ~アレねアレ。わかるわかる」ぐらいで流されているようなので、もう一度説明しておこうと思いました。つまり、今回の話は正味のところケイツーくんのためだけに書いています。ケイツーくんは尻から血を流しつつ額を地面に擦りつけながらありがたく拝読してください。


 小説において視点はフラついてはいけないことになっています。小説には色々とやらないほうがいいこと、やってはいけないことなどがあるのですが、視点のフラつきはどれぐらいやってはいけないことかと言うと、「かなりやってはいけないこと」に相当していると思います。ご法度と言ってもよいです。もちろん、小説に本当の意味でやってはいけないことなんていうのはありませんし、わたしがそもそもやってはいけないことをかなりブッチギッていくタイプなのでアレなのですが、だいたいにおいてやってはいけないとされていることは明確な意図がない限りは避けたほうが無難です。また、こと「視点のフラつき」に関しては明確な意図があろうともできる限り避けたほうがいいでしょう。どのようなものが仮定可能であるかは分かりませんが、その意図を達成する難易度が格段に高いだろうということです。

 なぜやってはいけないのか? という話は色々とできるのですが、とりあえずやってはいけないのだということだけ把握してください。理由を感覚的にザックリ言ってしまえば「とても気持ちが悪い」「読者が混乱する」「グラグラして落ち着かない」といった感じです。今回はその話を詳しくはしません。


 さて、一人称小説と三人称小説、大別すると小説の記述スタイルにはこのふたつがあると思います。ここが重要なのでよくよく把握してもらいたいのですが、これはということです。一人称記述であろうと三人称記述であろうと、視点(カメラ)は基本的に常に、任意の物語の登場キャラクターに寄り添います。もちろん例外はありますが、これが基本です。


 一人称記述、一人称視点というのは分かりやすいですね。わたしがいま書いているこの文章がそうです(そう実はこれはノンフィクション作品ではなくフィクション小説なのでした)。わたしが見たもの、わたしが感じたことを、わたしが書いていく。一人称記述、一人称視点の小説は視点のフラつきが原理的に起こりにくいので、難しいことを考えたくない! とか、単純にまだ技量が未熟であるといった方には一人称小説はオススメです。もちろん一人称小説には一人称小説なりの難しさというのもあるのですが、総合的に見れば、相対的に、一人称小説というのは簡単な記述スタイルだと言えると思います。


 さて、一人称、三人称というのは記述スタイルの話であってカメラの位置を表すものではない、という話ですが、そのようですから当然ながら、一人称記述、三人称視点というスタイルの小説も想定できます。

 拙作「でも助走をつけて」の中の1エピソード、「地球は偉大だ。きっと人間的に一回り大きくなれる」がコレに相当します。

 このエピソードを記述しているのは作中の登場人物であるリッコなので、記述スタイルとしては一人称記述になります。ただし、このエピソードに限って言えば、リッコが青木から聞いた話を青木の視点で再構成して記述している、という形態を取っているので、視点としては三人称小説になっています。記述しているのは作者、つまり物語に登場人物としては参加しない「誰でもない記述者」ではなく、作中の登場人物であるので、そのキャラクター(=リッコ)の一人称小説ではあるのですが、このエピソードにおいてはカメラの位置は青木にあって、記述者と視点の位置が一致していません。こういったことも可能であるのです。これが「記述スタイル」の分類であって「視点の位置」を表す語ではない、という意味です。


 一般に、三人称小説と呼ばれているものは、記述者=作者であり、物語に登場人物としては参加しない「誰でもない記述者」であることが多いと思います。森博嗣先生のVシリーズの記述者、保呂草さんなんかのケースもあって、アレは厳密に言うと前節の「一人称記述、三人称視点」の小説に相当するのですが、保呂草さんは記述スタイルとしてかなり自分自身を消臭してしまっているので、読み味としては一般的な三人称小説っぽい感触になっているでしょう。

 視点のフラつきを指摘されるのは一般にこの形式においてだと思うのですが、なぜそういうことになるのかというと「作者は誰でもない記述者という視点で物語に参加することはできない」というルールを把握していないためだと思います。。これが「視点」、つまり「カメラの位置です」。


 先ほど例示した「地球は偉大だ。きっと人間的に一回り大きくなれる」では、記述者はリッコですが、視点は青木に寄り添っていました。リッコが青木の目で世界を見て、青木が感じたことや思ったことを記述しているわけです。このとき、リッコは青木に憑依しているので、北島の気持ちや考えていることなどは分かりません。リッコはいま青木であって、北島ではないからです。これと同じことが三人称記述(記述者=作者=作中に登場しない純然たる記述者)の場合にも言えます。作者はその世界の設計者であり、作中人物のすべてを作り上げた人なのだから、誰の心理であろうと自由にその内面を覗けそうに思えるかもしれませんが、それはエディットモードの間だけです。実際に世界を走らせ始めた後は、たとえ作者であってもその世界の縛りを受けます。つまり、誰でもない記述者である作者が青木に憑依した場合であっても、やはり青木に視点があるうちは北島の気持ちや考えていることは記述できないということです。


 単純な話、人は自分自身のことしか記述できないということです。

 自分の見たもの、感じたこと、考えたことは書けますが、他人のことは分かりません。そして、一度ある人物に憑依をしたら当分は――少なくとも話が一段落して話や章が切り替わるまでは――自由に他の人物に移動することはできないのです。別の言い方をすれば「登場人物の内面までを描けるのは一度につきひとりまで。同時にふたり以上の気持ちを書くことはできない」というルールと把握しても良いかもしれません。


 ところで自由間接話法の話です。

 わたしは森博嗣先生の作品が大好きなので、また森博嗣先生の小説の話をしますが、「どきどきフェノメノン」において「窪井佳那は~」という主語で始まっているのに、途中で記述者が三人称視点という距離感を無視してほぼ一人称記述てきに窪井佳那の心情を記述していることを指して「視点がフラついている」と言っていたモノを知らない馬鹿(ゴホン)がいましたので、その説明をしておきます。

 どきどきフェノメノンはまた独特の距離感のある記述スタイルで、形式としては三人称記述になっているのですが、徹底的に主人公の窪井佳那に視点が寄り添っているので、これは「視点のフラつき」ではありません。カメラの距離を自由に引いたり寄ったり、場合によっては佳那の中にまで入ったりしているだけです。これはカメラの距離の問題であって、カメラを向ける場所の話ではありません。視点のフラつきがいけない、というのはカメラをあちこちに好き勝手に向けるな! という話であって、カメラをズームしたり引いたりするのはむしろせっかく三人称記述を選択したのならば積極的にやるべきことです。

 ゲームをやる人はグランツーリスモとかワールドオブタンクスとかエースコンバットとかを思い出してほしいのですが、あれって視点を「自分のだいぶ後ろ」「自分のやや後ろ」「完全にコックピットの中」ぐらいで変更できるじゃないですか? でも、別の機体に移動することはできないでしょう? つまりはそういうことなのです。


 三人称記述でありながらも、まるで一人称記述のように視点人物の中にまでダイブしてエモく心情描写をしていく方法に自由間接話法というのがあるのですが、お昼休みが終わりそうなのであとは各自でググって(諦め)。

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