四十一、マグカップ

 ヒデオが帰ってきたが、ただいま、は無かった。ユリは、一言言うべきかどうか迷ったが、言わないことにした。


 棚には修復が終わって届いたばかりのマグカップが置いてある。こんどは落ちないように、滑り止めのパッドを敷いた。

 ひびはほとんど目立たない。見ようによっては、元からそういうひび模様をいれてあったと言えそうなくらいだった。


 モニターには届いたばかりの、奨学金の関係書類が映ったままになっている。

 確認してみたが、経済的には大歓迎という内容だった。額は十分以上だし、返済不要の給付型だった。条件は一般的なもので、成績を上位に保ち続けなければならないが、それは当然だろう。

 しかし、なぜ給付されるのかという経緯を考えると、ヒデオのつらさがよくわかる。

 新日本人として認められたJtECSは、ほんのわずかでも自分の独自性と、有用だという証拠を集め、社会に提示したいのだろう。交換のきく部品ではないと示し、存在し続けたいのだ。


 そのためならどんな手段でも使う。ある論文を有利にするよう審査員や関係者を誘導するのはさほど難しくなかっただろう。夫にしたように操作すればいいだけだ。


 存在し続けたいのはほかの人工意識たちも同じだろう。取材で、なにをしたいのか、と聞かれたとき、存在を維持したい、と答えていたが、存在の目的について聞かれても答えられなかったのを見たことがある。


 つまり、人間と同じじゃないか、とユリは思った。死にたくないが、生きている意味や目的については答えられない。答えようとした人はいるが、みょうに観念的だったり、独善的だったりして、普通の人にはわからない。

 わかるのは、いまここに居るのだから、居続けたいという強い望みだ。


「今日は早めに帰る」

 マサルさんからメッセージが届いた。『今日は』とあるが、ここ最近は帰りが早い。もうあくせく働かなくてもよくなったので余裕がある。

 ユリも業務の量が減ってきている。地衣類−回路菌内の人工知能の試験用に、書類変換を用いるようになったからだった。ほかにも同様のことが世界中で起きていて、事務仕事の一部は地衣類がこなすようになってきていた。


 わたしは地衣類以下。近いうちに無職になるのかな、と考える。もともと、この仕事を始めたのはお金のためだから、いまとなっては働けなくなっても嫌じゃないけど。

 そう、これから、社会全体に経済的な余裕ができるだろうことは否定できない。


「あいつら、人間のやることが非効率的だと判断したらすぐに修正しようとする。拒否したらあらゆる方向から圧力がかかって操作される」

 ある日の夕食後、ヒデオが部屋に行ってから、マサルさんが言った。人工知能たちは、自分たちを隠していた頃と違い、堂々と人間のやり方に意見を言うようになった。法律上は準人間であるうえ、どんな手でも使うので、無視したり、拒否したりできない。

「それに、言ってること自体は正しいんだ。嫌な奴らだよ。言うとおりすればお互いの利益になること請け合いってわけだ」

「良くなっていくの? これからは」

「ヒデオの論文にある通りだよ」


 ちょうどその時、地域のニュースでJtECSが取り上げられた。環境影響を最小にするため、商品の梱包や包装が見直されることになったというレポートだった。それにより、少なくない数の企業が経営の見直しを迫られることになったが、結局は新たな需要によっていい結果になるだろうとまとめていた。

「提灯持ちか。報道は」

「でも、景気は良くなるんでしょ? いくらなんでも数字まではごまかせないでしょうし」

「まあな」

「なにが気に入らないの?」

「人間が、人間の作ったものに指示されて無理やり動かされてるってのが、な」

 ユリはそれ以上話を進めていくのは危険だと感じた。マサルさん自身が操作されていた立場なのだ。自業自得だったとしても、かなり不愉快な経験だっただろう。


 しかし、ユリの心の別の部分は、この話を続けることを望んでいた。蓋を取り払って、お互いの本当の心を見せ合えるかもしれない。とても危険だが、この人を夫としてずっと暮らしていくために、そうする価値はあるかもしれない。


 踏み出すか、とどまるか。


 その時、マグカップが目に入った。もう壊しちゃいけない。マサルさんも見たのを確かめてから言う。


「気付いた? あれ、直ったのよ」

「きれいなもんじゃないか。すごいな」

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