第8話 賢くて愛情深いパピヨンは、家族のストレスを敏感に察知したり、周囲の状況に過剰反応して神経質になることもあります。ドッグスポーツや躾で様々な経験をさせ、自信を持たせることで落ち着きます。

「あ~。今日もいるねぇ……」


 チョコ太郎と私は藤の木公園の入口で立ち止まる。

 芝生の広がる公園の中では、お揃いの緑色の帽子をかぶった子供たちがわぁわぁと駆け回っている。

 この春、公園の近くに開園した保育園の園児達だ。

 お天気の良い日は、狭い園庭から外へ出てこの公園で遊んでいるらしい。


 以前、定休日の午前中にチョコ太郎と散歩に来たときのこと。

 園児達がやって来て「わんわん~!」と取り囲まれ、チョコ太郎がもみくちゃにされた。

 普段は子供にも愛想のいいチョコ太郎だけど、加減を知らない大勢の子供たちに尻尾や耳を引っ張られたりしたのは相当なストレスだったみたい。

 それ以来、園児達が公園にいるときには散歩のルートを変えるようにしているんだ。


「そろそろ新しいお散歩ルートを考えないとだね」

 私が踵を返すと、チョコ太郎も ”他の公園に行こっ♪” と回れ右して、前足を軽やかに上げながらトコトコと歩き出す。

「この辺でお散歩向きの公園っていったら……椎名川親水公園かなぁ」

 小学校の校区が違ったしあまり行ったことはないけれど、時々通りかかるときに見える公園の景色は、遊具が少なくのんびりした雰囲気で悪くない。


 歩いて20分くらいかな。少し遠いけど天気もいいし、のんびり歩くとしよう。

 チョコ太郎と一緒に、アスファルトの隙間に咲く遅咲きのタンポポや、塀越しに顔を覗かせるバラの花を見ながらゆっくり向かう。


 歩きながら時々ふと考えるのは、池崎さんのこと。


『そういうの、僕、いいんで』


 あれは、私には全然興味ないってことだよね。


 池崎さんにとっては、私はアリョーナのトリマーで、たまたまサークルに入ってきた女の子で、それ以上でないことは確かだ。

 彼女いないって聞いてほっとしたけど、この位置から “それ以上” になるにはどうしたらいいんだろう……。


 川沿いに広がる椎名親水公園に到着した。

 椎名川を挟むように両側に遊歩道が伸びていて、公園はその遊歩道をさらに挟むように芝生が延び、ベンチや藤棚が点在している。

 五キロ先の海岸まで続いている遊歩道はジョギングやウォーキングをしている人のほかに犬の散歩をしている人も多く、芝生広場は憩いの場といった趣きで落ち着いている。


 うん、ここは犬の散歩にちょうど良さそう!


 青々とした枝を広げる桜並木が適度に日差しを遮る中をチョコ太郎とのんびり歩く。

 すれ違う犬たちと挨拶を交わしながら二つ目の橋を通り過ぎ、三つ目の橋で折り返して戻ろうと思ったとき。


 突然チョコ太郎がぐいぐいとリードを引っ張って橋を渡ろうとした!


「チョコ太! どこ行くのっ!?」


 リードをピンと引っ張ったまま、後ろ足で立ってピコピコと尻尾を振るチョコ太郎の視線の先を追うと──


 池崎さんとアリョーナだ!!


 ライトグレーの薄手のパーカーを羽織り、ブラックデニムのスキニーパンツを履いた池崎さんと、そよ風に白い被毛コートをなびかせて颯爽と歩くアリョーナ。


 あのパーカーは反則だ……。


 首の後ろに垂れ下がる大き目のフードが妙に少年っぽくて可愛い。

 普段のクールな雰囲気とのギャップがありすぎて身悶えしそう……!


 ハイテンションなチョコ太郎にアリョーナが気づき、こちらへ来ようとリードをくいっと引っ張った。

 池崎さんがそれに気づいて顔を向ける。


「ああ、こんにちは」


 アーモンドアイがほんの少し細くなる。

 口角が微妙に上がる。


「散歩で会うの初めてだね」

 アリョーナの歩みに任せた池崎さんが近づいてくる。

 やだどうしようどきどきしちゃう。

 こんなことなら、もうちょっと小綺麗な格好してくるんだったなぁ。


「いつも行ってる公園が保育園児に占領されちゃってて。

 池崎さんはいつもここでお散歩してるんですか?」

「家がわりと近いからね」

「お休み、火曜日なんですか?」

「休みは不定期なんだ。土日もネットショップの発送があるし、取引先との商談が入ったりするから」


 そっかぁ。じゃあ今日たまたま会えたっていうことなんだ。

 神さまありがとうっ!


 心の中で手を合わせつつ、挨拶をすませた犬たちと共に川沿いを歩き出した。


 ゆったりと優雅に歩くアリョーナの横で、ちょこちょことせわしなく足を動かすチョコ太郎。

 でも不思議と歩くスピードは同じ速度を保っている。

 リードを手に持ち、並んで歩く犬の後ろで必然的に並んで歩いている私達。


 こ、これは嬉しい……!

 池崎さんと並んで歩いているなんて!


「散歩、今来たところなの?」

「いえ、ちょうど折り返そうと思っていたところなんです」

「そう。僕たちも引き返すところだったから、出口までは一緒だね」


 この公園、今すぐ出口のない迷宮になってくれないだろうか。

 300メートルの距離なんてあっという間すぎる。


「そういえば、セーターはどこまで編めたかな?」

「前身頃の半分くらいまで編めたんですけど、袖ぐりの減らし目がわからなくて」

「じゃ、それは今度のサークルで教えるよ」

「お願いします」


 会話をしつつも、頭の中はタイムアップ寸前のクイズ回答者のように焦りまくっている。


 せっかく会えたこのチャンスを生かしたい!

 出口までになんとか池崎さんを誘いたい!

 でも何て言って誘う?

 どこへ誘えばOKしてもらえる?


 二人きり(犬はノーカン)で会う約束を、どうやったら取り付けられる?


「難しい顔して、どうかしたの?」

 訝しむ池崎さんの声ではっと我に返る私。


「いえ!なんでもないです!」

「そう」


 二人ともしばらく犬を見つめ、沈黙の気まずさを紛らわす。

 出口に立てられた、車の侵入禁止のためのポールが見えてくる。

 そろそろ誘わなきゃ、バイバイするだけになっちゃう……!


「あの……っ! これからも……」

「アリョーナのシャンプー、いつも君がやってくれてるの?」


 勇気を振り絞って出した私の声に、いつものごとく池崎さんがかぶせてきた。

「へ……? え、ええ、そうですけど」

 エンジンふかして急発進したのに、直後に止められて言葉がつんのめったよ!


「アリョーナはシャンプーあんまり好きじゃなくて、一度行ったトリミングサロンは次に連れて行こうとしても嫌がっていたんだ。

 そのせいでサロンジプシーになって、店選びに毎回苦労していたんだよ」

「そうだったんですか?」


 確かに、母のシャンプーは嫌がるけれど、私には大人しく洗わせてくれるから意外だった。


「アリョーナ、いつも良い子に洗わせてくれてますよ?」

「うん、そうみたいだね。ルシアンにしてから、お店の前で踏ん張って嫌がることがなくなったんだ」


 アリョーナの白い背中を見つめながら話していた池崎さんの視線がこちらを向く。

 アーモンドアイが細まる。

 目尻が少し下がる。

 形の良い唇の端が引き上げられて、白い歯がこぼれる。


「アリョーナはココちゃんが気に入っているみたいだ。

 これからもシャンプーよろしくね」


 うわぁ……! 

 池崎さんが笑ってる……! 


 私に向けられたその笑顔に背中を押された。

 頭の中は真っ白なままなのに、口から自然と言葉が飛び出す。


「あの……!

 またこの公園で会えますか……?

 一緒にお散歩させてもらっても、いいですか?」


 池崎さんは、ほんの少し目を丸くして、今度はいたずらっぽい笑顔になった。


「いいよ。

 君が僕のテリトリーに入ってくるのはわかっていたしね」


「え? それってどういう……?」


 私の疑問は聞こえないかのように言葉を続ける。


「休みは不定期だけれど、会社の後、夕方6時くらいによくここへ散歩で来てるんだ。

 またここで会えるんじゃないかな」


 公園の出口に着くと、池崎さんは「じゃ」と片手を上げて、アリョーナと橋を渡っていった。


 丸太にしがみついて漂流していた先に、取り付く島がかすかに見えてきたような気がした。



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