目覚め (2)

 ヴァルツは森の王、草木を統べ、その扱いに長ける。薬草の知識や食用の茸、木の実を見分ける術はゼロにとっても有用なものだった。それらを教えてもらいながら、寝るばかりだった身体を起こし、立ち上がり、それなりの距離を歩けるようになるまで一月。萎えた身体を鍛えて絞り上げるまで三月。

 森での暮らしは悪くはなかった。良くもなかったが、少なくとも危険はなかった。ヴァルツの支配下にあるというこの森においては、狼も熊も猪も寝床から遠ざけられている。物盗りの類だけでなく、猟師や樵の姿も見えない。

 人の目を気にせず走り回り、樹に登り、好きなように動き回れるのは有難いことだった。身体を苛め抜く単純作業の繰り返しは、波立つ内心を鎮めるのに役立つ。ともすれば失われた記憶について詮無い考えを巡らせがちな頭をからっぽにできる。

 傷が塞がり、起きて歩けるようになった喜びよりも、運動らしい運動もしていないのに息が上がり、膝が震えた屈辱の方が大きかったものだが、どうにか取り戻せた。上体を捻り、飛び跳ね、腿を代わる代わる上げる。


「……まあ、こんなくらいかな。いや、まだ鈍いか。なかなか元通りにはならんもんだな」

「元を覚えていないくせに」


 ヴァルツはぎこちない笑みを浮かべ、ゼロが走り、懸垂し、腕立て伏せをし、と日課をこなすのを眺めている。精霊が人の世の習わしに縛られる存在でないことは承知しているが、飲み食いせず、眠らず、退屈を知らない様子であるのにはいつまで経っても慣れなかったし、人形のように整った外見と、がさつな振舞いがどうにも噛み合わない。

 ゼロは自分自身に関わることを全く覚えておらず、思い出すこともできなかった。頭の中に靄がかかった、という様子ではなく、元から存在しないと言われても納得しそうなほど、手がかりも何もなくきっぱりと断絶している。それでもふとした瞬間に、過去や記憶について考えてしまうわけだが。

 ヴァルツの言うように、「元」を覚えているわけではない。けれどもゼロが蓄えた常識が忘れずに残ったように、身体を動かす感覚は身体自身が覚えていて、違う、まだだと訴える。

 特に腰と腹周りが甘い気がするのだが、あの傷と中身を目にし、そして再び塞がるまでを眺めた日々の後では、徹底的に苛めてやろうという嗜虐心もたたらを踏むのだった。

 今後、腸詰め肉が食べられる気がしない。しかし。


「……肉が食いたいな。何かこう、じゅうじゅう焼いたやつ」


 ヴァルツが手に入れてくる食材はほとんどが森の恵みで、言うなれば小鳥の餌だった。川魚は小骨が多くて煩雑だし、ならばと手頃な石をいくつか拾って兎や鹿を狩ろうと試みたが、思いつきで野生の獣が狩れるほどゼロは野外の生活に慣れておらず、兎も鹿も間抜けではなかった。飢えているわけではないが、肉を欲していた。


「では、人里に出てみるか。大分歩けるようになったようだし」

「いいのか」

「いいも何も。私は君を監禁しているわけではない」


 ヴァルツは背後の茂みをごそごそと探って、一振りの剣ときちんと折り畳まれた衣服を取り出した。


「君を見つけた時に握っていた剣だ。汚れていたから……そのままでは剣が駄目になると思って、知り合いに手入れを頼んでいた。こっちは、見ての通りだ。人の目があるところに行くなら、きちんとした格好をしたほうがいいだろう」

「そりゃそうだ。助かる」


 ゼロは紐で前を留める形の患者服をずっと着ていた。天気の良い日に洗濯するし、剃刀はヴァルツがくれた。川で身体も髪も洗っているが、ちゃんとした服を着るのは久しぶりだ。柔らかい織りのシャツとベストを着てズボンを穿き、長靴の紐を締める。ベルトと腰に吊るす形の物入れ、墨色の外套を順に身につけた。古着のようだが、どれも清潔で身体に馴染んだ。

 目覚めてからヴァルツ以外の誰にも会わなかったので、もしかするとここは人の世ではないのでは、などと考えることもあったが、こうして身形を整えるとちゃんと地続きであると思えた。胎児が産声を上げるように、雛が殻を割るように、ゼロはここを出て人里へ出てゆくのだ。

 自分が何者であるのか、何をして生きていたのか、家族はあるのか――何もわからないままに人と交わるのは恐怖だが、前向きに考えれば、ゼロのことを知る誰かと出会う可能性だってある。それほど悲観すべきことでもなかろう。

 剣を眺める。特注品だろうか、柄には紋章が彫り込まれていて、身元を探す手がかりになりそうだった。誰のものかまでは特定できずとも、この紋章を知っている者はいるかもしれない。

 精緻な装飾の施された鞘を払うと、研がれた鋼鉄が木漏れ日を弾いて煌めく。剣身は指三本ほどの幅、長さは丁度右腕と同じ。輝く剣身は精霊封じの技法か。握りにも違和感はない。良い剣だった。

 長剣の手入れをできるような知り合いがヴァルツにいるのか、と不思議に思ったが、これも問わない方がいいだろうか。


「おれの剣だと思う」

「言っただろう、君はそれを握って倒れていたんだ」

「それもあるけど、こういう長剣は普通、腕の長さのものを持つんだ。短い分には構わないが、これより長いと鞘を捨てずには抜けないからな。手に持たないなら話は別だが」


 ほう、とヴァルツが感心したように頷く。力を入れずに柄を握り、二、三度振ってみると、重みが心地よく肩に伝わってきた。同時に、長時間振り回すにはまだ体力が足りないこともわかった。


「短いと、間合いも狭くなるし不利なことが多い。だから騎士は皆、腕の長さの剣を持ってる。女でも腕の長さの剣を扱えれば騎士と認められる」

「詳しいな。君は、騎士だったわけだ」

「……かもしれない」


 知識はすらすらと口をついたが、断定されると自信がなくなる。どうやっても、この森で目覚めるまでの記憶が一切思い出せない。まさに、ゼロ、だ。

 それでも、ある程度の常識をもって話し、考えることができ、剣が使えそうだというのは有難かった。剣で稼ぐことができるだろうし、最悪、質に入れてしまうこともできる。


「そうだ、肉の前にまず稼がないと。あんたはいいかもしれんが、おれは食わないと死ぬ」

「立派な心がけだ」


 これまで水や食料を与えてくれたように、当座の生活費を何とかしてもらえたりするのかとヴァルツを見遣るが、輝く翠の眼はどこか遠くを見つめていた。この精霊には、生業とか、生活とか、金銭とか、そういった概念はあるのだろうか。ないと、ゼロが困ることになる。


「君を拾ってしまった以上、私にも責任はあるし、いきなり放り出すのも酷だろうから、しばらくお供するよ。どうやって生きていくのか、興味がある」


 どうやら、人間の生活について、多少は知識があるようだ。言いつつ、右腕を一振りして蔓草を取り出すと、剣を吊れるように編んでくれた。手品めいた仕草にももう驚かない。背負ったりぶら下げたり、あれこれと試してから左腰に落ち着ける。


「じゃあ行こう」


 ヴァルツは先に立って森を進む。道などないのに、ヴァルツが通るとそこが道であるような気がするのが不思議だった。

 精霊。そう、精霊だからだろう。女神の創りたもうた世界を彩る存在。光が輝き、風がそよぎ水が流れる、それらはすべて精霊の働きだ。


「……あれ」


 世界を創ったのは女神。ならばその一部である、精霊も女神が創ったのか。そのくせ、女神は――女神教は、精霊を異端と言うのか。

 異端。精霊を狩れ。半精霊を捕えろ。耳の奥に響くのは、知識か、それとも過去の経験か。どちらでもいい、世間ではそう言われていると知っているし、それが違うということも知っていた。

 圧倒的な違和感に、顔を顰める。

 知識が相反する。どうにかして折り合いをつけていたような気がするのに、どうしていたのだったか思い出せない。飲み込めない小骨が喉に残ったような気持ち悪さだけがある。

 異端。排除。精霊封じの剣を持つゼロ。過去の己。

 精霊は珍しいのでも、異端でもない。すぐ傍に、たくさんいる。在る。それをうまく説明する言葉を、ゼロは持たない。


「……なあ、ヴァルツ、おれの剣に封じられている精霊って、何だった?」

「風」


 振り返らずにヴァルツは答える。風、と繰り返しても、虚無に喚起されるものはなかった。


「精霊封じの武具って、半精霊が造ってたはずだ。工房が……どこだったっけ。くそ、地図が欲しいな。何か思い出せるかもしれない」

「唯一の手がかりだからな。村で訊いてみよう」


 ヴァルツの案内でひたすらに森を歩く。生き物の気配はあるのに、やはり誰にも会わない。気詰まりというわけでもないが、今のうちに訊いておくべきことは訊いておいた方がいいだろう。


「ところでさ、この服とか……手当に使った包帯だとかはどうやって手に入れたんだ? 森にあるものじゃないだろ」

「拝借してきた」

「拝借って、どこから」


 色々だ、とヴァルツははぐらかした。そういえば焼きたてのパンを出してくれたこともあった。これが手品ではないのだとすれば、ゼロの想像の及ばない精霊のわざなのかもしれない。あまりお上品な手ではないようだが、他でもないゼロがその恩恵にあずかっているのだから、文句の言えようはずもない。どうせならば銅貨なり銀貨なりを出してくれればいいものを、どこかずれている。

 剣一本から身元を明かし、記憶を取り戻せるものだろうか。知識は残っているから、記憶はないならないで構わない。汚れた剣を持っていた自分が、はらわたが見えるほどの傷を負って死にかけているなんて、余程のことがあったに違いないのだから。忘れたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。


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