ラスト・リゾートはここにはない

薄青の髪、その身に似合わぬ博愛の瞳。色の薄い肌を殊更に白くして、メンテナンサは床へ寝転がっている。プレーブは床を転がるメンテナンサを靴先で揺すった。

「寝るのは結構だが飯の時間だ。起き上がって席につけ、サー・メンテナンサ。俺に倍の量食わせる気か」

「いっ……いらない……おなか、いたい……」

メンテナンサは丸まった寝姿のまま首を振った。呼吸は浅く、額には脂汗が滲んでいる。プレーブはテーブルに湯気を立てるスパゲッティの皿を置いてサーの隣にしゃがんだ。

「……どこが痛いんだ、胃か? 腸か? まさか子宮ってことないよな」

腹に触れると、メンテナンサの白い肌は氷のように冷えていた。

「体を冷やしたんだろう、茶を淹れてやる」

プレーブは立ち上がり、カップに紅茶を入れて戻ってきた。白いカップからは白い湯気が立ち上る。

「多少冷ましてきたが……触れるか?」

「あ、熱っ……」

カップに触れたメンテナンサは反射的に手を引っ込めた。指先は赤く変色していた。

「駄目か? これ以上は逆に体温を下げる……おいやめろ、触るな。冷たい」

メンテナンサはプレーブのカーディガンの下に手を入れた。プレーブはそれを手袋を着けた左の手で止めた。

「やめろ、俺をショック死させる気か? ……聞いているのか、サー・メンテナンサ」



「…………」

プレーブはソファの上で皿の形に固まったナポリタンスパゲッティを食べていた。膝の上ではメンテナンサが毛布に包まれ寝息を立てている。

「なあ、やっぱりこれ全部俺が食わなきゃいけないのか? どうなんだ? サー?」



「お腹痛い……」

「だろうな。急に食べると誰だってそんなもんだ。だがそのまま放っておくとそのうち何も食べられなくなる。少しずつでいいから食べろ」

「……まずい……」

「食ってくれ。今のお前に消化できそうなものがこれしかないんだ」

「まずい……」

「泣くなよ……」



「食事だ」

「いら、ない……」

床へ座り込んだメンテナンサは小さく言い、首を振った。

「またか、腹が痛いのはわかったが食わないと死ぬ。死にたいのか? サー? ……サー? 聞いているのか?」

メンテナンサの手をプレーブは強く掴んだ。冷えた手はぶるぶると不自然に震えていた。

「……聞いている…………気持ちが悪いんだ……」

震える手を掴まれても、メンテナンサはいつものような抵抗や拒絶をしなかった。ぼうっとした目がプレーブを見上げ、苦しげに細められた。

「目が回る……」

プレーブは眉をひそめた。手足は投げ出され、だらりと弛緩している。プレーブはメンテナンサを抱え上げ、ソファへと運んだ。



乾いた唇をなぞり、プレーブはサーの口をこじ開けた。親指で瓶の中身を掬い取り、薄く開いた唇の間から冷たい口内へ、歯茎をなぞるようにねじ込んだ。左の手で顎を掴み、上を向かせる。

頬をぺたぺたと叩いていると、メンテナンサが目を開けた。プレーブは瓶の中身へ指を浸した。

「サー。口を開けろ」

べたべたした粘性の液体がねっとりと指を濡らす。開かれた口へ指を入れ、プレーブは指を舐めさせた。虚ろな目のまま、メンテナンサは素直に従った。濡れた舌は指へ吸いつく。冷たい舌が濡れた手を這い、ちゅぷちゅぷと舐めしゃぶった。

甘い味がなくなると、サーは名残惜しげにもむもむと噛んだ。プレーブは眉をひそめた。

「……もういい、もう十分だ。俺の指を食わないでくれ。気分はどうだ?」

食んでいるものが何か気付いたメンテナンサは赤面し口を開いた。てらてらと光る指先は、惜しむように突き出された舌との間に糸を引く。口を閉じたメンテナンサは恥ずかしそうに手の甲で口を拭った。震えはもう治まっていた。プレーブはハンカチで指を拭い、瓶に蓋をした。

「低血糖だろう。粥を煮てやるから食え……どうしても食事が嫌だというなら点滴っていう手もあるが」

「……点滴……?」

「知らないのか?」

プレーブはサーの白い腕を取り、手首から肘の内側の間を静脈をたどるように指でなぞった。

「皮膚の薄い部分に管を繋いで直接血管に養分を流し込む。無論、注射針を使うから痛みは免れない。長期間の継続は当然リスクもある……やってみるか?」

「いっ嫌だ」

メンテナンサはびくっとして腕を引込める。プレーブはつまらなさそうにあくびをした。

「そうか、なら大人しく粥を食え。卵をふたつ入れてやろう」



「サー、タオルをくれ」

「あ……どうし……なっ、あっ……わああ!!」

メンテナンサは悲鳴を上げた。全身を真っ赤に染めて軽薄に笑って見せるプレーブの姿は返り血を浴びた猟奇殺人者を想起させた。

「落ち着け、サー。血じゃない、酒だ。火を起こすな。俺が死ぬ」

前髪からぼたぼたと滴る雫を鬱陶しそうに払い、プレーブはクロスタイを外して襟元を緩めた。

「え、あ……ほ、本当だ、アルコールの臭いがする……」

「元々ドライジンを探していたんだが、手を滑らせて棚の上にあった瓶を落としたんだ。高そうなボトルを一本駄目にした……いや」

真っ赤に濡れそぼった髪をかきあげ、プレーブは息を吐いた。

「服もだな……」



「面倒だ……何もかもが面倒だ……プレーブ、代わりに風呂に入ってくれ」

湯桶の淵に手をかけ、服を着たままのメンテナンサは揺れる水面を見つめていた。プレーブは片手で捲っていた手帳を乱雑に閉じ、ズボンのポケットへねじ込んだ。

「……人を呼びつけて何を言い出すかと思ったら、またそんな世迷言を言っているのか。ここまで来たんだったらいい加減加減観念しろ! 往生際が悪いぞ、サー・メンテナンサ!」

プレーブはサーの頭を掴み、張られた湯へと押し込んだ。サーが湯に落ち、バスルームに水柱が上がる。

「なっ、なにをするんだ!」

湯桶の底でびしょびしょになったメンテナンサが咳き込みながら叫ぶ。湯桶の淵に腰かけたプレーブは髪にかかった飛沫を払いながら、サーに視線を向けることもなく、ポケットから手帳を出して黒い皮手袋の左手でページを捲った。

「さっさと服を脱いで髪を洗え。俺だって暇じゃないんだ」

サーは従った。反射的に立ち上がろうとして服に引っ張られ、踏み込んだ足を滑らせ湯桶の底へ逆戻りする。飛沫が上がり、プレーブの髪は再び濡れた。プレーブは顔をしかめ、髪を耳にかけた。

「先に服を脱げ…………ああそうだ。サー。着衣泳の心得はあるか? 今感じている服の重さが、川の底にお前を引き込む引力だ。入水を考えるならゆめゆめ忘れないことだな……水はありふれたものだがそれゆえ人を生かしも殺しもする」

「なっ、なんで今そういうこと言うんだ……」

肌に貼りつく布地に難儀しながら、もたもたとボタンを外していたサーがびくりと体を震わせた。濡れた布地から覗く肌は湯の熱によって血色を取り戻し、やや赤らんでいる。

「何故って……さっき、水面を見て入水について考えていただろう? 違うか? 違わないだろ? 水でも湯でも肺に入れば同じだ……ああでも」

顔をあげ、嘲るように目尻を下げたプレーブは手帳で口元を隠した。妖しく光る金の目がサーの皮膚を舐め、粟立たせた。

「川の流れは速い。服を着ていなくても溺れてしまうようじゃ困るだろう? もう少し鍛えたほうが良いかもしれないな?」

「よ、余計なお世話だ…………!」

「ははは、全くだ。余計で済むことを祈っているよ」

表情を変えないまま、プレーブは肩を揺すって笑う真似をした。



「なんか、変な臭いがする……なんだろう……」

「どんなだ?」

「鼻につくような……」

「ああ、多分俺だ。早いな、もう腐ってきたのか。それとも何か別のやつか?」

プレーブは左手の手袋を外した。手袋の下の左手は直径四センチの丸い穴が開いていた。ぽっかりとあいた穴からは赤黒い断面が覗き、穴の内側はぐずぐずになっていた。

「うっ……」

「お前の魔術的遺産のおかげだ。見栄えは悪いがこの程度で済む」

プレーブは穴を透かしてメンテナンサと目を合わせた。中が汚れているのに気が付くと、プレーブはハンカチで穴を拭った。真白だったハンカチへは赤黒い粘液が付着しその色を変えた。

「これは血の臭いだな……殺菌消毒よりもまず防腐処理をするべきだったか? いや、腐ってはいないのか……」

サーは顔を伏せ、吐き気を誤魔化すように空咳をした。

「……な、治せないの……? きみの力で……」

「んん? ああ、技術的には可能だが……」

プレーブはメンテナンサを一瞥し、考えるようなそぶりを見せた。

「肉を再生させるんだろ? できなくはないが、実行のためにはそれを見ている人間が必要だ。そしてそれは俺ではだめだ。わかるか? お前の力が必要だ。そんなに時間はかからない、手伝ってくれるか?」

「……すぐ、終わる? 見ているだけ?」

メンテナンサは目を泳がせながら尋ねた。プレーブは目を眇めさせた。

「ああ。見ているだけでいい。十分もかからない」



「ここが穴になっている」

プレーブは指を立て、穴の中を通して見せた。メンテナンサは身を硬くする。

「今からここを塞ぐ。いいか? 見ていろ」

穴の向こうにはテーブルの天板が見えている。じくりと嫌な汗がつたい、体感時間は鈍化する。左手の穴の断面から血管に似た赤い糸がいくつもずるずると伸びるのを目の当たりにし、メンテナンサは悲鳴を上げた。毛細血管のような糸たちは素早く絡み合い、びん、とグロテスクな赤い膜を張った。その上を這うように、周りからは不格好な肉がぼこぼこと迫り上がり、伸縮を繰り返して、絡まった膜を膨らみながら飲み込んでゆく。生理的な嫌悪感を煽る肉の蠢きからメンテナンサは逃れようとした。

「目を逸らすな。見続けろ」

プレーブは空いていた右の手でメンテナンサの顎を掴み、それていく視線をテーブルの方へ戻させた。テーブルの上で、醜い肉塊と化した左手の平は脈動するように形を変え続ける。全身の毛が逆立ち、神経は悲鳴を上げた。

「いっ、いたい、やだ、こわい……やだ、いやだ……」

「……」

メンテナンサの瞳孔が恐怖によって収縮する。

「おぇ、うう……っひ、ぐす」

見開いたままの目から涙が流れる。メンテナンサは痙攣したように嗚咽を漏らした。

「叫びたければ叫べ、泣きたければ泣け、なにも遠慮することはない」



「終わりだ」

プレーブはサーを解放した。顔は鼻水でぐずぐずになっていて、掴まれていた顎には指の形に沿って痛々しい赤い痕が残った。

「触ってみるか? 骨も肉も神経も正常に繋がった、寸分の違いなく元通りだ」

プレーブは左手を持ち上げて見せた。サーはその滑らかな肌色に、先ほどまでの狂乱を幻視した。

「う……」

サーの顔からざっと血の気が引いた。臓腑が締め付けられるような錯覚に陥る。こみあがる吐き気と嫌悪感に口を押え、肩で息をしてなんとか踏みとどまる。

「サー? ……大丈夫か?」

伸ばされた手を、サーは首を振って押しのけた。熱っぽい恐怖が体中を駆け巡り、ぎりぎりと胃を締め上げる。

「おえっ、うう、うえッ」

サーは机に頭をつき、吐き気に抗った。シャツの胸元を力任せに握って、げほげほと息を求めて苦しげな咳を繰り返す。喉奥から空気が遡り、狭い喉を内側から押し広げる。サーはえづき、屈した。

喉奥を通る、飲み込まれていた空気が喉を震わせる。

「うげ……うっ、うう」

サーは口に溜まる、ぶくぶくと泡の混ざる粘ついた唾を吐き出した。喉に張った膜を掻き出すように口に手を入れ、舌の表面をぐちゅぐちゅと引っ掻き、息を求める。卵白のような唾液は流れることなく、ぬるぬると指先に絡んだ。

サーの呼吸が整うのを見届けて、プレーブは皮手袋を元のようにつけなおした。

「……片付けておくから手と顔を洗ってこい……酷い顔だ」


◆◆◆


「許してくれ、許して、もう嫌だ……」

「許してくれ? 誰に向かって言っている? 俺か? お前が殺した人間にか?」

蹲るメンテナンサへ、プレーブは無感情に言った。

「許しを乞うたところで無駄だ。俺はお前に別段恨みはないし、お前を狙う諸々の生き物だってそうだろう。お前が虐げられるのに理由なんてない」

「なんでなんだ、一体おれがなにをした?」

「理由が必要か? 納得できる理由があればお前は安心していられるのか? 違うだろう? どうなんだ?」

プレーブは畳みかけるように言った。

「理不尽、不条理な暴力! わからないのか? 昔のお前そのものだ! お前は何もしていない。人間、人間だ。誰に咎められるようなこともなく、誰に罰されるようなこともせず、そのうえで不条理に巻き込まれて死んでいく。知らないわけはないよな? そんな人間を大勢見てきたはずだ」

金の目が光る。非人間的な、透明度の高い金の目が。

「かわいそうにな。この体の持ち主だってそうやって死ぬ無辜の人間であったかもしれない。まあ、仮にそうだとすれば一矢報いたわけだ? お前を捕まえることには成功したわけだからな?」

プレーブはおかしそうに笑った。メンテナンサはぞっとした。感情が抜け落ち、精神は一時的に凪のようになる。

「一体何が言いたい……? おれにどうしろと言っているんだ……?」

「難しく考えるなよ。やられる側になったっていうんなら今度はお前がやり返せばいいだろう? なに、術者だって人間だ。人間にできることが肉体を得た精神体にできない道理はない。そうだろう? サー・メンテナンサ?」



「で、できるのか……?」

問いには答えず、プレーブはポケットから黒い手帳を取り出した。

「術者の手記だ。まだ解読が進んでいないが、『精神体を殺す方法』という記述がある。……俺は、お前が一度でもやったことがあるなら俺は何だってできるし、お前はたいていのことはやってきた。仮に失敗して体の半分が消し飛んでも、お前の遺産があれば生き返らせるくらいの事は出来……おい、大丈夫か」

「……この間やったみたいなことを? 全身に?」

サーの顔から血の気がうせる。白い顔に向かって、プレーブは何と言ったものかと思案した。

「仕方ないだろう。お前のやってこなかったことは出来ないんだ。俺のことをどう思おうが勝手だがあれは元々お前の書いた術式だ。苦しむ時間を引き延ばし心に傷をつけるための……覚えていないのか?」

「……知らない! 覚えてない! そんな、そんなものを見せたの!?」

「言っただろ、サー。お前が見てないと発動しないんだ。それにあれが一番穏当かつ安全なやつだ。三十回に一回大失敗するやつとかもある……ああそうだ、痛みに関する記憶をまっさらにする秘術があるがどうだ? 昔のお前が訓練を積んだ人間を拷問するときに使っていたやつだが」

どうする、とプレーブは首を傾げた。サーは千切れるほど首を振った。

「いっ、いらない! やめてよ、正気なの……!?」

「ははは、それは過去のお前本人に聞いてくれ。俺の知ったことじゃない」

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