第32話 現代でも実猟犬として活躍しているイングリッシュ・セターは、落ち着いた家庭犬向きのショータイプと、活発で猟欲の強いフィールドタイプに系統が分かれています。

『はい。池崎です』

「……あ、成田です。電話いただいたのに出なくてすみませんでした」

『いや、こちらこそ。征嗣くんと一緒だったのに、邪魔しちゃったかな』

「いえ……」

『さっき、ばったり会ったときのココちゃんの様子がおかしかったから気になって……。もしかして、僕が亜依奈の家から出てきたことで驚かせちゃったのかな』

「そう、だったのかもしれません。酔ってたので、自分でもよく覚えてないんですけど」

『そう……』


 池崎さんの低く柔らかい声を聞いただけで、ほっとして涙が出てきそうになる。


 そしてまた後悔。


 征嗣くんに向き合う前に、私はきちんと自分の気持ちに向き合わなければならない。


『亜依奈から、家に大きな蜘蛛が出たから追い出してほしいって電話がきたんだ。

 あの辺は公園に近いから、家に大きな虫が時々入ってくるんだよね。

 それで、捕まえて外に出して、帰ろうとしたところでココちゃん達にばったり会ったんだ』

「そうでしたか……」


 池崎さんが私を気遣ってくれた言葉。

 でも、その言葉の先に安心なんてない。

 心がざわざわして、おりがたまっていくだけ。




 そんなもやもやは、もうたくさんだ。


 上辺だけでしか信じられないのなら、私はその言葉を望むべきじゃない。





 私の抑揚のない反応に、池崎さんの軽いため息が聞こえた。


『なんか、下手な言い訳をしているみたいだよね……。

 ココちゃんにわかってほしかったって思うのは、僕の独りよがりだったかな』


「言い訳……がほしかったのは、池崎さん自身なんじゃないですか?」

『え……?』




 私が望むこと。


 それは。




「池崎さん、自分の気持ちときちんと向かい合ってみてください。

 私が欲しいのは言い訳じゃない。

 池崎さんの本当の気持ちが知りたいんです」




 池崎さんの気持ちが私に向いてきているのだと思いたかった。

 でも、やっぱりあのひとに向いたままだったのだとしたら。



 それに気づかないふりをして、澱をためていくなんてこと、私にはできない──





 ふっ、

 と、ため息とも笑いともわからない息が池崎さんの通話口に吹きかかる。




『ココちゃんのまっすぐさには、教えられることばかりだな』




 自嘲のような言葉の後に、池崎さんが穏やかな声で続けた。





『そうだね。

 もう一度、きちんと亜依奈と話をしてみようと思う。

 ありがとう』





「おやすみなさい」




 ゆっくりと、赤いボタンをタップする。


 電話越しの穏やかな「ありがとう」。


 そのキラキラを宝箱にしまいたくて、私は携帯の画面を見つめたまま、その言葉を何度も頭の中でリプレイした。


 🐶


「これでよかったのかなぁ……」


 翌日、早番だった優希を仕事上がりにファミレスに呼び出し、私はテーブルに突っ伏してため息まじりの言葉を吐き出した。


「よかったかどうかって、すぐに答えが出るものじゃないけれど……。

 瑚湖は瑚湖らしいやり方でがんばったと思うよ」


 ドリンクバーの甘ったるいキャラメルマキアートを口に運びながら、優希がお姉さんのような優しい口調で慰めてくれた。


「でもさ、私だったら、付き合ったもん勝ち!って思っちゃうけどなぁ。

 もし相手が別の女に未練を残していたとしても、付き合ってから自分の方に向かせられる可能性だって十分あるわけだし」


「でもね……。このまま自分の思いを受け入れてもらったとしても、私はきっとどこかで池崎さんの本心を疑い続けてしまうと思ったんだ。

 相手のことを心から信じられない恋愛だったら、結局幸せは分かち合えないと思うの」


 突っ伏した腕に顎をのせて、目の前にあるコーヒーカップをじっと見つめる。

 カップの縁から立ち上がる白い湯気は揺らめきながら上っていき、やがて頭上のペンダントライトが落とす乾いた光の中に消えていく。


「で、もし池崎さんがアイナって女とよりを戻したらどうするの?

 ふんぎりをつけて、伊勢山くんとの新しい恋に向かえそう?」


 頬杖をついた優希が、私を優しく見下ろす。


「今はとても考えられないよ。

 池崎さんに自分の気持ちと正直に向き合うことを望んだんだから、私も自分の気持ちときちんと向き合いたい。

 池崎さんを好きだって思う気持ちから逃げずにいたい。

 だから、結果はどうであれ、私の思いは池崎さんに伝えようと思う」


「そっか」

 優希の顎を預けていた手が伸びて、突っ伏したままの私の頭を優しくなでる。


「もう三年前になるか……。

“もう恋なんてしない” なんて泣いてた瑚湖が、傷ついてもまっすぐに自分の気持ちに向き合おうとしてる。

 これってすごい成長だよ」


 厳しい先生に温かく見守られていたことを知った時のように、優希の言葉は私の涙腺を刺激した。


「成長……してるのかなぁ。私」


「してるしてる! だって “もう恋なんてしない” なんて、今は思ってないでしょ?」


「そうだね……」





 実りそうもない恋心を抱えていても、

 辿り着けそうもない大陸を遠く眼差すだけだとしても。



 私は池崎さんを好きになってよかった。


 この気持ちを、無理やり片付けようだなんて思ってない。


 実を結ぶことのない花は、時が経てば色褪せた花弁を静かに落としていくのかもしれないけれど。

 儚く消えるその瞬間まで、私はその花を大切に心に咲かせていたい。





 座り直すと、下まぶたが受け止めていた涙がぽろりと零れた。

 気恥しくて「へへ」とはにかむと、優希も「ふふ」と微笑んで、「夕飯前だけど甘いものでも食べよ!」といそいそとメニューを差し出してくれた。


 🐶


 季節限定の栗のごろごろパフェを食べてしまったせいで、結局母の用意してくれた夕飯は半分も食べられなかった。


 部屋に戻り、隅っこにしばらく放置してあった箱の蓋を開ける。


 そこには編みかけのオフホワイトのメンズセーターが、Alenaアリョーナの名の毛糸や棒針と一緒になって窮屈そうに縮こまっていた。





 澱を流した今、私はこのセーターに再び向き合える。





 片思いで終わるなら、たとえ池崎さんに思いを告げたとしても、このセーターを受け取ってはもらえないだろう。


 このセーターも、自分の気持ちも、行き着く先にあてはない。


 それでも私は思いを形にしたい。

 形にすることで前に進んでいきたい。






 膝に掛けたブランケットをカリカリと引っ掻いて、チョコ太郎が膝に乗せてとアピールする。


 ベッドに腰掛けた私が編みかけのセーターを持ち上げると、ぴょこんと乗ったチョコ太郎がストンと腰を落ち着けて丸くなる。


 ちょっと邪魔だなぁと苦笑いしつつも、膝から伝わる温もりがチョコ太郎からのエールに感じられて、私は棒針を動かし始めるのだった。

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