インフィニティ

凪野基

序章 伏せられた手札

旅立ち

旅立ち (1)

 雪のちらつく日が増えた。冬の足音がすぐそこにまで迫っている。

 自治領エージェルの冬は長い。雪が道を塞ぎ、寒さが集中力を奪う。氷混じりの風は外套を凍らせ、日中の泥濘は体力を削り取る。旅人たちには厳しい季節だ。

 人々が家に籠もりがちになるから、仕事が減る。稼ぎも減る。食わねば飢える。雪国において、一冬を越すつらさは万人に等しくしかかる。雪解けの春も、鮮やかに萌える夏も、平穏な秋も、すべてが冬を越えるための準備に充てられていると言っても過言ではなかろう。

 それでもシャイネは冬が好きだ。つつけば雪が降りそうな低い灰色の雲も、色褪せた空も、目に寂しい野山も、雪がすべてを閉ざした静寂も。エージェルに住む者は大半がそうだろう。


「今日はキムたちが戻ってくる。きっちり掃除を頼むぜ、シャイネ」

「はい!」


 ケインに肩を叩かれ、大きく頷く。キムとフェニクスとリアラ、凄腕の狩人である三人が二週間ぶりに戻ってくる。今夜はどんな土産話が聞けるだろうと頬が緩んだ。

 出立を見送った旅人たちが帰還するのは何よりも嬉しい。彼らが無事で、手に汗握るような武勇伝が一緒ならなおのこと。牡鹿の角亭で働き始めて二年と少し、旅人たちがくつろげるように寝台を整え、部屋を掃き清めて花を飾り、窓をぴかぴかに磨く毎日の仕事は、少々退屈ではあるけれども誇らしいものだった。雑巾とバケツを持って、客室に上がる。

 そろそろキムたちも冬備えをするだろう。長めの滞在になるかもしれない。いかな凄腕の狩人であっても、凍てつく冬に閉ざされては手も足も出ない。

 風の精霊が頬を撫でる冷たさ、そこに混じる水の精霊の息吹は雪の前兆だ。西から吹く風は海の上で水をさらって、雨や雪になる。降水量の少ない春から秋には軽やかに舞い踊る風たちが、つんと澄ました水を伴ってやってくると雪――冬の到来だ。

 寒くなるよ、雪になるよと風が歌う。そうだね、と声に出さず呟いた。


「シャイネ、ぼんやりしてんじゃねえ、落っこちるぞ」


 薪を調達するために庭に出たケインがこちらを見上げている。はあい、と負けじと声を張り上げ、窓拭きを再開した。

 牡鹿の角亭は一階が食堂で、二階と三階を宿として提供している、どこの町村にもある形式の宿だ。寝台の数は全部で四十ほど。規模としては中くらいだが、季節を問わずにいつも盛況なのは、シャイネの気配りのためでも、おかみのマーサが腕をふるう評判の煮込み料理のためでもなく、それらに加えて旅人たちの交流所を兼ねているからだった。

 戸口の脇には大きな掲示板があり、仕事の依頼書が所狭しと留められている。魔物狩り、隊商の護衛、遠方への届け物といった専門性の高いものから、樹木の切り出しの人足や堤の工事、田畑の開墾などの力仕事、子守りや蜂の巣の除去、引っ越しの手伝いなど日常の雑事にまで、依頼は広範囲にわたる。

 街道の終着地にして出発地でもあるこのリンドには、牡鹿の角亭の他にも宿屋は多くある。だが、旅人たちに仕事の斡旋をしているのは牡鹿の角亭のみだ。

 こういった宿は他の町村にも大抵あって、旅人たちは含みを持たせて「宿城やどしろ」と囁き交わす。まずは宿城の親父に顔を見せておけ、話はそれからだ、と。

 牡鹿の角亭は代々宿城として営業してきたそうだ。当代であるケインは、親父も、祖父さんも、そのまた祖父さんも、宿城と行き交う旅人たちを見守ってきたんだ、と胸を張る。


「最初は文字通り、旅立つ人……ふつうの旅行者を見送るのが役目だったんだ。ところが、街道が整備されたり馬車の定期便が出たり、あちこちへの行き来が楽になるにつれて、旅行者が護衛だの魔物狩りだの、便利屋稼業を兼ねるようになってきた。それで、旅行者と旅人って言葉が分けて使われるようになった頃に、うちの何代か前の祖父さんが思い立って、旅人に仕事を斡旋する副業を始めたんだよ。小銭稼ぎのつもりだったんだろうが、これが意外に当たってな。今じゃこうして宿城を名乗るまでになったってわけだ。……まあ、どこまで本当の話かわからんし、宿城を始めたのはウチが最初だって所がたぶん各地にあるんだろうけどな」


 へええ、とシャイネは感嘆の声を上げる。宿城という言葉は旅人だった父から聞いて知っていたが、実際に毎日のように旅人たちがやってきて、無事に帰った、初めて来た、明日出立する、世話になった、などと挨拶してゆくのには驚いた。煌びやかな憧れの舞台を覗き見たようで、どきどきする。いつかあたしも、こうして慣れた風に挨拶できるようになるんだろうか、と想像しては赤面した。

 旅人たちが挨拶にやってくると、ケインはいちいち作業の手を止めて、おうお帰り、楽しんでいってくれ、気をつけてな、などと気さくに声をかける。宿泊したお客の顔も旅人の顔も全部覚えている、というのが彼の自慢だった。


「もちろんレンさんのことも覚えてるぞ。そりゃあ凄かったんだ、レンさんは。『天雷』なんて二つ名でさ、俺と同い年なんだけどよ、こうも違うもんかねえっておふくろがかすのが腹立たしかったんだが、今思えばそれも納得だよ。いや、ほんとに。レンさんが狩人としてこの辺りの魔物を叩き回ってくれてたから、リンドの周りは安全だって南のカヴェくらいまで評判だったんだ。レンさんが二十年ばかり前にやってくれてたことを、今やってるのがキムたちってわけだ。有難いことだよ」

「そっか。リンドの周りは危険だって噂が立つと、誰も寄りつかなくなるんですね」

「そういうこと。金目当てのごろつきみたいなやつが魔物退治を請け負いましょう、なんてでかい面して来たりもするが、そういう奴らの方が魔物より性質が悪いなんてこともざらだしな」


 昔を知る元旅人や、古くから牡鹿の角亭に出入りする商店の者は、シャイネの父、スイレンのことを懐かしげに語る。シャイネは引退してからの父しか知らないが、父の活躍を耳にするのは心躍ることであり、そして同時に気恥ずかしくもあり、その嬉しさと甘酸っぱさはかすかな悔しさをも伴った。今のシャイネの歳には狩人として各地の魔物を相手にしていた父と、未だ何者でもない自分と。

 比べることに意味はなくとも、比べてしまう。

 父さんのように凄腕の狩人になれるだろうか。自分の腕一本で食べていくことができるだろうか。どうしたらそんなふうになれるだろう。口に出せない期待や憧れは、いつだってきらきらと七色に輝いている。

 父は実戦的な剣の扱いを、母は精霊を使役するすべを教えてくれたが、旅人になりたい、できれば狩人になりたい、と打ち明けたときには、ふたりともあまりいい顔をしなかった。


「どうしてそう思った?」

「……どうしてって。理由はないけど、何となく旅人になるような気がしたの」


 父は黙って、暖炉の火の揺らめきを見つめていた。炎の精霊が真摯に父を見つめ返している。怒られる雰囲気ではなかったが、これでは足りないのかと必死に言葉を探った。


「えっとね、父さんの脚のことはちゃんとわかってるよ。それでも、父さんと母さんが出会ったところとか、見てみたいし」

「そうか」


 父はそれ以上何も言わなかったが、わずかに唇が震えたのをシャイネは見た。旅暮らしを止める原因となった、曲がった脚を撫でて、じゃあ、と壁際を指差す。


「せっかく精霊を封じてもらったんだ、ディーを持って行きな」

「いいの?」

「シャイネが持ってる方がディーは喜ぶさ。なあ?」


 ディーはのそりと蠢き、日向で微睡む猫のように緩慢な仕草でシャイネを一瞥した。


『……まぁね』

「それと、いくつか条件がある。今すぐ旅人として街に出たって、何の実績もないひよっこに仕事を頼もうとか、組んでやろうって奴はいない。わかるよな? だからしばらくは旅人がどんなものか、何をしてるか、何を食ってどんな仕事をしてどれだけ稼いでるか、見て覚えろ。紹介状を書いてやるから」


 というようなやりとりがあって、父の剣ディーと牡鹿の角亭の主人宛ての手紙を携え、シャイネは最北端の村ノールからここ、リンドまで田舎道を南下してきたのである。馬車一台が通れる幅しかない道を、ひたすら歩いてきた。

 進むに従って、尖った木の枝に細い葉がつき、緑が増えた。大地にしがみついていた苔や草が次第に豊かになり、空に向けて背を伸ばし花をつけた。空の色は濃くなり、白い雲は眩しく、陽の光は矢のように、熱を持って明るく降り注いだ。

 精霊たちの様子も異なった。雪を運ぶ水はなりを潜め、大地や鉱(いし)がのどかに歌い、森が浮き足立つ。風が舞うさまも、心なしか楽しげだ。

 地図を見ればリンドも中央線よりかなり北にあるが、ノールとは比べようもなく色彩にあふれ、過ごしやすい。まれに、大地の北端を見てみたいと意気込む旅人たちがリンドを越えて北に向かったが、戻ってきた時には大抵がほっとした顔をしている。そして口を揃えて、雪と氷しかない、でも温泉は最高だった、と言うのだった。

 目新しいものばかりだったリンドの光景も、二年を経てようやく日常となった。ケインの口利きで、旅人たちが装備を調えるための買い出しに同行させてもらったり、どのくらいの日程の旅にどのくらいの食料、水、着替えなどが必要か、その他に何を備えておくべきか、雑嚢の中身を見せてもらったりもした。

 砥石、ランタン、油、蝋燭、火打ち石、石鹸、鍋と器、匙、ナイフ。石鹸、消毒用の酒、包帯や傷薬、各種薬草、毛布や油紙、着替え、雨風除けの外套。雑嚢からは驚くほどたくさんのものが取り出され、旅人はそれをきちんと小分けにして管理している。現金のほかに、宝石や本や古地図など換金価値のあるものを持ち歩いている者もいた。


「現金は盗まれたら終わりだけど、モノなら換金できる場所に限りがあるから、取り戻せはしないにしろ、まあ……腹いせはできるかもしれない」

「腹いせ」

「ちょっと、変なこと教えちゃだめでしょ」


 キムの後ろ頭をリアラがべしんとはたく。普段は口数の少ないフェニクスが、遊戯盤の駒のような木片を見せてくれた。


「一番いいのはこれ、手形だ」

「手形?」

「誰がいつどこでいくらの金を預けた、って印が全部これに刻まれてる。これと引き替えに手形商に金を預けて、必要に応じて引き取りに行く」


 シャイネは首を傾げる。


「じゃあ、手形商のところにはみんなが預けた大金があるってことだよね。泥棒に狙われたりしない?」

「そうならないように厳重に保管されてるし、護衛だってついてる。その手形商にお金を預けてる旅人や狩人全員を敵に回す覚悟があるなら、盗みに入るのも悪くはないかもね」


 大量の金貨を持ち運ぶにはそれなりの輸送手段がいる。つまり、目立つ。手形商を利用する傭兵や荒事専門の旅人、狩人、全員を敵に回す危険性には見合わない、ということだろう。


「うまくできてるんだ」


 感心していると、キムが笑った。


「そうやって、便利な仕組みがどんどんできていくわけだ。街道だって拓いた人がいるし、宿城も始めた人がいる。俺たちはそれに乗っかってるだけさ」


 何でもないことのように言うキム、ヨアキム・ジェファーソンも、狩人としてリンドに多大な貢献をしている。南はカヴェ近郊、北はノールまで、キムとリアラとフェニクスは旅をしつつ魔物を狩る。

 魔物は冬だから、雪が降るからといった理由で破壊の手を休めてはくれない。雪に紛れて姿を現し、破壊の限りを尽くす。人を襲い、家畜を喰い、家屋を踏み壊し、冬備えの食料や薪を台無しにする。守るこちらも、雪のせいで足元が悪いからと指をくわえているわけにはいかない。生命が、生活がかかっているのだ。

 キムたちはエージェルいちの狩人だとケインは言う。彼らがいなければ、エージェルはとっくに魔物だらけになっていただろう、と。三人は旅人たちだけでなく、リンドをはじめとするエージェルの住人からも感謝と賞賛を捧げられる存在だ。

 そんなキムたちの帰りはまだのようだ。近くまで来たら、風が教えてくれるはず。

 リアラはまだ? 小声で尋ねると、まだだなあ、と風が応じた。のんびりした口調からするに、怪我などはなさそうだ。待ち遠しいねえ、と頷いておく。

 窓拭きを終えて、キムたちが使う予定の部屋を整える。寝台にぴんとシーツを張るのもうまくできるようになった。キムがくつろぐ部屋を掃除していることがこの上なく誇らしい。彼が狩人として活躍できるのは、この部屋でゆっくり休んでいるからだ。そんなふうにも思うのだった。

 掃除を終えてから一階に下り、前掛けをつけて昼の準備をはじめる。食事時はよその宿に泊まっている旅人や、リンドの住人たちも牡鹿の角亭を訪れるから、まるで戦場のようになる。目を回しながら小走りに注文と給仕を捌き、皿洗いと掃除を終えたら、ようやく休憩だ。

 今日はきっと夜遅くまでキムの武勇伝を聞くから、少し寝ておいた方がいいかもしれない。何と言ってキムたちを出迎えようか。

 キムたちの帰還があまりに楽しみで、目まぐるしい時間はあっという間に過ぎた。


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